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バスで行く「奥の細道」(その13) ( 「塩釜神社」) (宮城県 )




(写真は、最期まで義経を守って処刑された藤原忠衡が寄進した灯篭)   

前回の「末の松山」に続き、今回は「塩釜神社」です。


そもそも、芭蕉の「奥の細道」の目的には、本来の”末の松山”などの「枕詞」(まくらことば)の
地をたどって行くこと以外に、もう一つの目的がありました。

それは、兄・頼朝から追討された弟・義経の逃亡の足跡をたどることでした。

「奥の細道」の根底に流れるのは”無常観”で、義経の一生はまさに栄枯盛衰そのもの、それが
芭蕉に世の無常を感じさせたためでした。

そして、ここ「塩釜神社」に芭蕉が立ち寄ったのは、最期まで義経を守って処刑された藤原忠衡を弔うためでした。


「塩釜(鹽竈)神社」は、塩釜市の北西部のこんもりとした森にあり、、古くから「陸奥国・一の宮」
として、東北地方を鎮護してきました。

1607年、伊達政宗は、紀州の大工を招き、塩釜神社の大道営を行いました。

更に、現在の社殿は、四代藩主・綱村が、1695年に着工してから、9年の歳月をかけて造られた
ものです。

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芭蕉は、早朝、清々しい雰囲気の塩釜神社に参詣します。

神殿の前には、金属製の扉の表面に「文治三年 和泉三郎 寄進」と刻まれた古い鉄燈が
ありました。


刻まれている文治三年は、源義経が、兄頼朝から逃れて、平泉に下った年です。



刻まれている寄進者の「和泉三郎」(いずみのさぶろう)とは、平泉の藤原秀衡(ふじわら ひでひら)の三男の忠衡のことですが、処刑される2年前に、この灯篭を寄進しています。

兄・頼朝から追討された弟・義経は、最後は藤原秀衡を頼って平泉に逃亡しました。

しかし、義経を庇護していた藤原秀衡が亡くなると、奥州藤原氏は、これを境に一気に勢いを
失い、四代・泰衡は、頼朝の命に屈して、義経を討つこととなります。

そんな中、忠衡の三男の忠衡(和泉三郎)は、父の遺言に従って、最後まで、義経を守って
戦います。


そして、最後は、義経に味方したかどで、23歳の若さで処刑されました。


芭蕉が塩釜神社を訪れたときは、奥州藤原氏の時代からは五百年が経っていましたが、芭蕉は、泉三郎の生き様を称えて、奥の細道に以下の様に書いています。



「神前に 古き宝燈有。

かねの戸びらの面に 文治三年 和泉三郎寄進 と有。

五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。」

奥の細道の全体の構成の中で、芭蕉のこの塩釜神社参詣は、既にみた「医王寺:義経を救った
佐藤兄弟の妻たち」と共に、これから向う「平泉」の章の伏線となっているのです。




我々のパック旅行のバスも、塩釜神社に到着しました。







急な石段を上って行くと、威厳のある二階造りの建物が見えてきます。



これが楼門で、桃山風の華麗な建築様式です。





楼門をくぐると上の写真の唐門があり、その奥に下の写真の別宮、左宮・右宮の拝殿があります。









境内には、前述の奥州・藤原三代・秀衡の三男の泉三郎が、文治3年(1187年)に寄進した
上の写真の「文治の燈篭」があります。




また、写真の鉄製の灯篭には、かねの戸扉が装着され、「三日月」の形にくり貫いた右の扉に
「奉寄進」の刻印が見られ、「日」の形に貫かれた左の扉に「文治三年七月十日 和泉三郎
忠衡 敬白」の文字が見られます。