本文へジャンプ
バスで行く「奥の細道」(その03:那須・黒羽)(栃木県)


 

(写真は、「芭蕉の館」の芭蕉と曽良の像 )

現在、奥州街道踏破を目指して歩いていますが、スタート早々に股関節炎が発症したため、
街道歩きに1日5キロ以内の制限が加わり、未だ、栃木県の大田原宿を抜けた辺りを
ウロウロしています。


街道歩きが趣味の私は、以前から、松尾芭蕉の「奥の細道」を歩く事にも興味がありました。

そこで、「奥の細道」のうち、奥州街道沿いの「黒羽・雲厳寺」、「殺生石」、「白河の関」等の
スポットにも立ち寄りながら奥州街道を踏破するつもりでした。


しかし、調べてみると、歩きの場合、これらの場所は、奥州街道から、とてつもなく外れていることが分かりました。
例えば、黒羽・雲厳寺は、奥州街道から20キロ近くも離れており、往復だけで2日もかかるため、とても歩いて立ち寄れる距離ではありません・・・

しかも、私の場合は1日5キロ制限もあり、これらへの寄り道を断念しました。

しかし、前から是非立ち寄ってみたいと思っていたスポットなので、奥州街道から大きく外れるこれらの奥の細道の史跡へは、別途、パックの
バス旅行で行くことにしました。

と言う訳で、歩かなくてもこれらの史跡を巡れる「奥の細道バスの旅」を申し込みました。



以下は、バス旅行で行った「奥の細道」の史跡巡りのご報告です。




1689年の春、 芭蕉は、隅田川のほとりの芭蕉庵を引き払って、船で千住に渡り、そこから日光街道で草加、日光を経て、下野国の城下町「黒羽」へ向かいます。

下野国(しもつけのくに:栃木県)の城下町「黒羽」(くろばね)へ向かったのは、黒羽の浄法寺図書高勝(じょうほうじ  ずしょ たかかつ)に招かれためでした。
高勝は、身分の高い黒羽藩の城代家老でしたが、芭蕉の門人(俳号:桃雪)でもありました。

このとき、高勝は20才台、芭蕉は40才台でしたが、高勝は礼をつくして手厚くもてなします。

この様に、黒羽では大いに歓迎されたこともあり、奥の細道の旅程では最長となる14日間も黒羽に滞在しました。

黒羽は、那須野が原の東南の端に位置し、面積の約70%を山林が占める山紫水明の山間部です。


我々のバス旅行は、芭蕉の足跡をたどって、「大雄寺」の駐車場にバスを止め、「奥の細道」の「黒羽」(くろばね)の史跡を巡ります。

「大雄寺」は、黒羽藩主だった大関家の菩提寺です。



大雄寺の駐車場の脇の坂道を少し上ると、芭蕉が14日間も逗留したという「浄法寺家」跡があります。





黒羽藩の城代家老だった浄法寺図書の屋敷は、現在は「旧浄法寺邸」として再現されています。


5,000平方メートルもあるという広大な屋敷跡の庭には、芭蕉句碑や東屋などがあり、「奥の細道」の当時の雰囲気が伝わってきます。



芭蕉は、浄法寺家のこの庭園と周囲の山河の美しさを下記の様に詠みました。



 ”山も庭も 動き入るや 夏座敷”

 (こちらの視線が山や庭に向かって動くのではなく、逆に向こうの山や庭が、自分のいる夏座敷に「動き入ってきたなあ」と感じた。)



なるほどね〜、こんなに広くて立派な屋敷で、毎日大歓待されたら、芭蕉と言えども、ついつい長逗留してしまいますよねえ〜。











現在、黒羽町は、芭蕉での町興しに力を入れているらしく、この旧浄法寺邸の周辺を「芭蕉公園」として整備して、
「浄法寺家跡」⇒「芭蕉の館」⇒「黒羽城跡」を巡る散策路が出来ていました。

この散策路の矢印に従い、「浄法寺家跡」から「芭蕉の館」へ向かいます。


「芭蕉の館」の館内には、芭蕉に関する資料の展示してあるらしいのですが、残念ながら、月曜だったので休館日でした・・・



「芭蕉の館」の前庭には、写真の「芭蕉と曽良のブロンズ像」がありました。





ブロンズ像の横には、「おくのほそ道」の中の一文で、那須野を訪れる芭蕉一行の様子を描いた上の写真の「文学碑」が建っています。

更に、文学碑の近くには、下記の「曽良の句碑」がありました。



 ”かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名成べし(ななるべし)”

これらの「ブロンズ像」、「文学碑」、「曽良句碑」は、黒羽での芭蕉一行の同じエピソードに
もとづくものなので、以下、三省堂の「奥の細道の旅」からそのエピソードの粗筋を紹介します。

奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂


芭蕉一行が、黒羽の浄法寺家を訪ねるために、那須野を横切って近道を
行こうとすると、雨が降ってきて日も暮れてしまいました。

そこで、農夫の家に一晩泊めてもらい、朝になって、また田舎道を歩いて
行きます。

(私の予想通り、奥州街道から大きく外れているため、芭蕉一行も、黒羽へ
歩いて行くのに苦労していますねえ〜。

そこに馬が一頭、草を食んでいたので、農夫に事情を話すと、農夫は親切に、
「この馬に乗って行って行って、この馬が止まった所で、この馬を引き返させて
くれるのであれば、馬を貸してあげますよ。」と答えました。

馬の後を、2人の子供がついて来ました。

一人は少女で、「かさね」という可愛い名前だったので、曽良は、「かさねとは 
八重撫子の 名成べし」と詠みました。

(「かさね」という名前は、八重咲きのナデシコの名だろうが、田舎には珍しい
優雅な名前だ。) 

まもなく黒羽着いたので、馬の鞍に謝礼を結びつけて馬を返しました。

馬は、熟知した道を戻って行ったのでしょう。

「芭蕉の館」の前庭の「文学碑」は、上記の黒羽へ向かう芭蕉一行の様子が
刻まれています。

また、「曽良の句碑」は、上記の様に、一行について来た少女「かさね」の名前
について詠んでいます。

芭蕉は、この少女「かさね」の名前が余程気に入ったらしく、後日、名付け親に
なった際に「かさね」の名を与えています。

そして、「ブロンズ像」は、黒羽を目指す芭蕉と曽良で、曽良の人差し指は、
黒羽の方角を指しています。


「芭蕉の館」から、矢印に従って、「黒羽城跡」(黒羽藩主・大関氏の居城)へ
向かいます。





黒羽城は、1576年、大関氏が、那珂川と松葉川に囲まれた丘陵に築いた山城
です。



以後、明治維新まで大関氏の居城でした。

現在は、城郭の土塁、水濠などが保存され、「黒羽城址公園」として整備されて
います。









(本丸跡)



 

本丸跡からは、那須、日光連山が一望出来ます。



(三省堂:奥の細道の旅から)