(写真は、江戸時代には細川藩の藩営の温泉だった 「ばんぺい湯」)
「日奈久(ひなぐ)宿」は、八代海に臨み、600年の歴史を持つ温泉です。
江戸時代初期には、細川藩の藩主の浴舎が造られ、以降、藩営の温泉として栄えました。
また、薩摩藩の藩主は、参勤交代の際、鹿児島から船で日奈久へ入港し、温泉を
楽しんだそうです。
大正12年、鹿児島本線が開通すると、遠方からも人が訪れる温泉観光地として大いに
発展しました。
先月、帰省した際に、その「日奈久(ひなぐ)宿」を訪れました。
熊本駅から「鹿児島本線」に乗り、八代駅で「肥薩おれんじ鉄道」に乗り換え、「日奈久温泉駅」
で下車します。
(日奈久温泉駅)
「日奈久温泉」の温泉街は、駅から少し離れた場所にありました。
地図を頼りに、徒歩13分、3号線の途中から旧道の「薩摩街道」に入ります。
写真は、なまこ壁の路地です。
日奈久宿には、今でも、白壁や木造三階建ての旅館が残り、薩摩街道の面影をそのまま
残しています。
また、昔ながらの土産物屋や共同浴場などもあり、昭和レトロなノスタルジックな気分に
してくれます。
そして、日奈久の旧街道沿いでは、なまこ壁が目を引きます。
なまこ壁というと、瓦をひし形に組んだものが多いですが、熊本県では水平に並べているのが
特徴です。
商家の中で一段と立派なのが、前頁の写真の明治時代の「村津家住宅」です。
外周をぐるりとしっくい壁で塗り固め、主屋と土蔵を一体化させた外観が特徴です。
説明板によると、なまこ壁には、火災発生時に類焼を食い止める役目があるそうです。
ちょっと見辛いですが、前頁の写真の赤丸印は、火災の際に、濡れたムシロを掛けるための
釘です。
写真の「ばんぺい湯」は、江戸時代には「御前湯」と呼ばれ、細川藩の藩営の由緒ある温泉
でした。
現在は、大衆浴場として多くの人に親しまれています。
街道沿いの日奈久の町は、細い路地が入り組んでおり、木造三階の老舗旅館が多いのが
目立ちます。
今晩の夕食を予約している上の写真の「金波楼」(きんぱろう:登録文化財)も、木造三階の
老舗旅館です。
(木造三階の新湯旅館)
以下は、薩摩街道沿いの町並みです。
上の写真は、山頭火の石碑で、「温泉はよい、ほんたうによい、ここは山もよし海もよし、
出来ることなら一生動きたくないのだが。」と刻まれています。
漁村でもあった日奈久には、上の写真の様に、恵比寿像があちこちで祀られています。
上の写真の家の土台の石垣が、江戸時代には、ここが旧海岸線だったことを示しています。
また、街道沿いには、上の写真の様に、日奈久名産の竹輪を売る店が散見されます。
薩摩街道を抜けると、国道3号線沿いの店には、大きな「晩白柚(ばんぺいゆ)」の1種の
「チャンドラ」が山なりで売られています。
余りの大きさと安さに、ついつい、ダンボール1箱分を買って横浜へ送りました。
薩摩街道を海岸の方へ向かって歩くと、日奈久港があり、写真の「西南戦争 政府衝背軍
上陸地」の標識が立っていました。
西南役の際、日奈久は、薩軍の後方支援基地だったので、官軍の標的になりました。
官軍(政府衝背軍)は、日奈久の沖合から艦砲射撃で援護しながら、6千人を上陸させました。
次頁の写真は、現存では最も古い明治10年の「八代屋旅館」ですが、二階の柱には、
西南戦争の時の艦砲射撃の弾痕が残っているそうです。
上陸を許してしまった薩軍は反撃することもなく敗走したため、上陸した政府衝背軍は、
熊本城を侵攻中の薩軍の背後を襲うべく北上していきます。