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電車で行く「薩摩街道」 (佐敷宿) 2018.3.24 




(写真は、佐敷宿の町並み)


最近は、町人に変装した徳川慶喜(松田翔太)が、品川宿で女遊びをしている
ところで西郷(鈴木亮平)に遭遇するなど、歴史的に有り得ないシーンに微妙に
テンションが下がりつつも、NHK大河「西郷どん」を毎回見ています。

(原作者の林真理子が、暴れん坊将軍のストーリーと間違えて書いた?)

それでも、毎週見ているうちに、西郷や篤姫も通ったという「薩摩街道」を歩いて
みたくなりました。



という訳で、3/16から3/24まで、熊本の実家に帰省していた間に、「肥薩
オレンジ鉄道」に乗って「薩摩街道」の宿場町へ行って来ました。


熊本駅から、鹿児島本線に乗り、八代駅で「肥薩オレンジ鉄道」に乗り換えます。



(熊本駅)

「肥薩オレンジ鉄道」は、熊本県の八代(やつしろ)駅から、鹿児島県の川内
(せんだい)駅まで、九州南部の西海岸の117キロ、28駅を走ります。





ちなみに、八代から人吉経由で鹿児島とを結ぶのは「JR肥薩線」ですが、今回
乗車する第三セクターの「肥薩オレンジ鉄道」と名称が似通っていて、ちょっと
紛らわしい気もします。


JR鹿児島本線・熊本駅(6:45) → (7:23)八代駅(7:58) → (肥薩オレンジ鉄道)
→ (8:42)佐敷駅



熊本駅を出発したJR鹿児島本線は、熊本県第2の都市である終点の八代
(やつしろ)市を目指します。




ちなみに、八代市出身の歌手・八代亜紀は、”やつしろ”ではなく”やしろ”です。

ついでに、熊本市の名所は熊本城と水前寺公園ですが、歌手の水前寺清子は
熊本市出身です。


更についでに、歌手の森高千里(ちさと)は熊本出身ですが、熊本名所の阿蘇の
草千里(くさせんり)や高森町と関係があるのかないのか、私はよく知りません・・・?


鹿児島本線の終点の八代駅で「肥薩オレンジ鉄道」に乗り換えます。



(肥薩オレンジ鉄道の八代駅)



肥薩オレンジ鉄道の始発駅の八代駅の改札口で売っていた、写真の地域限定・
肥薩オレンジ鉄道ロゴマーク入りの「くまもんバッグ」を衝動買いしてしまいました。

(2,000円)




我ながら、”地域限定”には弱いなあ〜。





肥薩オレンジ鉄道の始発駅である八代駅に、折り返しの電車が入って来ました。





上の写真は、折り返す前に、追加の車両を連結して、車両の数を増やしている
ところです。




肥薩オレンジ鉄道は、右手に不知火海(しらぬいかい)の景色を眺めながら
海岸線を走って行きます。




不知火海は、波もなく鏡の様に静かです。

























八代駅から8駅目の佐敷駅で下車します。(熊本県葦北郡佐敷町)





到着した佐敷駅のホームからは、加藤清正が築いた「佐敷城」の石垣が見えます。



(上の写真の赤丸印が佐敷城の石垣)



(駅のホームの名所案内)



駅のホームでは、ギネスに登録されたという「葦北(あしきた)鉄砲隊」の看板が
出迎えてくれます。


下の写真は、「佐敷城」を背景にしたその「葦北鉄砲隊」です。



かつて、ここ芦北地方(佐敷)は、細川藩にとっては、薩摩藩(鹿児島)と相良藩
(人吉)との藩境を接する防衛の拠点でした。

「葦北鉄砲隊」は、1630年代に、熊本・細川藩が、防衛の目的と、帰農していた
旧勢力である加藤清正の遺臣達を取り込むために、在地浪人からなる鉄砲隊を
組織したのが始まりだそうです。

天草・島原の乱では、葦北鉄砲隊は、原城総攻撃において目覚しい活躍を
みせました。


(天草・島原の乱については、「島原の乱の真相」を見てね。)

その後、400数十名に上る藩直属の鉄砲隊「葦北御郡筒」(あしきた おごうりづつ)として、明治3年まで配備されていました。
 

そして、2014年に、本物の火縄銃を使い、大人数が一斉に空砲をならす
ギネス世界記録への挑戦イベント「全国火縄銃サミット」が、ここ芦北で
開催されました。

このサミットへは、全国約30の鉄砲隊や、韓国、イギリスのの鉄砲隊も
参加しました。


このイベントで、葦北鉄砲隊の251人が一斉に空砲を発射し、ギネス世界記録に
認定されました。



古くは、豊臣秀吉が大軍を率いて押し寄せたという「薩摩街道」は、江戸時代には参勤交代の通り道でした。


「佐敷(さしき)宿」は、肥後(くまもと)と薩摩(かごしま)を結ぶ「薩摩街道」の
要衝の地で、「佐敷城」の城下町でもあります。



駅で貰った上の写真の佐敷宿絵地図の地図を見て、駅から徒歩15分の佐敷駅と
少し離れた「薩摩街道」沿いの「佐敷宿」を目指して歩き始めます。





「佐敷(さしき)宿」は、肥後(熊本)と薩摩(鹿児島)を結ぶ「薩摩街道」の
要衝の地で、「佐敷城」の城下町でもあります。

薩摩街道へは、古くは、豊臣秀吉が、薩摩遠征のために大軍を率いて
押し寄せました。
    
江戸時代には、島津斉興(鹿賀丈史)や島津斉彬(渡辺謙)などの島津の殿様が
参勤交代のために通りました。

また、篤姫(北川景子)も、将軍への嫁入りの際に佐敷宿に宿泊して江戸へ
向かいました。


そして明治時代、西南の役の際には、西郷隆盛軍が、熊本城攻撃のために、
薩摩街道を北上しました。





駅で貰った下の写真の佐敷宿絵地図を見ながら、佐敷駅から徒歩15分の
「薩摩街道」沿いの「佐敷宿」を目指して歩き始めます。





駅前の道を右に進み、高速の陸橋の下を歩行者専用道でくぐり、最初の交差点を
左折して佐敷橋を渡ると、佐敷宿に入ります。



白壁の土蔵造り風の家が続き、旅情をかきたてます。

 



佐敷川沿いの街道には、「薩摩街道」の標石と、「江戸 薩摩街道 薩摩」の標柱がありました。




写真は、篤姫も宿泊したという薩摩藩の本陣「薩摩屋」です。





更に川沿いに進み、相逢橋(あいおいばし)を渡ると、佐敷の商店街が真っ直ぐに延びています。





相逢橋の先に、明治42年創業の上の写真の「岩永醤油」がありました。



「岩永醤油」の隣の上の写真のお地蔵さんは、昭和5年の佐敷町大火の際に、
この地蔵堂を境にして類焼を免れたので、火除けの地蔵として祀られている
そうです。

古い町並みは約300メートル続きます。



白壁塗りの土蔵造り風の家が点在するこの辺りは「のこぎり家並み」地域です。





写真ではちょっと分かり辛いですが、街道の通りに対し、建物が斜めに建っており、
まるでのこぎりの刃のように見えることから「のこぎり家並み」と呼ばれます。





敵の侵入時に、建物の陰から様子を伺い、待ち伏せするためのものだそうです。




上の写真の「岩崎新聞販売店」付近は、パンフレットによると、熊本藩の
「本陣・御茶屋跡」だそうです。



新聞販売店の道路向かいには、両側を瓦屋根付きの塀で守られた上の写真の
「恵比寿さん」がありました。





上の写真は、レトロな洋風の建物です。

その先の右手は下の写真の「来迎寺」です。





境内には、1635年に建てられた上の写真の「六地蔵塔」があります。

境内で六地蔵塔の写真を撮っていると、住職の方が出てこられて、「もっと奥まで
自由に撮影してよいですよ。」と、声をかけて頂きました。






佐敷町の人は、どなたもフレンドリーで親切です。



写真は、交流館「枡屋」です。





枡屋は、町並み保存活動の活動拠点として、佐敷城の城下町や宿場町の風情を
後世に残そうと、景観形成住民協定を結んで活動しているそうです。





説明のオバサマに、佐敷城への道順を教えてもらいます。



枡屋の先の左手の「俳人種田山頭火宿泊の地」の標柱に従い、路地を入って行くと、写真の
山頭火の句碑がありました。



”捨てきれない 荷物のおもさ まへうしろ”



山頭火の句碑の先の左手の「実照寺」には、写真の見事な仁王像があります。



寄木造で定朝、運慶の作とも伝えられているそうです。






薩摩街道を相逢橋まで戻り、街道と並行する1本奥の道に入ると、写真の「武徳殿」がありました。



「武徳殿」(国有形文化財)は、剣道・柔道の武道場として建てられたものだそうです。



武徳殿の前に、写真の「佐敷城代・加藤重次の縁者の墓石」が2基建っていました。



説明板によると、佐敷城代であった加藤重次の母の石塔と妻の墓だそうです。





更に、この墓石の横には、写真の巨大な鬼瓦が展示してあります?



説明板によると、佐敷城の発掘調査により出土した「天下泰平國土安隠」銘の
鬼瓦(県重文)を400倍の大きさにして、町のシンボルとして、”日本一の大瓦の
モニュメント”としたそうです。



武徳殿の先に、佐敷城への矢印がありました。

佐敷城への坂道を上って行きます。




(佐敷町並みマップ)




現在残る「佐敷城」は、肥後国(熊本県)の南部の防衛拠点として、「加藤清正」が築きました。



佐敷城の城代となったのは、加藤清正の家臣の「加藤重次」でした。

(加藤重次の遺構については、前回の「佐敷宿」を見てね。)

重次が城代を勤めていた1592年に「梅北の乱」が起きました。

「梅北の乱」とは、朝鮮出兵に向けて佐敷に在陣していた島津家の家臣・梅北
国兼が、城代の加藤重次が出陣し手薄になった佐敷城を、突如、奇襲して
乗っ取った、という事件です。



佐敷城から逃れた重次の家臣の安田弥右衛門は、酒肴をもって佐敷城に再び
現われ、梅北国兼に投降する素振りを見せます。


梅北国兼は、寝返った安田弥右衛門を迎え入れて酒宴の席となりますが、
この酒宴の最中に、安田弥右衛門は、国兼に接近し、国兼を討ち取って
しまいました!

この様にして、「梅北の乱」は、あっけなく幕切れとなりました・・・

加藤清正の死後も、佐敷城は、肥後支配のための重要な支城の1つとして
維持されていましたが、1616年の一国一城令により廃城となりました。

更に、島原の乱で、原城に籠った一揆勢の掃討に苦労した幕府は、加藤清正が
築いた堅固な佐敷城を危険視する様になり、再度、城址の石垣を徹底的に
破壊する様に命じました。





佐敷宿の交流館「枡屋」のボランティアのオバサマに教えてもらった佐敷城への
道順に従って、佐敷宿の外れの坂道を上って行きます。










坂の途中には、写真の大師堂と八十八札所地蔵群がありました。







佐敷宿の外れから10分くらい坂道を上ったところで、写真の佐敷城址の入口に
着きました。








見事な満開の桜ですが、平日とは言え、花見客が一人もいません・・・
勿体ない!!




ここまでは、車で上がって来れるので、車での佐敷城址見物は便利です。



駐車場から山の上を見上げると、佐敷城址の石垣が見えます。(写真の赤丸印)





大きな駐車場には綺麗なトイレも完備しており、詳しい案内板も設置されています。





佐敷城址は、この駐車場から、更に、数分、坂を上ったところにありました。



城址は現在、佐敷城跡城山公園として整備されており、平成20年に国の史跡に
指定されています。



(城址から発掘された「天下泰平国土安穏」の鬼瓦については、前回の(「佐敷宿」)を見てね。)



佐敷城址は、肥薩街道を眼下に見下ろす高台にありました。



城址からからの眺望は素晴らしく、佐敷港と不知火海がよく見渡せ、港の掌握を
意識した城であったことが分かります。




(佐敷城址の航空写真 : 駐車場の案内板から)

城址を一回り歩いて気づいたのは、2度にわたって破壊されたというのが
嘘の様に、驚くほど綺麗に、石垣が残っている事でした。

また、城址の整備も行き届いており、完璧な石垣の修復と併せて、地元の人々の
「佐敷城」への深い愛着を感じました。




(二ノ丸搦め手門付近の石垣)



写真は、本丸の内部に入れられている堀切状の窪みで、東西に延びて大手門口と搦め手門口とをつないでいます。







上の写真は、本丸から西方を見たところで、眺望がよく、遠くの不知火海まで見えます。




(本丸西門)







(二ノ丸東門の枡形)









(二ノ丸東門の下の大手口の枡形)



(二ノ丸の石垣)



佐敷城址の全体的な感想としては、余り期待せずに行きましたが見事な石垣と
見晴らしの素晴らしさに感動しました!


私は、佐敷城址を、勝手に、”天空の城”と命名しました。
さすが!、加藤清正が築いた城だけのことはありました!