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電車で行く「薩摩街道」(その1:鹿児島宿)  2019.9.8





(写真は、磯庭園から望む桜島)



 

「薩摩街道」の起点は「鹿児島宿」で、熊本宿を経緯して、途中で長崎街道に合流し、小倉に
至ります。


薩摩街道へは、古くは、豊臣秀吉が、薩摩遠征のために大軍を率いて押し寄せました。  

   

江戸時代には、島津斉興や島津斉彬などの島津の殿様が参勤交代のために通りました。

また、篤姫も、将軍への嫁入りの際に薩摩街道を江戸へ向かいました。

そして明治時代、「西南の役」の際には、「西郷隆盛」軍が、熊本城攻撃のために、薩摩街道を
北上しました。


 

最近、「西郷どん」(2018年NHK大河ドラマ)の「西郷どん大河ドラマ館」が取り壊された
という噂を聞きました。

「西郷どん」(せごどん:配役:鈴木亮平)、関連のその他の記念館や説明版も、順次取り壊され
そうなので、今のうちに見ておかねばと思いました。

という訳で、先月、熊本の実家に帰省した際、鹿児島空港経由で「西郷どん」関連の施設を
見学してから、熊本に帰りました。
 



鹿児島空港から帰るのは久し振りですが、昔のプロペラ機の時代は、鹿児島空港が錦江湾岸に
ありました。

空港に着陸すると、眼前は噴煙を噴き上げる桜島で、”ああ、鹿児島に着いたなあ。”、と
実感したものでした。




現在は、鹿児島空港は山奥にあり、空港からリムジンバスで約40分、上の写真の鹿児島中央駅
に着きます。
 



鹿児島中央駅の前には、1865年に、イギリスへ派遣された19名の留学生の上の写真の
「若き薩摩の群像」碑が建っていました。


1866年の薩長同盟以後、薩摩藩は、この留学生の派遣団からヨーロッパ情報を得て、
その後の幕府軍との戦いを有利に展開したそうです。


その後、留学生達は、アメリカやフランスに渡って留学を続け、帰国後に、明治政府に仕えて
その成果を大いに発揮した、と説明版にあります。


鹿児島中央駅の前の道を、東へ約10分歩くと、明治維新の有名人が多く生まれた「鍛冶町」が
あります。




「鍛冶町」は、鹿児島市街地の中心を流れる「甲突(こうつき)川」沿いにあります。

上の写真のその「甲突川」は、大河「西郷どん」で、鈴木亮平が、手掴みで鰻を獲るシーンで
有名になりました。




その甲突川沿いに、上の写真の「維新ふるさと館」がありました。

維新ふるさと館は、明治維新を支えた英雄たちの姿を充実した内容で展示、分かりやすく
紹介しています。




(日本初の洋式軍艦・薩摩の「昇平丸」)





(篤姫コーナー)





(薩摩の食事・菓子)



特に、上の写真のメインの体感ホールでは、西郷隆盛や大久保利通のロボットや人形などの
演出で、歴史の1シーンを楽しく学べます。


維新ふるさと館を出て、甲突川沿いから少し住宅地(鍛冶町)に入ります。

この狭い住宅地に、西郷隆盛、大山巌(いわお)陸軍元帥、東郷平八郎(日露戦争の
連合艦隊司令長官)、村田新八などの明治維新の偉人達の誕生地が密集しています。




写真は、西郷隆盛の誕生地碑です。



この鍛冶町辺りの狭い町の中に、明治維新の有名人たちが、密集して住んでいたのに驚きます!



(大山巌誕生の地の石碑)



(村田新八誕生の地の石碑)



(東郷平八郎誕生の地の石碑)

鍛冶町の甲突川の川岸に戻ると、下の写真の様に、西郷らが住んでいたという「下級武士の
屋敷」が再現されていました。



 



1日乗り放題・600円の「カゴシマシティビュー」券を買って、鍛冶町から、鹿児島市の一番の
繁華街である「天文館通り」へ向かいます。






鹿児島と言えば「白熊」、白熊と言えば、「天文館通り」です。







さすが、白熊の本店だけあって、上の写真の様に、「白熊」のメニューだけでも12種類も
あります!

「白熊」を食べるために、わざわざ、天文館通りの白熊本店まで来たのに、当日、余りに
暑かったので、ついつい、白熊ではなくて、食べ慣れた写真の宇治金時(740円)を注文して
しまいました・・・



う〜ん、ここまで来たら、やはり、白熊を注文すべきでした・・・

取り敢えず、喉の渇きがおさまったところで、鹿児島名物・黒豚すき焼きの「西郷どん雅」
(2,450円)を注文して、午後の「西郷どん」遺跡巡りに備え、腹ごしらえします。




天文館通りの白熊本店で腹ごしらえをしてから、天文館通りの繁華街を抜けて、国道3号沿いの
中央公園に出ます。




中央公園の道路向いの広場に、明治維新に尽力した薩摩藩家老の「小松帯刀(たてわき)」
(西郷どんでの配役は町田啓太)の銅像が上の写真の様に建っていました。




そして、中央公園の交叉点の正面は、 城山を背に、昭和12年に建てられたという14メートル
もの高さのある上の写真の「西郷隆盛銅像」です。


この銅像は、戦時中の軍への金属供出にも、GHQの撤去命令にも、官民挙げて拒否したために
残ったそうです。




西郷隆盛銅像を左手に見ながら、国道3号を進むと、直ぐに写真の「鶴丸城」があります。





 「鶴丸城」は、「鹿児島城」の別名で、関ヶ原の合戦の後に、島津家久が、ここに居館を築いて、
周辺に家臣の屋敷を移しました。


77万石の大大名の島津氏の居城といっても、本丸、二の丸、下屋敷が並ぶだけの「屋形づくり」
で、天守閣や層楼はありませんでした。


これは、島津家の「城をもって守りと成なさず、人をもって城となす」という考えに基づくものでした。


成程ね、島津は偉い!

明治維新後は、鶴丸城は、熊本鎮台の分営として使われましたが、明治6年に炎上、城壁と
石橋だけが残されたました。




石橋の奥の「御楼門」は、来年3月の完成を目指して、復元工事中でした。



現在は、薩摩藩主が暮らした本丸跡に、上の写真の「黎明館」(歴史資料センター)が建って
います。




「黎明館」の前には、上の写真の篤姫(天璋院)の銅像が建っていました。



黎明館には、鹿児島の歴史や工芸などが展示されています。



(「鶴丸城」の復元模型)



(薩摩藩の溶鉱炉)



(昭和初期の天文館)



また、黎明館の隣の「二の丸跡」には、現在は、上の写真の図書館が建っています。



黎明館を出ると、左隣に、写真の「薩摩義士碑」があります。



1753年、幕府に、木曽川の治水工事を命じられた薩摩藩は、家老・平田靭負(ゆきえ)を総奉行
として、約1,000人を、三重の桑名に派遣しました。


しかし、これは大変な難工事となり、1年3カ月かけて完成したものの、40万両の巨費を
費やした末に、84人もの犠牲者を出しました。


その責任を一身に負い、平田は自刃しました。

これらの藩士を供養するために、大正9年に建立されたのがこの「薩摩義士碑」です。

(薩摩義士の自刃については、「東海道を歩く・桑名宿」の海蔵寺の記載を見てね。)

また、黎明館の道路向いは、西郷隆盛が創設した下の写真の「私学校跡」の石垣です。




私学校の石垣には、西南戦争で政府軍が浴びせた銃砲弾の弾痕が今もなお残っています。



 



黎明館の前のバス停から、1日乗り放題「カゴシマシティビュー」巡回バスに乗り、「西郷隆盛・
洞窟」バス停で下車します。








西南戦争では、熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた西郷軍は、多くの死傷者を出しながらも、
九州を南下しました。


そして、故郷の城山で最後の決戦を行うために、西郷軍が城山に入った時には、城山を
包囲する政府軍5万に対し、西郷軍は僅か300余りでした。


最後の一進一退を繰り返したであろう、坂の途中の崖に、上の写真の横穴が2つ掘られて
います。


今は、崩れて、かろうじて2本の入口が確認できるのみです。

西郷軍は、最後の5日間、この洞窟を堀り、本陣としたそうです。

木々に覆われて、ここからは桜島は見えません・・・

西郷軍は、政府軍の軍師を通じて、翌朝午前4時に総攻撃が始まることを知ります。

総攻撃の前夜、西郷軍は、残った食料と酒で、この洞窟の前で、宴会を開きました。

西郷軍は、降伏の勧めを断り、最後の戦いに挑む決意をします。

そこへ、政府軍の軍楽隊が演奏する葬送行進曲が流れて来たそうです。

一説には、明日には屍となる西郷軍の武勇をたたえ哀悼の意を捧げるためだった
そうです・・・


故郷の桜島を臨みがら最後を遂げた、というのはドラマの世界の話で、現実には、この洞窟の前で、土にまみれて、銃弾に倒れたそうです。

西郷は「もうここでよかろう」と別府晋介に介錯を頼み自刃、介錯を済ませた別府もその場で
切腹しました。


村田新八、桐野利秋など他の志士たちも全員突撃して壮絶な最後を遂げました。

 

この「西郷隆盛・洞窟」バス停からバスに乗って、坂を更に上って行くと、次のバス停が
「城山展望台」です。




写真は、城山展望台から見た桜島と鹿児島市街地です。





この城山展望台の直ぐ下に、薩軍2,023名もの将兵が眠る「南州墓地」がありました。







上の写真の常夜灯は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城されて、兵火を
免れたことへの感謝のため、昭和14年、当時の東京市によって寄贈建立されものだそうです。




上の写真は、正面が「西郷隆盛」、右手が「篠原国幹(くにもと)」、左手が「桐野利秋」の墓石
です。




(西郷隆盛の墓)



(篠原国幹の墓)

「篠原国幹」は、薩摩藩出身の陸軍少将でしたが、西郷隆盛を助けて私学校を経営し、
西南戦争では、西郷軍として田原坂で戦死しました。




(桐野利秋の白御影石の墓石)

「桐野利秋」(きりの としあき)は、当時は「中村半次郎」と称しており、陸軍少将時代には、
フランス製の香水を身にまとったりと、なかなかお洒落だったそうです。


しかし、西郷隆盛から上田藩士の赤松小三郎の暗殺を命じられた事などもあり、当時は、
”人斬り半次郎”として、新選組からも恐れられていました。


戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで活躍、多くの首級を上げ、駿府などを占領、その後、
西郷隆盛と勝海舟との会談の席にも同席します。


また、上野の彰義隊との戦いに参戦、その後、会津若松城の落城の際は、城の受け取り役を
仰せつかります。


この時の半次郎の対応に感動した若松城城主・松平容保が、後に人を介して宝刀を贈った
そうです。


そして、西南戦争では、西郷軍の事実上の総司令官として指揮を執りました。

ボランティアのおばさまの説明だと、桐野利秋の墓だけが高価な白御影石で造られており、
現在でも、花柳界の女性たちのお参りの献花が絶えないそうです。
 

人斬り半次郎は、当時から、よっぽどモテたんですねえ〜。



(14歳で戦死した少年烈士3人の墓)



(17〜35歳の兒玉5兄弟の墓)



南洲公園内には、西郷隆盛の偉業を伝える上の写真の「西郷南洲顕彰館」があり、西郷隆盛の
遺品などを展示しています。

 




 

西郷隆盛が率いた薩摩軍が眠る南州墓地にお参りしてから、墓地の参道の坂道をずっと歩いて
下りて行くと、下の写真の「今和泉島津家 本邸跡」バス停に出ました。
 




このバス停の前の敷地が、篤姫の実家の「今和泉島津家本邸」跡だそうです。

篤姫が生まれ育ったという屋敷自体は現存しませんが、通りに面した上の写真の石垣は
当時のままらしいです。




その今和泉島津家本邸跡バス停から、1日乗り放題「カゴシマシティビュー」巡回バスに乗り、
薩摩藩主の別邸だった「仙巌園」(せんがんえん)バス停で下車します。




上の写真は、仙巌園の正門です。

「仙巌園」(礒庭園)は、1658年に、薩摩藩主の島津光久によって造園されました。 

現在は、「仙巌園」の一帯には、薩摩藩主・島津斉彬が、幕末に築いた工場群の「集成館」の
跡地が拡がっており、「反射炉」跡などが現存しています。




写真は、仙巌園の中にある「反射炉跡」です。



この反射炉は、島津斉彬が、鉄製大砲の鋳造を目的に築いた、ヨーロッパ式工場群「集成館」
事業の中核であり、当時は20メートルの高さの建物だったそうです。




写真の赤い門は、「錫(すず)門」で、「西郷どん」のロケでも使われました。



この赤い門の屋根が、薩摩特産の錫(すず)で葺かれていることから、「錫門」と名付けられた
そうです。


また、この門は、江戸時代には、藩主と嫡男のみが通ることを許された最高格式の門だった
そうです。


上の写真の様に、「西郷どん」のロケで使われたスポットには、そのシーンを紹介する写真付き
の案内板が建てられており、とても分かり易いです。


仙巌園の庭園が続きます。



庭園を散策します。



庭園からは、桜島がよく見えます。

この仙巌園は桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた、いわゆる借景庭園です。

写真の奥に見える生垣は、江戸時代には存在せず、近代に入ってから、道路と線路を隠す
ために設けられたものだそうです。




庭園には、島津斉彬(渡辺謙)が、ガス灯の実験を行ったという上の写真の「鶴 灯籠」が
あります。




そして、西郷どんで、「御前相撲」がおこなわれたのが写真の「前庭」です。





また、写真の「石階段」も、西郷どんのロケで使われました。





いよいよメインの「御殿」に入ります。 


館内の撮影OKなのが嬉しいです。 


ここには、「島津斉彬」(渡辺謙)や、「島津斉興(なりおき)」(鹿賀丈史)と、「お由羅騒動(注)」
で有名な”悪女・お由羅(おゆら)”(小柳ルミ子)が住んでいました。  


(注)お由羅騒動 : 藩主・島津斉興の正妻の息子の「斉彬」派と、側室(お由羅)の息子の
   「久光」派との後継争い。


   この後継争いで、斉彬派が、「斉彬の弟が早世したのは、お由羅が呪詛(じゅそ)して、
   呪い殺したためだ」と主張したため、「お由羅騒動」として有名になりました。

   いったんは、久光派が勝利し、斉彬派の中心人物4名は即切腹、斉彬派の他の四十数名
   も遠島などに処せられました。


   最終的には、斉彬が、老中・阿部正弘と組んで、密貿易の発覚を理由に斉興の引退を求め、
   斉彬を後継とすることで決着しました。




(大河・西郷どんの衣装)



(中庭)



写真は「謁見の間」ですが、「西郷どん」のシーンと同じ様に、テーブル、椅子、薩摩切子の
グラスが置いてありました。




謁見の間の奥の部屋は、床の間がある書院造です。



 写真の「御居間」の縁側からは、錦江湾と桜島がよく見えます。



(寝室:御寝所)



 (風呂)



(トイレ)

 

「仙巌園」バス停から、1日乗り放題「カゴシマシティビュー」巡回バスに乗り、出発点の
鹿児島中央駅に戻ります。

鹿児島中央駅から九州新幹線に乗り、熊本の実家に戻りました。