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53-1:加納



「加納宿」は、現在は岐阜市街地の中心街と重なるため、残念ながら江戸時代の名残は何も残っていません。

「加納」と「岐阜」は、地続きの住宅地・繁華街で、家康は「加納城」を築き、「岐阜城」を廃止しました。

これは、信長の威光を恐れた家康が、信長と縁の深かった岐阜城を壊して廃城としたためらしいです。

一路(上) (中公文庫)
浅田 次郎
中央公論新社

浅田次郎の小説『一路』
では、一路の一行が、加納宿を通過するときの様子を以下の様に書いています。

 ”加納城下は美濃の要衝で、古くは家康公の娘婿たる奥平信昌公の領分であったと聞く。

  ただいまの領主は、三万二千石の永井肥前守である。

  外様の小名ならば、簡単な挨拶で先を急ぐことも可であるが、そうは出来ぬ相手であった。

  永井肥前守は、幕府奏者番として、参勤交代のお目付役であり、けっして無視してはならぬ大名であった。

  これを、お殿様は御駕籠から下りることもなく、乗り打ちしたのであった。

  思い出すに冷や汗ものである。”



また、「
続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次さん喜多さんは、ここ加納宿の旅籠「糟田屋」(かすだや)に泊まり、不気味な感じの2人連れの浪人と同室になります。

その浪人達は、ここへ来る途中の松林で強盗をして奪ったという財布を、弥次さん喜多さんにこっそりと見せてビビらせます・・・

そこへ宿の主人が来て、「先程、近くの松林で強盗があり、その取り調べのために役人がこの旅籠にも来るので出かけない様に。」と触れて回ります。

浪人は、弥次さん喜多さんに「もし密告したら、お前達も俺達の仲間だと訴え出るからな。」と脅します・・・

そこへ問屋の役人達が大勢、どやどやと客間に入って来ました!

肝をつぶした喜多さんは、一目散に逃げ出し、中庭に転げ落ちて縁の下に隠れます。

役人「先生、松林の強盗を捕らえました。」

浪人「そうか、ご苦労であった。実は、我々は、この2人を驚かそうと、洒落で強盗の振りをしていた。(笑い)」

と言って、浪人が、先程、強奪したという財布を開けて見せると、中身は何と!オニギリでした。

浪人達は、実は、冗談好きの剣術の先生だったとわかり、皆で大笑いとなります。




加納宿の入口は、下の写真の「
東番所跡」です。





東番所跡を左折すると、正面が善徳寺で、これを右折して五叉路を直進すると、「左中山道」の石碑があるので、これに従い左折します。







少し先の小さな橋の横に下の写真の「高札場跡」の説明板がありました。



高札場を過ぎると、信号のある大きな交差点にぶつかりますが、その信号の手前に「
加納城 大手門跡」の石碑がありました。





加納城まで足を伸ばすか否か迷ったのですが、17キロも歩いて疲れていたのと、日没が近づいていたのでパスしました。

この石碑の脇の道標に従って右折して進むと、すぐ左手に廃墟の様なビルがありますが、この廃墟が「旧加納町役場」です。



旧加納町役場の先に、元旅籠屋の「二文字屋」という鰻屋があり、ここの鰻を食べるのと、ここにある左甚五郎が彫ったという欄間を見るのを楽しみにしていたのですが、残念ながら「準備中」でした!


(二文字屋)

(左甚五郎の欄間の説明板)

更に、真っ直ぐな中山道を進んでゆくと、「加納宿 当分本陣跡」碑、加納宿西問屋跡、「脇本陣跡」石碑と、石碑だけが続きます。







そして、JR岐阜駅から伸びてきた道路と交差します。



間もなく日没なので、この交差点を右折して、JR岐阜駅の方向へ向い、今晩の宿のJR岐阜駅前のビジネスホテルを目指します。


(JR岐阜駅前の黄金の織田信長像のライトアップ)


JR岐阜駅前のビジネスホテルを出て、朝から岐阜城へ向かいますが、岐阜城見物については、次回ご報告します。

午前中の岐阜城見物を終わり、昨日のゴールだった中山道とJR岐阜駅から伸びてきた道路との交差点に戻って、再び中山道を歩き始めます。

交差点から、更に、中山道を進んで行きますが、案内図では、秋葉神社の脇にあるハズの「西番所跡」(加納宿の西の外れ)が見当たりません?

どうも、通り過ぎてしまったみたいなので、秋葉神社まで引き返して、神社の周りをグルグル歩いてみます。



ありました!

江戸方面からは見えない石碑の裏側に、「
中山道加納宿西番所跡」と刻まれていました。


不親切だなあ〜、江戸方面から歩いてくる人は通り過ぎてしまうよ!

西番所跡から、中山道をどんどん進み、東海道線の高架をくぐって反対側に出てると、七叉路の複雑な交差点に出ました。





中山道の矢印に従って複雑な交差点を渡ります。



矢印に従って、広い道路を渡ると、写真の「八幡神社」と「中山道の案内板」がありました。







案内板に従って、更に、どんどん歩いてゆくと、やがて、「瑞甲山 乙津寺」(おつしんじ)の石碑がありました。



乙津寺」の石碑の横の道路を入ってゆくと、赤い鳥居が見え、その横に、乙津寺の山門がありました。





山門をくぐると、御神木の大楠の木があり、その奥が本堂です。









乙津寺の裏手に出ると、長良川の「小紅の渡し」(おべにのわたし)の矢印がありました。

小紅の渡しの矢印に従って、長良川の土手を上り、土手沿いの道に出ます。

土手の道から辺りを見回しますが、更なる矢印も、「小紅の渡し」らしき舟着場も、それらしき気配も何もありません?・・・



誰もいないし、困ったなあ・・・

土手沿いの道に、交通違反の取り締まりのお巡りさんがいたので、「小紅の渡し」の場所について聞いてみます。



すると、お巡りさんは、親切に、船乗り場への道順を教えてくれました。

それに従って、背の高い雑草の生い茂る河原へ下りてゆきます。







背の高い雑草に覆われる様に、下の写真の「
小紅の渡し」がありました。





「小紅の渡し」の脇に説明板があります。





それによると、
渡船したい場合は、”対岸の小屋へ手を振って合図する”様に、と書いてあります。(無料)





えぇ〜・・・、手を振るの?、対岸の小屋の人は、常にこちらを見てるのかなあ〜?

説明板には、更に、”小紅の渡しは県道の一部であり、遊覧船ではありません。

対岸に着いたら必ず船から降りて下さい。”、とあります・・・

上記の注意書きもあり、気の弱い?私は、無料で、用もないのに、この広い川を往復して、船頭さんを煩わせるのも悪い気がして、手を振って合図するのは止めました・・・

江戸時代、中山道は、この「小紅の渡し」で、長良川を渡って、加納宿から対岸の河渡宿へ向かっていました。

現代人の私は、船頭さんに気兼ねして、この少し下流の河渡橋を渡って河渡宿へ向かいます。

加納宿から河渡宿まで約6キロです。



52-2:鵜沼へ

53-2:加納・岐阜城へ

               
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