(写真は、テレビドラマ「岸辺のアルバム」で有名になった「多摩川決壊の碑」)
「宿河原堰堤」(しゅくがわら えんてい)の真近かまで来ました。
写真の様に壮観で、圧倒されます!
堰の周辺には、豊かな餌の魚を求めて野鳥が集まっています。
この「宿河原堰堤」は、「二ヶ領用水」(注)へ取水するためのダムです。
(注)二ヶ領用水:二ヶ領用水は、多摩川の上河原と宿河原の2カ所に堰を設けて、多摩川から取水しています。
ここから取水された多摩川の水は「二ヶ領用水」へと分水されます。
この用水は、ほぼ多摩川に沿って、川崎のほぼ全域に枝分かれしていて、川崎市域の給水しています。
江戸時代には、稲毛領と川崎領の2ヶ領を潅漑する用水だったのが、二ヶ領用水の名称は由来です。
(二ヶ領用水の詳細については、「二ヶ領用水に沿って@」、「同左A」を見てね。)
ここからの取水は、当初、は自然流入で取り入れていましたが、東京の人口増加により、更に上流の「羽村取水堰(はむら しゅすいせき)」(注)
からの取水量が増えていきました。
(注)羽村取水堰:多摩川から玉川上水に水を取り込むための取水口(堰:せき)で、この宿河原堰堤よりも更に上流の東京都羽村市にあります。
このため、羽村よりも下流にある地域間の水の争奪が始まりました。
更に、関東大震災後には、多摩川の砂利の需要増による砂利採取で、川床が低下してしまい、これにより洪水の度に、この堰堤が決壊する様になりました。
戦後になって、進駐軍からセメント特別供給を受けて、昭和24年、ようやく、コンクリートの「宿河原堰堤」が完成しました。
昭和49年、台風16号の大雨による多摩川氾濫で この辺りの堤防が決壊しました。
川沿いの19戸の民家が、多摩川の濁流にみ込まれて次々と流されて行くという、ショッキングなニュース映像が、リアルタイムで全国に流れました!
(当時のライブ映像:NHK公式ホームページから)
更に、その3年後には、この水害を題材にした、テレビドラマ「岸辺のアルバム」が、大きな話題を呼びました。
このドラマは、一見平穏に見える川が、ある日突然濁流に変わり、平凡な家庭を飲み込んでいくという、平凡な中流家庭の崩壊を描いた作品です。
(岸辺のアルバム:TBS公式ホームページから)
こうした問題を受けて、平成11年、写真の様な現在の可動堰に改良されました。
次の目印の小田急線鉄橋を目指して歩いて行きます。
小田急線鉄橋の手前に、当時を偲ぶ「多摩川決壊の碑」が建っていました。
小田急線の鉄橋をくぐります。
「多摩水道橋」を川崎側へ向けて渡ります。
橋を渡り終えてから地図を見ると、近くにJR南武線の登戸駅があります。
多摩川沿いに登戸駅へ向かいます。
JR南武線の登戸駅から乗車して、武蔵小杉駅で東急東横線に乗り換えて横浜へ帰りました。
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