Final Chase - 閉ざされた日

 
 真寿美の視界に入った小さな影は、接近するにつれて対峙する二体のVCDVのディテールを現わし始めた。
 いや、対峙しているのではない。レシーバーから聞こえた音が真寿美に想像させた通りの光景がそこにはあった。ヘドロを思わせる灰緑色の躯体に押される白虎。その左腕は肩口から失われ、頭部はねじ切られてケーブルだけで辛うじて胴体にぶら下がり、胴体にはさんざんに弄ばれたことを思わせる無数の傷が走っている。それでもなお相手を押し返そうとしている白虎のモーターが苦しげな音を上げる。
 灰緑色の頭部が接近するS−ZCに向けられる。嘲笑うかのような敵の表情を、真寿美はにらみ返した。
 嘲笑が再び擱坐寸前の白虎に向く。銃を持つ右腕が動きを見せる。
 朱雀が跳んだ。
 左腕の衝撃波銃から射られた「仕込み杖」が「ホット」の右腕をかすめる。さらに朱雀が「ホット」と白虎の間に飛び込む。灰緑色の躯体がわずかに仰け反った。 
 「仁さん逃げて!」
 後頭部のキプスが緩み、半ば朦朧としつつあった木津の耳に、真寿美の叫びが響いた。響いて、音色を変え、記憶の中の声に姿を変えた。
 「仁!逃げて!」
 そう叫ぶ七重の声に続いて、あの時の記憶が雪崩のように木津の脳裏を駆け抜けた。
 七重の声。かき消す爆発音。覆い被さる軽く華奢な体。かいくぐって肩に、首に突き刺さる弾片。抱き起こす手に絡み付く血。そして眠っているとしか見えない顔。そこにもう一つの顔が重なった。
 「仁さん!」
 過去が通り過ぎた木津の視界には、自分との間に斜めに割って入り「ホット」を押し止めている朱雀の紅い背中が見えた。
 木津の喉から叫びが迸る。それはギプスが外れたことによる苦悶から来るものだけではなかった。
 「……っぅうおおおおおおあああああ!」
 叫びを聞いた真寿美の手が反射的に操縦桿を動かし、朱雀の体がわずかに開く。「ホット」の機体が覗いた。
 残る動力の全てを掛けて繰り出された白虎の右脚が、「ホット」の脇腹を真っ直ぐに捉えた。同時に甲高い警告音がコクピットに満ちる。バッテリー残量の最終警告音だった。
 よろける「ホット」からすかさず離れると、白虎の残った右腕を掴み、その場から引き離しながらハーフに変型し、自らの上に白虎のほとんど大破に近い躯体を載せて全速でその場を脱する。
 後方モニターの中で、「ホット」が姿勢を立て直し、悠然と銃を構えた。
 銃口を染める実体弾の発火。
 身構えた真寿美は、だが予想していた衝撃を感じなかった。
 再び確認するモニターは、上体を起こし、狙撃の楯になった白虎を映している。
 「そんな……だってもうバッテリーが」
 「今ので最後だ」喘ぎながら木津が応えた。
 「乗り移って下さい! 退却します!」
 真寿美の言葉に木津が返したのは、断固とした拒否の言葉だった。
 「ここまで来たんだ。今度という今度こそ片をつけてやる。いや、つけなきゃならないんだ!」
 

 大破擱座した「ホット」麾下の機体三機全てがうち捨てられ倒れている中、同じように大きな損傷を受け沈黙する玄武があった。その許にS−RYが走る。
 「兄貴っ!」
 紗妃の声はいつもよりも高かった。その手はほとんど同時に変型レバーとマニュピレータの操作桿に伸びた。
 足下から火花を上げて制動をかけた青龍の手が、玄武のハッチを力任せに引きちぎって捨てる。
 「兄貴! 大丈夫?」
 呼びかける紗妃とは裏腹に、極めて落ち着いた様子で饗庭がコクピットから滑り降りた。
 自らもハッチを開いて上体を乗り出した紗妃に、饗庭は言った。
 「ハッチが食い込んで開かなかった。通信も使えなくなった。怪我はない」
 その言葉に力が抜けたように、紗妃はハッチにもたれかかったが、すぐに顔を上げた。
 「ばかっ!」
 不審そうな眼差しを上げる兄に、紗妃はさらに言った。
 「ばか……心配……したんだからっ!」
 

 紗妃の声で饗庭の無事を知った安芸は、玄武のコクピットで真寿美と木津の位置探索を続けた。
 画面上を走っていた安芸の視線が止まった。
 見付かった。白の輝点二、赤の輝点一。
 安芸は場所を確認する。と、その表情が強ばった。感度を上げ走査をやりなおしても、結果は同じだった。
 白の輝点が、一つ消えていた。
 

 阿久津もまたLOVEの車庫で、予備機となっているS−RYの計器を頼りにその事実を掴んでいた。そしてそれを俄には信じられないといった口調で呟いた。
 「白虎……か? 沈んでしまったのか?」
 目を瞬かせ、もう一度画面に見入る。
 変化はない。赤の輝点から離れつつある白の輝点はただ一つ。
 なおも画面を見つめ続ける阿久津の耳には、背後での弱々しい靴音も入らないようだった。
 

 「ホット」の銃口はなおもS−ZCに向けられている。いくら白虎の機体が楯になっていると言っても、これではどう見ても無事に逃げ切れるはずがなかった。
 真寿美は一瞬だけ固く結んだ唇を開いた。
 「仁さん、ちょっとだけ我慢して下さい!」
 加速するS−ZC。「ホット」の銃弾が白虎をかすめる。
 S−ZCの手が伸ばされ、白虎のハッチをこじ開けた。急に風圧を喰らって木津は顔を仰向ける。が、すぐにS−ZCの手がそれを庇った。S−ZCのドアが開き、木津を抱きとめた手がその体をコクピットへ送り込んだ。
 シートに身を沈めた木津からは苦悶の表情が消えていなかった。口許からは食いしばられた歯が覗く。握り締められた拳。だがなおも仇敵から離れることを肯んじない眼差し。
 レシーバーからの声だけでは伝わらなかった木津の有様を今目の当たりにして、真寿美はこれまで木津を駆り立ててきたものが何だったのか、分かりかけたような気がした。
 震える木津の体をシートベルトが固定する。
 「行きます!」
 真寿美の手がレバーに伸びる。
 白虎の機体が路面に崩れ落ちた。実体弾が続けざまに命中し炎を上げる。
 と、炎の赤が宙に向けて伸び上がった。
 それは跳躍する朱雀だった。
 連射される衝撃波を「ホット」は飛び退いて回避するが、その内の一発は「ホット」の手元から銃を吹き飛ばした。
 着地した足でそのまま地面を蹴ると、朱雀は右腕の「仕込み杖」を伸ばし「ホット」の懐へと飛び込む。
 喉元を狙って横に薙がれる切っ先を「ホット」は後方へのステップで辛うじて避ける。そして振り抜かれた朱雀の右腕を掴んだ。さらに朱雀の左腕を捕えようとする「ホット」の手を下膊の防衝板で弾くと、逆に朱雀がその手首を握り捻り上げる。
 金属の軋る音が鳴り、消える。
 「来る!」
 木津の叫びは体を弾く電流のように真寿美の耳に響いた。手が、足が動く。
 腕を掴まれまた掴んだまま、朱雀の足が地を蹴り、飛びかかるように体を浮かせた。足払いをかけに来た「ホット」の足が空を切る。
 片足になった「ホット」が安定を崩し、仰向けに倒れかかる。が、捕らえた朱雀の右腕を放さず、小さからぬ出力にものを言わせて体を捻った。
 「放せっ!」
 木津の声に、朱雀の左手が「ホット」の手首を放す。仰向けに叩き付けられそうになった躯体をその手で支えると、今度は逆に朱雀が「ホット」の機体を振り回しにいく。
 「ホット」も掴んでいた朱雀の腕を放し、両手を突いて宙返りをうつと、着地の膝を突いた低い姿勢から、背中を向けて起き直った朱雀に突っ込む。
 片足を軸に朱雀が振り向いた。その右腕から再び伸ばした「仕込み杖」を振るいながら。
 手応えはあった。タイミングが早すぎたために大きな手応えではなかったが、それでも杖の切っ先は「ホット」の灰緑色をした女の顔の鼻から頬にかけて一閃し、横一文字の傷を負わせた。
 「ホット」はしかしそれをものともせず突っ込んでくると、朱雀の腹に肩の一撃を与えた。
 コクピットまで衝撃が走る。木津がまた呻きを上げたが、真寿美の言葉を待たずに言う。
 「奴を……奴を!」
 真寿美は木津に一瞥をくれることもせず、朱雀の左手を「ホット」に向け、トリガーを引いた。一回、二回、三回。
 最初の衝撃波は「ホット」の背中を滑って消えた。次も同じく「ホット」に損傷を与えられず消える。そして三発目は、「ホット」の右腕に銃口を跳ね上げられ、空に散った。
 真寿美は朱雀を数歩下がらせた。そうして取った間合いを、「ホット」が間髪を置かずに詰めてくる。
 その時真寿美の腿を何かがかすめた。直後体にかかった変形のGの中で真寿美は見た、変形レバーに掛かる木津の手を。
 シフトレバーに移される木津の手を覆うように、その上から真寿美はノブを握り、後進へ叩き込むと同時にスロットル・ペダルを踏み込んだ。
 ハーフに変形したS−ZCが全速で後退する。左腕の衝撃波銃を連射しながら。
 「ホット」は伏せてそれを避けると、落ちていた銃に手を伸ばし、そのままの姿勢でトリガーを引いた。
 実体弾が衝撃波に迎え撃たれ、真っ黒な煙を上げて炸裂する。
 「来るぞっ」
 いつもの調子を取り戻しつつある木津の声に、真寿美は全速のまま前進に切り替える。その背後を横に衝撃波がかすめ、ハーフの装甲を震わせる。真寿美は朱雀に変形させ、振り向きもせず腕だけをそちらへ向けると一発撃ち、高く跳んだ。
 見えた。わずかに煙幕の薄らいだ一隅に、こちらを見失って動きの止まった灰緑色の醜い、敵。
 真寿美の左手が木津の右手を引き寄せ、トリガーへと導いた。
 真寿美の目は照星を見つめ、木津にさえ向けられない。
 そんな真寿美から視線を移し「ホット」を睨み据えると、木津はトリガーを引いた。
 最大出力の衝撃波が走る。それは、片足を軸に体の向きを変える「ホット」の正面を真上から削り落とすように舐め、路面に突き刺さると穴を開けた。振動を避けて「ホット」が飛び退く。
 その背後に背中合わせに降り立った朱雀が身を翻す。右腕から伸ばした「仕込み杖」もろともに。
 「ホット」もまた身を翻す。「仕込み杖」の切っ先が空を切り、鋭い音を立てる。
 こちらを向いた「ホット」の顔。前に与えた横一線の傷から上が、今の衝撃波で剥がされ、中の金属部を剥き出しにしている。その下の皮肉な微笑を浮かべた口許は、顔の上半分を失ったことで一層その凄まじさを益していた。
 それを見た木津が言うのと真寿美が動くのはほぼ同時だった。
 「蹴落とせ!」
 朱雀の足が上がり、「ホット」の膝に一撃を加える。すかさず「ホット」は狙われた脚を下げるが、避けきれなかった。バランスを崩し、もう一方の脚で踏んだステップも中途半端だった。背後には朱雀の衝撃波銃が抉った穴。「ホット」はそこに膝まではまり込む。
 木津の目に、口許に、名状しがたい笑みが浮かんだ。この二年の全てを次の一瞬で晴らそうとする、その全てを映したような笑みだった。
 木津の手は今トリガーの場所にあった。最大出力、最大収束率に設定された衝撃波銃の銃口は、仇敵の至近距離にある。
 「くたばれえぇっ!」
 衝撃波。
 だがそれは横から朱雀と「ホット」の間を分かつように突き抜けていった。
 両者の頭が衝撃波の放たれた方向に向けられる。
 「残党かっ?」
 「……玄武、それに青龍も」
 「何だって?」
 接近する影は、真寿美の言葉通り、見慣れた車体の形を明らかにしてきた。
 「寄るな!」木津が叫ぶ。「寄るな! 俺がやるんだ!」
 木津は視界を切り替えた。穴の中の「ホット」は、接近するVCDVを目の当たりにして動きが止まっている。
 だが再びトリガーを引こうとした木津の手に、真寿美の手が包み込むように押し留めた。
 さらにハーフのS−RYが衝撃波銃を一発撃ち、そして止まった。もう一台のS−RYと、続いてG−MBが並ぶ。
 二台目のS−RYのドアが開き、一つの影が降り立った。
 その身を固める、この時季には不釣り合いなダーク・スーツが、頭に巻かれた包帯の白さを際立たせている。かつてその首筋を覆っていた黒髪は切られ、代わりに白い衛材が貼られている。右手には杖。少しふらつく体とは裏腹に、視線は揺るぐことなく「ホット」に注がれている。
 「……久我、ディレクター……」
 目の前に現れたものを信じられずにいる真寿美の呟きを、木津の怒声が掻き消す。
 「何で邪魔をする! 寄るな!」
 それが耳に入った風もなく、久我は口を開いた。その後ろにはそれぞれの乗機から降りた饗庭兄妹が控える。
 「もうおよしなさい」
 「ホット」は動きを見せない。
 真寿美が操縦桿を引き、衝撃波銃の照準を「ホット」から外すと、朱雀の機体を静かに後退させた。
 「もうおよしなさい」久我が繰り返した。「これ以上あなたは何も得られません。これ以上誰を傷付けても、あなたが手に入れられるものは何もないのです」
 「邪魔をするな!」
 今の言葉がまるで自分に向けられたものであったかの如く、木津が怒鳴った。その横で真寿美が体をびくりと震わせる。
 「出てくるな! けりを付けるのは俺だと言ったはずだ!」
 それまで「ホット」に向けられていたのと同じく真っ直ぐな視線が、朱雀に移された。その中にいる木津の姿を見通しているかのような、迷いのない視線。
 「こうなるきっかけを作ったのは私です。七重の未来を奪わせたのも、あなたの今を狂わせたのも、MISSESに負傷者を出したのも、そして……この人にここまでさせたのも」
 久我の言葉の最後の一句が、何故か取って付けたもののように真寿美には聞こえた。
 久我の目が再び「ホット」を見つめる。
 「だから、幕を引く責めを負うのも私でなければなりません」
 木津はなおも吠える。
 「知ったことか! こいつは俺がやるんだ。でなきゃ七重も……」
 「七重はあなたを犯罪者にするために助けたのではないでしょう」はっきりと言い切った久我は、その後にぽつりと付け加えた。「私はそうさせてしまうところでした」
 構わずに操縦桿へ手を伸ばそうとする木津を真寿美がまた押し止める。その目は自分もまた七重と同じ思いでいると言いたげだった。
 久我はおぼつかない足取りでG−MBの前に進むと、はっきりとした口調に立ち返り、続けた。
 「木津さん。このままではあなたも彼と同じです。それはやめてください。七重もそれを望んではいないはずです。いいえ、七重だけではないでしょう」
 それを聞いて、木津の腕に縋り付く真寿美がまた体を震わせた。
 「あなたと」久我は後ずさりながら「ホット」に向き直る。「そしてあなたを止めます。この体を楯にしてでも」
 「ホット」は崩れた顔を久我に向けたまま動かない。携えた銃の先も下に向けられている。それは久我がG−MBのコクピットに体を滑り込ませた時にも変わらなかった。
 動かなかったのは「ホット」だけではなかった。饗庭も、紗妃も、S−RYのコクピットで待機していた安芸も、そして真寿美も、木津も動かなかった。いや、動けなかった。
 G−MBが急発進する。「ホット」に向けて全速で。
 直後、三つの銃口が一斉に動いた。しかしその全てが沈黙を保ったままだった。
 玄武が跳んだ。躯体が真正面から「ホット」に当たる。その右腕が「ホット」の腰を抱え込み、二体はもつれながら倒れる。玄武の左手首がバックパックに向けられる。
 衝撃波の鈍い振動が空気を震わせた。そして爆発音が。
 饗庭が妹を庇って地に伏せる。青龍と朱雀も爆風を避けるべく腰を屈める。
 姿勢を戻した朱雀の目の前で、絡み合った二体のVCDVが炎を上げていた。
 息を呑む木津の横で、真寿美がペダルを踏み込んだ。朱雀が炎の中に飛び込む。続いて走った青龍が、玄武から「ホット」を引き剥がす。朱雀も玄武の腕を掴んで引きずり出すと、消火剤を投げ付けた。フックを引く。弾け飛ぶハッチ。コクピットの中でぐったりとしている久我を救い出し、朱雀は饗庭たちの前に久我を寝かせ、S−ZCに戻る。
 向こう側からは同じように男の体を掌に横たえた青龍が駆け寄る。
 真寿美が、木津が続いてコクピットから飛び出す。真寿美は久我の側へ、そして木津は足を止めた青龍の横へ。
 「進ちゃん、早く降ろせ!」木津が青龍の脚を叩きながら言う。「奴の面を拝ませろ!」
 青龍が腰を屈め、右手を静かに下げる。
 拳を握りしめ、食らい付かんばかりの勢いで、木津は手の上に横たわる男の顔を覗き込んだ。直後木津は、それまでの勢いを完全に殺がれ、呆然と立ち尽くした。
 バイザーの破れたヘルメットの中に回った火で、「ホット」の顔は識別できない程に焼け崩れていた。
 背後では真寿美の声が飛んでいる。
 「紗妃さん、ディレクターは?」
 問われた紗妃は、しゃくりあげていて言葉が言葉になっていなかった。ただ頷いて、心肺機能が止まっていないことを伝えるしか出来なかった。
 頷き返した真寿美がさらに指示を飛ばす。
 「饗庭さん、安芸君、二人をLOVEに」
 青龍が立ち尽くしたままの木津から数歩下がると、手に「ホット」を載せたままハーフに変形する。
 S−ZCの横では、饗庭が久我を助手席に乗せると、紗妃にS−RYに乗るよう促した。
 紗妃の涙ぐんだ目が真寿美の目と合う。真寿美は頷いて言った
 「行って。あたしはまだ……」
 振り返った先には木津の背中。
 「少し経ったら、迎えに来て」
 頷く紗妃が乗り込んだS−RYとS−ZCが走り去るのを見送ると、真寿美は木津の傍らに歩み寄った。
 「終わっちまったのか……これで」
 呟く木津の手に真寿美は自分の手を重ねようとしたが、躊躇って止めた。
 「俺は……何もしてなかったのに……」
 何事もなかったかのように、波の音。
 と、突然木津の体がぐらりと揺れた。張り詰めていたものが急に抜けた、そんな風だった。抱きとめる真寿美の耳に、かすれた木津の声が聞こえる。
 「眠い……」
 「眠って、いいですよ……もう」
 真寿美に支えられながら木津は気怠そうに腰を下ろすと、片腕を枕に地面に寝転がる。その頭を、傍らに座り込んだ真寿美がもたげ、膝に載せた。
 程なく木津は眠りに落ちた。真寿美がその手首を取って鼓動を確かめるほどの深い眠りだった。
 取った手を自分の両手に包み込み、波音と微かな寝息とを聞きながら、真寿美は木津の寝顔に見入った。
 虚ろな寝顔だった。
 

 蝉が鳴いていた。工場地区にいた去年の今日は聞くことが出来なかった蝉の声。
 傾きかけた陽が差し込む。都市区域の中にあるLOVE本部の廊下の窓。外を眺めていた真寿美は、肩を叩かれ振り返った。
 「サボり?」
 「休憩って言って」
 「休憩休憩サボって休憩」
 本部の制服を身にまとった紗妃は笑いながら真寿美の横に並び、同じように外に目をやった。途切れては始まる蝉の声。
 長く続く沈黙の中で、だが二人は同じことを考えていた。
 「……もう、一年経っちゃったんだね」
 「そうね」
 再び訪れた沈黙。二人はやはり同じように、一年前からのことを思い返していた。
 

 燃える機体から救出された「ホット」は、結局助からなかった。玄武の衝突によってハッチが損傷し、コクピットの中まで火が入り込むことになったのだった。
 一方の久我は衝突のために後頭部の傷が開き、数日意識が戻らなかったが、打撲とごく軽い火傷だけで済んでいた。
 この一件を嗅ぎつけた当局は動きを見せたが、通り一遍の調査の後、うやむやのうちに手を引いてしまった。自らも脛に傷持つ当局としては、これを機に何もなかったことにする方が得策と判断したのだろう、というのが安芸の推測だった。そしてこれに引き続き、VCDVの導入を中止する旨が当局からLOVEに通達された。
 存在意義のなくなったM開発部は、LOVE上層部の決定によって解散となり、工場地区の研究棟も閉鎖された。しかし久我は、それに先んじて辞表を提出していた。表向きは傷病のため職務遂行困難というのが理由だったが、組織を半ば私して復讐を遂げた後なお職に留まるのを潔しとしないというのがその真意だと、去り際に久我はMISSESのメンバーに告げて行った。
 阿久津もまた職を辞していた。これもまた組織の解散を理由に掲げていたが、その実は指示だったとは言え、G−MBの荷室に火薬を積み、久我の自爆に手を貸した己を責めてのことだった。
 MISSESのメンバーも欠けていた。
 最後の攻防で自殺同然の突撃を見せた由良は、一命は取り留めたものの、右腕右脚を喪った。そして精神の傷はさらに大きかった。当局に戻ることはおろか、LOVEに残ることも最早出来ない体となった由良は、療養施設での生活を余儀なくされていた。
 安芸に自分の新たな場を探すと告げた饗庭も、LOVEの外にそれを求めて去っていった。その新たな場については饗庭らしく何も語ることはなかったが、紗妃が伝えたところによると、由良の心身を癒すことにそれを見出したらしかった。
 そしてもう一人、木津が姿を消していた。
 あの後、LOVE内の自室に運ばれてもなお目を醒まさなかった木津に、真寿美はずっと付き添っていた。これと言ってはっきりとした理由を持ってではなく、ただそうしていた方がいいと思えたが故に、シャワーを浴びることはおろか、着替えすらせずに、眠る木津の横に座っていた。だが疲労から真寿美自身も眠りに落ちてしまい、気付くと朝の光が空のベッドの上に白々と舞っていた。
 そしてそれきり木津の行方は杳として知れなかった。
 

 真寿美のごく小さな溜息に応えるように、紗妃が口を切った。
 「みんな、元気かな?」
 「由良さんの具合はどうなの?」
 「うん……兄貴は相変わらずあの調子で何も言わないんだけど……雰囲気からするとなかなか難しいみたい」
 「そうなんだ……」
 「久我ディレクターとか阿久津主管はどうしてるんだろうね。真寿美ちゃん連絡取ったりしてる?」
 「ううん」
 「そっか……」
 「でもきっと元気だと思う」窓の外を見たまま真寿美は言う。紗妃があえて避けていた名前を自ら。「仁さんも」
 紗妃が思わず真寿美の横顔に目をやった。それからそれに倣って視線を戻す。
 「そうよね、木津さんなんか挨拶を忘れて行っちゃうんだから」
 くるりと振り返り、窓に凭れると、紗妃は殊更に明るく言葉を続けた。
 「またとぼけてひょっこり戻ってくるかもね。いつもの調子で」
 真寿美は右手をスカートのポケットに忍ばせ、そこに入っていたマスコットを握りしめる。それはあの後残骸として引き上げられた白虎のコクピットから真寿美が自分の手で回収した、メイン・キー・カードのキーホルダーとして揺れていたあの溶けかけたパンダのマスコットだった。
 真寿美は静かに首を横に振った。
 「仁さんは、戻ってこないと思う」
 紗妃は眉をひそめた。
 「いいの? それで」
 頷く真寿美。
 「だって……」
 「あのね」紗妃と同じように窓に凭れると、真寿美は紗妃の顔を見上げた。「あのね、仁さんは……あの時にそれまで自分を支えてきたものをなくしちゃったの。仁さんが望んでいたのとは違う形で」
 「支えてきたもの?」
 「仇を取りたいっていう気持ち。前に紗妃さんから仁さんの事故のことを教えてもらったでしょ? あの時に亡くなった七重さんは、仁さんにとって一番大事な人だったの」
 と、真寿美の口許に笑みが浮かんだ。
 「大事な人だったの。あたしなんかじゃ代わりにはなれなかったぐらいに」
 視線を外して紗妃は一つ息を吐いた。
 「でも、忘れられないのね?」
 「うん、忘れられない。それに、忘れようとも思わないし」
 もう一度真寿美は窓に向かって立った。肩に届かないほどの髪に、夕暮れの光が跳ねる。
 「あのね、仁さんもそうだし、多分饗庭さんも、由良さんも、久我ディレクターも同じだと思うんだけど、みんな守りたかったものを守れなかったんじゃないかな」
 「兄貴?」
 「うん、由良さんのこと。それでね、みんな、結果として守れなかったっていうことをきっとすごく重く感じてるのね」
 真寿美は空を見上げるように顔を上げた。 「あたしは確かに七重さんの代わりにはなれなかったけど、それに何度も仁さんに助けられたりしたけど、でも、最後の一度だけでも仁さんを守ることが出来たもの。それは忘れなきゃいけないことなんかじゃなくって、ずっと誇りに思ってていいことだと思う。だからね……」
 少しうつむいて真寿美は続ける。
 「だからね、また誰かを好きになった時、あたしは好きな人を守れたんだって、守れる力を持ってたんだって、きっとそんなふうに思っていられるから……」
 「真寿美ちゃん……」
 「だから、忘れない」
 顔を上げて微笑む真寿美。その目に浮かぶ涙が、夕陽を受けて光った。
 

 

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