Chase 01 - 招かれた男

 
 コンソールのナヴィゲーション画面が目的地に到達したことを輝点の気忙しい明滅で報せると、無造作に拳が飛んできて、スイッチを叩き切った。その拳が開き、画面の脇に挟み込んであるいささか古風な名刺を摘み上げる。
 そこに記されたビルの名前と、目の前の実際のビルを比べて、彼は場所が正しいのと同時に、ビルの方がいささか名前負けしていることを認識する。そもそも彼を呼び付けたこの研究所とやらの名前からしてが笑わせる。特殊車両研究所(Laboratory of Original Vehicles)の略称だとしても、LOVEというのはどうにかならなかったものか。来てみれば想像以上に胡散臭い。しかし訳ありの自分に眼を着けるような研究所だ、まるっきり真っ当だとも思えないし、何よりもどういう了見で自分を呼び付けたのか聞かないと気が済まない。
 彼の右足がスロットルを開くと、少し時代遅れになったコールド・モーター・ユニットが気になる異音をあげつつ車を加速させる。車はそのまま駐車場へと飛び込んでいった。
 

 この時代、化石燃料の欠乏等からジェットやレシプロ等の旧世代のエンジン類(ホット・モーター・ユニット、略してホットと呼ばれる)はその姿をほとんど消しており、趣味人の手元か博物館、研究所等の施設でしか見られなくなっていた。それに取って代わった電気式のコールド・モーター・ユニットがいわゆる「エンジン」として通用するようになり、陸上・海上の交通手段に導入されていた。
 しかし航空交通だけが技術的困難と大気圏環境の変動による制約により大きく遅れをとり、ごく小規模かつ低空に対応した機体以外は姿を消しつつあった。
 一方でそれをカバーするかのように陸上交通、殊に自動車の発展は「いろいろな意味で」著しかった。この研究所もそうした発展の一翼を担っているのだろう……
 

 研究所の入口には、ご多分に漏れず守衛代わりの機械が鎮座している。「こんにちは」だの「職員の方はIDカードを提示してください」だのと、合成の女声で言ってくるその機械の鼻面に、彼は煙草の煙と例の名刺とを突き付ける。
 「このお方に呼ばれてるんだがね」
 ほんの0.5秒ほど機械はパニックを起こしたように見えた。が、その後は一も二もなく行き先の案内画面を表示してくる。見ると、そこは通常外部の、しかも初めて訪れる人間が通されるはずもない上層階の一室である。
 随分な待遇じゃないか、と彼は思う。この研究所に足を踏み入れたことはおろか、実は例の名刺の人物に会ったことさえないのである。ここまでされるとなおのこと気持ちが悪い。が、まあいい。理由だけはとっくりと聞かせてもらおう。
 先を急ごうとする彼を、合成音声が呼び止めた。
 「構内は禁煙となっております。お煙草はこちらにお捨てください」
 灰皿を差し出して待つ機械に、返事代わりに彼はもう一度煙を吹きかけた。
 

 「Division Director」とある自動扉のタッチパッドに触れる。ロックはされていなかったか、誰何も何もなく開いた。その右奥のデスクについていた女が振り向いた。
 「あんたか、この名刺の主は? 特殊車両研究所のM開発部ディレクター、久我涼子さんってのは」
 三十代前半と見えるその女は腰を上げると、問いかけた男の方に数歩歩み寄り、会釈をしたがその眼は微笑だにしていなかった。
 「ご足労願って申し訳ありませんでした、木津仁さん。どうぞお掛け……」
 女が言い終わる前に、木津は応接用のソファに腰を下ろしていた。だがそれには特別な反応も示さず、彼女は続けた。
 「コーヒーをお飲みになりますか?」
 「アルコールは出そうにないな」
 「まだ勤務時間中ですので」
 相変わらずにこりともしない女の態度に、木津の口元が少し歪む。
 「それじゃコーヒーを。三倍濃縮のエスプレッソだ」
 「承知しました」
 おいおい、本当に出す気かよ。女はインタホンでどこだかにその通りのオーダーを告げ、自分もソファに腰を下ろす。
 「申し遅れて失礼しました。私が久我涼子です。このLOVEでM開発部のディレクターを務めております」
 「知ってる」と、間髪を入れずに木津。「名刺は見たからな」
 そして久我に視線を走らせると、続ける。
「それよりも俺が知りたいのは、何故俺みたいな奴をここに呼び付けたかだ。足代にしちゃちょっとまともじゃない金額をよこして、理由は来れば説明します、と来た。どうしたって出向かざるを得ないような状況だよ」
 答を促すような沈黙にも久我は答えない。代わりに木津が続けた。
 「こういうやり方を取るってことは、俺のことも相当調べてあるらしいな。あのことも含めて」
 「その通りです」
 わずかとは言え木津がのけぞる程に、決然として強い口調だった。のけぞった木津の上体が再びさっきまでのように前屈みになるのを待って、繰り返した。
 「その通りです。その上で、私たちはあなたが必要であると判断しました」
 「俺が必要、ね」
 「正確には、あなたの能力が、ですが」
 「昔取った何とかで、テストドライバーでもやれと言うつもりかい?」と、肩をすくめながら木津。「テストドライバーに事欠くほど、おたくのプロトタイプには事故が多いのか?」
 皮肉めかして笑う木津に、初めて久我が笑い返す。ただ口元だけで。そして答える。
 「今回のケースはそうかも知れません」
 「おい!」
 思わず木津は立ち上がる。と、そこにインタホンから妙に甲高く弾けた声が割り込む。
 「コーヒーをお持ちしましたぁ!」
 久我はデスクのインタホンの所まで戻る。
 「入って。ロックはしていないわ」
 木津が扉の方に振り向くと、事務服姿の小柄な、二十歳そこそこと見える若い女が、カップの載ったトレイを手に入って来た。
 「失礼します」と彼女は、木津の前にデミタスのカップを置く。座り直ししな、胸のIDカードに、「峰岡真寿美」の名前が読めた。彼女は木津に微笑んで見せると、久我に同じくデミタスのカップを差し出すと、言った。
 「こちらの方が新しくメンバーになられるんですか?」
 「余計なことを言うんじゃありません。木津さんにはまだ何のお話もさし上げていないんだから」
 「はい、失礼しました!」
 弾かれたように頭を下げると、そそくさと彼女は部屋を後にした。出て行き掛けにもう一度木津に微笑みかけて。
 困ったものだ、という表情をすぐに消して、久我はコーヒーを木津に勧める。
 「うえっ!」
 うっかりすすった三倍濃縮のエスプレッソは冗談抜きの強烈な代物だった。
 「お口に合いませんか?」
 「どうやらあんたの辞書には冗談の文字は無いらしいってのは分かったよ。さっきの事故率の話も、まんざらの嘘じゃなさそうだな」
 「厳密に言うと少し違います」と久我。
 「てぇと?」
 「立場上逆になるとは存じておりますが、先に何点かお尋ねしてもよろしいですか?」
 そう切り出されては、応じざるを得ない。ディレクターを任されるだけあって、この女、なかなかのやり手だな。
 「何だ?」
 「あの事件から一年になりますが、それ以来は走ってはいらっしゃらないそうですね?」
 「ああ」と木津は答え、窓の外に目を遣る。
 「プライベートでも?」
 「退職金代わりによこしたあのポンコツじゃあ無理というもんだ」
 久我はそれには答えず、次の質問に移った。
 「この研究所について、予備知識がおありでしたか?」
 「ない」とだけ答え、木津は続く問いを待ったが、久我は
 「分かりました」
 と言っただけだった。
 これにカチンと来たのか、木津は言った。
 「いつになったら俺の質問の番が回ってくるのかね?」
 応じる久我の方は、慌てた様子もなく言う。
 「もう一点だけお願いします」
 木津は口を尖らせるが、かまわず久我は続けた。
 「あの事件の相手をまだ怨んでいらっしゃいますか?」
 木津は思わず立ち上がって叫んだ。
 「それとあんたらと、何の関係がある?」
 そこへ再びインタホンの割り込み。聞いたような女の声が。
 「出動要請です。武装暴走車五台、ルートC553、テイト社工場跡から東に走行中。捕捉の指示が来ています」
 「武装暴走車?」 
 木津の声を無視して、久我はインタホンに近付く。
 「マース1からマース3まで出動。指揮はマース1に任せます。いいわね峰岡? C553ということは、研究所に接近する可能性もあります」
 「了解!」
 木津は声の主を思い出した。さっきコーヒーを持って来た、あの小娘が指揮?
 この展開にいささか唖然としている木津に、今までと全く変化のない口調で久我が言う。
 「お話さし上げようと思っていましたが、ご覧頂いた方が主旨をよりご理解頂けそうですね。こちらへおいでください」
 とりあえずはその言葉に従う他なかった。
 

 久我は木津が来るまで座っていたデスクに戻り、事務器用と思われるディスプレイ・スクリーンを机板から引き起こした。立ったままのぞき込む木津の目に、いくつかに分割された画面が映る。一つはナヴィゲーションのそれ同様に輝点を表示した地図、他の三枚は車のフロントガラスからのと思しきビデオ映像で、各々の左上隅にはM−1から3までの記号が入っていた。さっき言っていた「マース1」云々のことだろう。
 地図の上で、彼我を示す紅白の輝点はまだゆうに十五キロは離れていて、しかも向かって来る赤い点に対して、白い点はまだ全く動く気配を見せない。と、そこにさっきと同じ女の声。コーヒーを運んで来た時と変わらない、高く弾けた調子で。
 「スタンバイOK! 出ます!」
 M−1からの映像が急に動き、一瞬の後には流れる公道とその両脇の景色となる。
 「出てるな……のっけから二百五十か」
 思わず木津はつぶやく。それを聞き逃さなかったか、久我が問う。
 「やはり勘は鈍ってはいらっしゃらないようですね」
 その目の前で、地図上の輝点は見る間にその間隔を縮めて行く。
 まもなく峰岡の声。
 「インサイト! 捕捉します!」
 M−1の画面の奥の方に小さく見えていた影は、見る見る邪悪な印象の武装車両の姿となってくる。
 「捕捉って、車でか?」と少し嘲るような木津の口調。「連中が素直に停まるようなタマかい? おっ!」
 武装暴走車の先頭の一台が機銃らしいものを撃ってきた。M−2とM−3は避けるが、M−1は動じる様子もなく直進する。
 「今のは威嚇です」と、落ち着いた声で久我が言う。「しばらくはこの調子で遊んでくるでしょうね」
 「遊び、ね。最近のガキどもと来た日にゃ……」
 追って二台が撃ち始めた瞬間、両者はすれ違った。次の瞬間、M−1は暴走車の後ろを捉えている。M−2も3もターンは決して遅くはないが、峰岡に比べると相当もたついて見える。
 「ほぉ……結構いい腕してるんだ」
 「後尾二台、止めます!」
 その声と同時にM−1が急加速。そして最後尾を並走していた二台の前に躍り出す。泡を食った二台は頭から接触、への字型に潰れて止まる。
 「マース3、落伍車確保!」
 「了解!」
 峰岡の指令に従って、「マース3」は潰れた二台の脇で止まる。残る二台はさらに武装暴走車を追う。
 「あんた方って、ここまでする権利あるわけ?」
 そう問う木津に、静かに、だが確信を持って久我が答える。
 「あります」
 

 仲間が潰されたのを見たか、先行する三台が今度は本気で狙いを付けて撃ち始めた。M−2の画面では、銃撃をいともたやすく避けつつ追尾する「マース1」の尾部が見える。
 暴走車がカウンターステアを当てながら急カーブを切って、建物の谷間となった脇道へ飛び込んでいく。間髪を入れず峰岡の「マース1」が、だが脇道へ飛び込まず、その向こうで百八十度ターンする。
 「何だよ、この程度でオーバーランか?」
 そう木津が言い終わるか終わらない内に、「マース2」が脇道の横へ差し掛かる。次の瞬間、M−2の画像が途切れる。一方M−1の画像は、砲撃を受けて転覆した「マース2」の姿を捉えていた。
 「うわっ……本気かよ」
 「今度は本気です」と冷静に久我。その横の画面で、赤い輝点が再び動き出す。それを見て、久我が指示を出す。
 「マース3、落伍車両と乗員の確保は?」
 「今完了しました!」と、今度は男の声。
 「マース1の援護に回りなさい。目標は重砲を使用しています」
 「了解」
 地図上の白い輝点が再び動き出す。
 一方峰岡の「マース1」は、重砲を交えた砲撃をかわしながら追跡を続けている。時速二百キロは下らない速度のまま、「マース1」は見事にコントロールされている。
 脇道を抜け、再びメイン・ルートに出た三つの赤い輝点とそれを追う白い輝点は、LOVEのある地区へ急速に近付いて来ていた。そしてもう一つの白い輝点がじりじりと差を詰めてきた。
 三角形になって走っていた暴走車の後ろ二台が、何の前触れもなくブレーキをかけた。思わず木津は上体を乗り出す。
 「マース1」は一瞬のブレーキングの後、対向車線に飛び出す。わずかに遅れて、その跡に機銃弾が集中する。その様子がようやくM−3の画面にも入ってきた。
 飛び出した「マース1」はそのままフル加速し、暴走車の先頭を遥かに引き離す。そして数百メートル先でスピン・ターンし、そのまま輝点もろとも停止した。
 「停まった?」
 泡を食ったのは、しかし木津だけではなかった。武装暴走車も確かにブレーキを踏んだようだった。その両翼を狙って、銃撃。後ろ二台の機銃が正確に吹き飛ばされた。そしてその後方に、追って来ていたはずの「マース3」の車体の代わりに、半ば人型、半ば車両の形をした奇妙な機械がいた。
 木津は思わずM−3の画面に視線を動かす。そこにもまた「マース1」の代わりに、今度はほぼ人型をしたロボット(?)が、暴走車に立ちはだかるように左腕を伸ばしていた。
 「な、何だありゃ?」
 「私たちLOVEの開発した可変刑事捜索車両の最初のモデルです」
 「刑事捜索ってことは……おまわりさん?」
 「厳密に言うと少し違います」
 その違いを問い質す前に、木津は再び画面に見入った。
 機銃を吹き飛ばされた二台の暴走車は、半人半車の「マース3」の「手」に、電源ユニットを抉り取られて動けなくなっていた。
 残りの一台、重砲を積んだリーダーと思しき車は、それでも発砲しつつ「マース1」へと向かって行く。「マース1」はジャンプしてかわし、相手に左腕を伸ばす。次の瞬間、暴走車の前輪がはじけ飛び、バランスを崩した暴走車はスピンしながらLOVEの駐車場に突っ込む。そして、そこに駐められていた旧型の車を潰して止まった。
 「お、俺の車が!」
 木津のこの声に久我は振り返り、やっと人並みの反応を示す。
 「あなたのお車でしたか。これは申し訳ないことを致しました……」
 「申し訳ないって……」
 と木津が詰め寄りかけた時、
 「確保終了〜!」
 と例の弾けた高音が聞こえてきた。
 「全車両確保しましたぁ! 乗員八名も身柄確保ですぅ!」
 「よくやったわ、と言いたいところだけど、最後が問題だったわ」
 「えっ?」
 「巻き添えにした車は、木津さんのだったのよ」
 「え、え、え、えぇ〜?」
 M−1のカメラがスクラップと化した木津の車を映し出す。
 「帰投後に出頭しなさい。それと、『マース2』の状況は?」
 「は、はい。安芸君がフォローしました。五十五ミリ有炸薬の実体弾直撃で機体は中破、単独での移動は不可能です。小松さんは両脚と右腕、肋骨の骨折です」
 「分かりました。『マース3』は回収班の到着までそのまま『マース2』をフォロー。『マース1』、あなたはそこからそのまま帰投しなさい」
 「……了解しました」
 さっきとは打って変わったしょげた声。それに相変わらず腹が立つほど冷静な久我の声が続く。
 「本当に申し訳ありません」その後にわずかな間があって、「代わりの車は準備致しますので、どうぞ今回はお許しください。これから今回お招きした件について、ご説明申し上げます。どうぞそちらへお掛けになってください」
 

 冷めた三倍濃縮のエスプレッソを脇に押しやり、肘を突き、組んだ両手の上に顎を乗せ、上目遣いで木津は久我の話を聞く。
 「今ご覧頂いた通り、私たちは可変刑事捜索車両の開発と同時に、試験運用の責も負っています。これは警察の方から要請と認可を受けて行っているもので、私たちが警察機構に組み入れられているという訳ではありません。先程警察とは少し違うとお話申し上げたのは、そういうことです」
 木津は黙ったまま、何の反応も示さずに聞いている。
 「試験運用は現在ニ車種二チーム体制で実施しています。ただし実際に刑事任務に着いているのはまだ先程のチームだけです。もう一チームは車両の調整と慣熟に当たっています。こちらは先程とは別の新造車両を使用するのですが、新造でもありまた機構が変更されていることもあって、稼動が少し遅れています。さらに計画ではもう二車種の導入を計画しています。
 木津さん、今日ご足労願いましたのは、あなたの能力を私たちにお貸し頂きたい、私たちのチームに加わって頂きたい、とお願い申し上げるためです。もちろん今すぐお返事頂きたいとは申しませんし、無理強いをするつもりもございません。ただ、あなたの能力はこのまま埋もれさせるには忍びないものがあります」
 「あんた、さっき、事故は少なくないと言ってたな。事故ってのは、さっきみたいに撃たれて吹き飛ばされることを言うのか?」
 低い声で問う木津に、淡々と応える久我。
 「事故という表現は妥当ではありませんでした。しかしいずれにせよ危険性という点ではそれを免れることはありません。ただテストドライバーと違うのは、危険性の回避の全ての責任は、自らが負うという点においてです。それはレースの場でも同じではないですか?」
 少し言葉を切ると、久我は木津の表情を見る。が、特に反応を示さずに続けた。
 「もちろんあなたの命ですから、好んで危険にさらせと申し上げる権利は私たちにはありません。しかしこのまま埋もれたのでは、生きた命であると言うことも出来ないのではないでしょうか?」
 木津が口を開きかけた時、インタホンから声がする。
 「峰岡、帰還しました」
 失礼、と木津に一声掛けてから、久我はインタホンに向かって入るように指示する。
 ヘルメットを小脇に抱え、レーシングスーツに似た服に身を包んではいるが、顔は確かにさっきコーヒーを運んで来たあの女だ。
 入ってくるなり、木津の姿を探し当てると、
 「申し訳ありません!」
 と首の抜けそうな勢いで頭を下げた。
 久我はつい吹き出しかけて、思わず立ち上がった。
 「紹介します」と久我。「峰岡真寿美です。先程出動したマース・チームの第一ドライバーを任せています」
 峰岡は再度頭を下げる。
 「こちらは木津仁さん。ご協力頂けるようお願いをしています。木津さん、お掛けください。峰岡、あなたもこちらへ」
 峰岡は久我の横に腰を下ろした。
 久我が木津に問いかける。
 「お飲み物をもう一杯いかがですか?」
 「いや、三倍濃縮で失敗したから遠慮しておく」
 峰岡の口元が少し緩む。
 久我は今度は峰岡に。
 「先に報告しておくことは?」
 「はい。今回の件は『ホット』には関連ないようです」
 「『ホット』だと?」
 声を荒げる木津に、久我は
 「ええ、そうです」
 とだけ答え、再び問いかけた。
 「この峰岡をはじめ、私たちの技術面については、いかが思われましたか?」
 「ちょっと待ってくれ」といささか気色ばんで木津が止める。「今の『ホット』ってのは何だ?」
 峰岡が木津の、それから久我の顔を覗き込む。それには意を留めず、久我は簡単に答える。
 「最近の一部の刑事事件は、裏側にホット・ユニットを積んだ車両とその主が介在する組織的なものであるとの情報があります。それを確認しているのです」
 「『ホット』か……」
 そうつぶやいて、木津は立ち上がった。その表情は少し険しくなっていた。
 それに気付いてか気付かずか、久我の落ち着いた声が。
 「お話を戻させて頂いてもよろしいでしょうか?」
 「……ああ」
 険しい表情はそのままに、木津は再び腰を下ろし、ほとんど無意識のままに傍らのコーヒーカップに手を伸ばし、口を付ける。
 「うぶっ!」
 カップの中身は例の三倍濃縮、しかも冷めきったエスプレッソだった。
 峰岡が脇を向いてうつむく。しかしその肩の小刻みな震え方から、どう見ても爆笑するのを必死でこらえているのが分かる。おまけにくっくっと声まで聞こえてくる。
 「峰岡!」
 と、さすがに久我も少し声を上げる。
 「ご、ごめんなさい……あー苦しい」
 木津も思わず頬を緩めた。
 「度重ねての失礼、お詫びのしようもございません。本当に申し訳ありません」
 そう言う久我の横で、峰岡の肩はまだ震えている。
 「でも」と木津。「テクニックは相当のものを持っていると認めてもいい。一緒に出ていった二人よりも遥かに上に見えた」
 その言葉を聞いた途端、峰岡の眼差しが真剣みを帯びる。
 「ありがとうございます」
 「木津さんご自身の印象としては、この中にあって、もの足りないと感じられることはなさそうですか?」
 と、調子を変えることなく久我が切り込んでくる。
 「うーん……それはそうかも知れないが、ただそれだけじゃ済まないだろう」
 車のテクニックだけでは、と言ったつもりだったが、久我は違う答えをした。
 「お返事を急かすつもりはございません。一週間後までに諾否をご連絡頂ければ、それで結構です。ああ、代わりのお車を準備させなければいけませんでしたね」
 久我はデスクで電話を取った。
 「久我です。……いいえ、駐車場に準備を……そうです、S−ZCを……」
 峰岡が急に振り返った。が、久我の送るわずかに咎めるような視線に向き直った。
 木津は峰岡に尋ねた。
 「S−ZCってのは?」
 峰岡が口を開くより早く、ソファに戻って来た久我が腰も下ろさずに簡単に答えた。
 「LOVEの車種コードです」
  肩をすくめる木津を見ながら席に着いた久我が尋ねる。
 「何かご確認なさりたいことは他にございますか? 機密に触れないレベルであればお答え差し上げます」
 木津はもう一度肩をすくめて、言った。
 「突っついてみても、これ以上はとりあえず何も出て来そうにはないな。答えは一週間以内でいいんだな?」
 「はい、色よいお返事をお待ち申し上げます」
 座ったばかりの久我はまた立ち上がって、頭を下げた。
 「今日は長いことお引き止めした上に、数々の失礼、申し訳ございませんでした。まもなく車の用意も出来ると思います。私はこちらで失礼させて頂きますが、駐車場までは峰岡がお送り致します」
 

 エレベーターを待ちながら、峰岡は半ば上の空の木津に盛んに話し掛けていた。自分の潰した車の話、三倍濃縮の、峰岡の曰くウルトラ・エスプレッソの話、木津の肩くらいまでしかない自分の背丈の話……
 「で、君は」と、エレベーターのドアが開いたのを見計らって、木津が口を切る。「専属のドライバー?」
 「いいえ、普段は研究所のお茶くみです」
 「お茶くみ?」
 「はい。もし木津さんが来られたら、専属としては初めてだと思いますよ」
 「他はみんな研究所との掛け持ちなんだ」
 一階。エレベーターのドアが開く。木津が入口の方に歩きかけると、峰岡が止める。
 「木津さん、こっちです」
 入口と反対に続く廊下。突き当たりに手動ドア。開くと薄暗い下りの階段。
 「何だか待遇悪そうな場所だな」
 ふと思い当たった木津が問いかけた。
 「あの任務ってやつも結構危険なものだと思うけど?」
 「それはさっきの小松さんみたいに怪我することだってありますしね。でも結局は自分の責任だと思うんです」
 「ディレクターと同じことを言うね。でも、人に発砲する時ってのは気分悪くない?」
 峰岡は怪訝そうな顔をする。
 「発砲って、人にはしてないですよ」
 「そのうちそういうことも出てこないとは言えないんじゃないかな?」
 二人はまたドアに突き当たった。峰岡がカード・キーを通してロックを解除する。
 ドアが開かれる。そして峰岡が言った。
 「この車です」
 

 

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