福島にて・・・9月(2)

2011/09/18〜21

9月19日『までいな一日。』当日の朝、岳温泉周辺は霧雨が降ったりやんだり。昨夜、日付が変わってから『温(ぬく)』に到着した渡辺・小澤・菱本組とともに、朝9時に出発。
 イベント会場は、8月に上松さんと一緒に伺った松川工業団地内にある飯舘村の仮設住宅の駐車場である。4号線バイパスを下りて最初の曲がり角に、『までいな一日。』の案内板が立っている。
「へぇー、もう案内があるね!」
数十メートル先の次の曲がり角には、水色のTシャツを着たスタッフが案内板を持って立っている。その先に水色のTシャツがどんどん増えて来る。彼らの顔を見て、なぜかとても感動した。

すでに大勢が集まっている会場で、出演者であることを告げて、駐車場まで誘導させてもらった。
「あー!先月川俣で聞きました。ほら、絹蔵で。やったでしょ?」
「今日も楽しみにしています。」
さっそく、たくさんの方々に声をかけていただいた。

「どうもお世話になります。」
総合ディレクターの菅野新也さんだ。とても晴れやかな表情。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
「どうもー!たびたびありがとうございます!」
飯舘村役場の佐藤周一さん。
「イベントが実現して良かったですね。」
固い握手を交わす。

 

昨日のうちに福島入りしていた『クレフ』のメンバーはみんな、ヘアーメイク・ブースの準備に動き回っていた。
「みなさん、おはよう!朝早くからご苦労さまー!今日はよろしくお願いしまーす!」
オッキー、みやさん、里さん、スギ、ケンちゃん…総勢13名!みんな元気いっぱい。
全員水色のTシャツを着ている。
「エ!これ支給品?」
「いえ、偶然ですよ。でもね、チラシの青なんですよ。」
打ち合わせもなく、気持ちがすでに合わさっていたのだ。
「来れましたー!」
ニョタのマリちゃんだ。
「来てくれてありがとう!」
「『までいなイベント』が実現しましたね。」

 

会場の食べ物コーナーには、『マジーノアール』『上海』『そうすけ』、そして飯舘村で営業していた喫茶店『唖久里』のテントが並ぶ。一番奥には『ドン・ミゲルのエンパナーダ』の移動販売車。
大きな特設舞台の前には、たくさんの人たちが開演を待っている。会場をぐるりと見渡したら、急に胸がいっぱいになった。みんなで持ち寄ったイベント。みんなの気持ちが実現させたイベントなのだ。

「久しぶりー!」
「6月以来ですね。」
Yaeさん一行が到着した。
「やっと来れた、っていう感じね。」
マネージャーの池上さんもうれしそう。
今回のYaeさんユニットのメンバーには、パーカッションの渡辺亮さんも参加している。
「しばらくー!」
亮さんとは、7月のライブ以来だ。

午前11時、ラジオ福島の菅原アナウンサーの司会で、イベントは始まった。天気はなんとかもっている。地元松川町の〜太鼓の伴奏で、郡山在住の書家YOCOさんが、ステージバックの題字を書く。『絆つながる までいな一日』。

松川〜太鼓演奏の最中、私たちは簡単な音合わせのために、少し離れた松川第二仮設の集会場へと移動した。集会場には『ふれあい交番』の看板が掛っている。
「誰かが助けをもとめて来たら如何しましょう?」
「そんときは、どうぞそのままに。」(笑)
会場の雰囲気を見て、予定していたプログラムの一部を手直し、小一時間のリハーサルを終えた。

>  入れ代わりに、Yaeさんたちが加藤登紀子さんと入って来た。
「今日はよろしくお願いします。」
「こちらこそ。あら、もう終わり?まだいいのよ。」
「いえ、ちょうど終わりましたので、あとはご自由にお使いください。」
私たちは、グゥグゥ鳴るお腹に、屋台の料理に期待しつつ、会場広場に戻った。

「木下さん、すぐに食べられるものは、もう何にもないっすよ。」
渡辺隆雄さんがナシを齧りながら戻ってきた。
「・・・」
どれとどれを食べようか、ぜんぶは食べられないからなぁ・・・という妄想は、空腹に鳴るお腹とともに、簡単に吹き飛んでしまった。

舞台では、飯舘村の比曽地区に伝わる三匹獅子舞が舞われている。かなり激しい踊りを、かなりの時間続けている。舞台には、村のしきたりであろう、ご祝儀袋がたくさん上がっていた。

手品をはさんで、いよいよ私たちの出番である。簡単な音響チェックのあと、演奏スタート。先ほど来、霧雨が降っている。屋根はあるものの、ステージの上で楽器はすでに水滴をつけている。会場にも、たくさんの傘のが開いた。客席中央に張られたテントの下は、超満員である。私たちの演奏途中から、ふたたび雨は止んだ。阿部洋子さんが、心配してお電話をくれていた。
「雨は大丈夫?こっちは土砂降りよー!」

演奏後、Yaeさんユニットの演奏を聞きながら、ヘアメイク・ブースの前で、クリフのメンバーと立ち話。テントの中のイスは、いつも満席状態だ。

「こんにちは!」
声をかけてくれた女性がいる。
「こんにちは。どこかでお会いしていますよね。」
「昨年のまでいな家で。」
ようやく思い出した。飯舘村で、自然農法の田んぼをされている小林麻里さんだ。
「今日はどうもありがとうございました。迷ったんですが、本当に来て良かったです。」
「一番前で聞いてて下さいましたね。」
「もっと踊れたら良かったんですが…次回はしっかり踊ります。」
「いまはどちらにいらっしゃるんですか?」
「飯野町の古い一軒家に、ネコたちと一緒に住んでいます。」
「私のいた地区は線量が高いので・・・。でも、私はできるだけ早く、少なくとも来年には戻ろうと思っているんです。」
「私の友人たち・・・移住組の中で残っているのは私1人になってしまいました。」
「『早く遠くに避難したほうがいい』って言われるんですけど、私はそういう気にはなれない。」
「稲を育てられない田んぼを、今年はビオトープにして水を張ったんです。そうしたら植物も動物も虫たちも、人間がいた頃よりずっと豊かに暮らしていて。ここにも、こんなに美しい生命の営みがあるんだって実感できたんです。」
麻里さんは名古屋出身。結婚を機に飯舘村に移住したが、4年前に最愛のご主人をガンでなくしている。
「これは私の判断ですが、私の中での放射能に対する恐怖は消えました。」
「放射能よりもっと怖いのは、こんな事態を引き起こした原発を、いまも認めようとする人間です。原発の利権に取り付いた、人間の欲望です。」
「放射能の危険ばかりを声高に報道しても、原発はなくならない。福島を孤立させるだけです。こちらのことは、こちらに来て見ないと、本当のところはわからないでしょう?」
「私はここに残って、ここからしか発信できないことを発信してゆこうと思います。」
麻里さんは、時折涙に詰まりながら、いまの想いをきっぱりと話してくれた。
「貴重なお話しをありがとうございました。」
「ごめんなさいね。木下さんたちだったら、私の話を聞いて下さると思って。」
「またお会いしましょう!」
「コスキン、必ず行きます!」
 後日、麻里さんからのメールに、二編の文章が添付してあった。その全文を載せてあるので、ぜひご一読いただきたい。

舞台は、特別ゲスト加藤登紀子さんのフィナーレである。
「最後にみんなで『ふるさと』を歌いましょうよ。」
登紀子さんに誘われていた事を思い出し、上松さん、菱本さんと共に舞台に急いだ。私も上松さんも、さっきいただいたスタッフジャンパーを着たままだ。
舞台でフルコーラスの『ふるさと』を歌う。たくさんの方々が、舞台下まで駆け寄って来た。握手、握手、握手。たくさんの風船を、みんなで空に飛ばす。
「さあ、みんなで一斉に。掛け声は・・・『負けねどー』で行きましょう。それではお願いします。」
いきなりマイクを向けられた。
「負けねどーー!!」
思いっきり大きな声で叫んだ。
色とりどりのバルーンが、曇り空に上っていって、やがて小さく見えなくなった。

・・・

『までいな一日。』の打ち上げは、沖縄料理のお店『ぱいなっぷる家(ハウス)』。6月に、菅野新也さんに連れて行っていただいたお店だ。
「木下さん、場所分かりますよねぇ。」
早く片付けの終わった私たちが、まず先発隊として行く事になった。

それほど広くない広間に、長机が三列。一番端のスペースに陣取っていると、まず菅野典雄村長が到着した。
「ご無沙汰いたしています。」
「このたびはご苦労さまでした。」
菅野村長は、6月にお会いした時と比べて、ずいぶん穏やかな表情に戻られた。
「比曽の菅野義樹さんの奥さん美枝子さんから、くれぐれもよろしくとの事です。」
「それはどうもありがとう。彼女も本当によく働いてくれましからね。」
 菅野義樹さんは、比曽地区で18代続く農家さんで、放牧による肉牛に力を入れていた。奥さんの美枝子さんは、役場職員として、までいな家を担当していた。昨年の満月ライブ後の会食で、菅野義樹さんご夫妻や村長さんと、これからの農業、これからの社会について、熱く語り合ったのだ。
「二人とも元気ですか?」
「はい、美枝子さんはおめでたで、ひたちなか市のご実家の方のいらっしゃいます。」
「義樹さんは、北海道で牧場を手伝いながら、バイオマス開発のプロジェクトにも参加されているようですね。」
「義樹さんは、比曽に桜を植える計画『つなげる、つながる、さくらプロジェクト』を立ち上げ、ご自分の撮った写真をポストカードにして販売しています。」
5枚一組のポストカードと、プロジェクトを紹介する北海道新聞の記事を見せた。
「それでは私もひとつ、協力させてもらいます。」
菅野村長は500円玉と引き換えに、ポストカード一組を取り上げた。
「どうもありがとうございます。義樹さんに、しっかり報告しておきます。」
「いやいや、これもやがて村に返ってくるお金ですから。」

「お疲れさまー!」
クリフ&ニョタ・チーム、Yaeさん一行、沖縄音楽のオレンジ・クローバー、役場の佐藤周一さん、そして菅野新也さん友加里さんご夫妻が、次々に到着した。佐藤周一さんの音頭で乾杯。
「一日も早く村に帰れるように!」
全員が全員とグラスを合わせた。
次々と運ばれてくる料理に、狭くなった広間を移動しつつ、幾度となく乾杯を繰り返した。

クリフ&ニョタの机に移動した。
「みなさん、お疲れさまー!かんぱーい!」
「6月にやった『までいなイベント』が、こんな形になりましたね!」
ニョタのマリちゃんも、満面の笑みだ。

震災直後からお互いに連絡を取り合い、被災地に対して何か出来ないかを考えてきた。マリちゃん、ケンちゃん夫妻は、若者向けのオシャレな衣類を持って4月初旬の仙台に入り、想像以上の惨状を目の当たりにして、肩を落として帰ってきた。
 程なく、クリフの沖本くんも交えて、これからの行動を模索する話し合いを持ち、飯舘村を支援するイベントを企画、6月に『までいなイベント〜のんで、たべて、しゃべりましょう』を開催したのだった。

「それにしても、すごいお客さんだったねぇ。」
「いやー、もうすごかったですよ。」
「食事の暇もなく、舞台を見に行くのも交代で1人ずつ、それも一曲ずつ。」
「4時過ぎには、みんなヘロヘロになってきて、もうこれは限界だーと思って、4時半までの札を下げたんですよ。」
「マッサージの服部くんは『もう指がまがらない』って。」
「でも、うれしいですねー。こんなに喜んでもらえて。」
クリフのメンバーは、何度もミーティングをもって、クリフ独自のヘアメイクを持ってきた。水色〜空色をテーマカラーとして、ブルーを基調としたたくさんのアクセサリーを、〜ちゃんが手作りしてくれた。マリちゃんはヘアメイクのお客さんにプレゼントするために、4種類の手焼きのクッキーを素敵なラッピングで用意してくれた。
「これって、続けないと意味がないっすよね。」
ケンちゃんは山形出身の東北人である。
「みんなまた来たいでしょ?」
「また次を計画しましょう!」

菅野村長に、クリフ&ニョタのメンバーを紹介した。
「今日ヘアメイクを担当してくれた、クリフ&ニョタです。」
「ご苦労さま!どこから来てくれたの?」
「みんな東京です。」
「へぇー、東京からー。それはどうもありがとう。」
「みなさん美容師ですか?」
「マッサージの専門もいます。」
「みなさん、ゆくゆくは自分のお店を持とうと、がんばっていらっしゃるの?」
「えー、まぁ。」
「村長さん、彼らはもう自分のお店を恵比寿に持っているんですよ。そのお店がクリフなんです。」
「へぇー、こんなに若いのに、たいしたもんだ。」
 若者大好きの村長さんは、クリフ&ニョタ&美香ちゃんとすっかり打ち解けて、いろいろな話題に花が咲いた。
 ぱいなっぷる家の支払いを全員の割り勘で済ませて、二次会会場の『マジーノアール』へと歩いた。外は霧雨が降っている。

日曜定休のマジーノアールを、私たちのために、五十嵐くんが特別に開けてくれていた。本番のステージでは、機材のトラブルで不完全燃焼だったオレンジクローバーが、急遽ライブをする事になった。
 沖縄ポップスに手拍子、かけ声が入る。三線を弾きながらの仲宗根忍さんの歌は、とても魅力的だ。
「お客さんがみんなミュージシャンなんて、すっごい緊張してます!」
クリフのメンバーもノリノリ。マッサージのショウコちゃんは、沖縄の出身だ。
Yaeさんが飛び入りで参加。私も忍さんにねだられて、菱本さんと何曲か演奏。渡辺隆雄さんと小澤敏也さんのピカイアは、自主的にステージへ。会場全体が、すごい盛り上がりとなった。
「10月10日に、ピカイアのライブができませんかね?」
マジーノアールの休業日だと知っていながら、五十嵐くんに聞いてみた。
「あー、ちょうど予定は真っ白です。」
「でもお店はお休みでしょ?」
「店を開けることぐらいお安い御用です。」
来月、コスキン最終日の夕方、マジーノアールでの、ピカイア・パンデイロ・スペシャルのライブが決定した。


福島にて・・・9月(3)へ


2011/12/03