福島にて・・・7月(1)
2011/07/03〜06
6月の半ば、オリエンタルskの菅野新也さんを介して、山木屋小学校5年生、6年生の子どもたちから、手紙が届いた。先日、川俣南小学校でやった演奏のお礼である。丁寧な文字で、感じたこと、思ったことなどが、しっかりと書いてあった。
5年生は総合学習で、ボリビアやアルゼンチンのこと、またフォルクローレについて調べたいとのこと。「また機会があれば教えてください」という希望がたくさんあった。
7月には、ケーナの東出五国さんご夫妻が、川俣の小学校で行われるケーナ教室のお手伝いに行かれるというので、今回ご一緒して、山木屋小5年生の総合学習授業『Let’s コスキン博士』にも、お伺いすることにした。
(注:アルゼンチンのコスキン市で行われるフォルクローレ音楽祭を模して、1975年に川俣町で『コスキン・エン・ハポン』が始まった。)
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今回の滞在で、どうしても行きたかったところがある。相馬市の避難所でお知り合いになった、阿部洋子さんや寺島住雄さんが暮らす仮設住宅である。避難所を運営していた部所に問い合わせ、磯部地区の区長鈴木陽一さんと連絡を取り、仮設からの電話を待つが、結局かかって来なかった。
「仮設にも来てなー」
仮設の建った地名は聞いている。7月3日、地図を頼りに行ってみることにした。
国道6号線を少し海側に入った工業団地の造成地に、磯部地区の人たちのいる仮設住宅があるらしい。途中、犬を散歩させている人がいた。
「磯部地区の方々がいらっしゃる仮設住宅は、このあたりですか?」
「そこんとこ入っていってな、上がったところだよ。」
かなり広い敷地に、平屋の集合住宅が、整然と並んでいる。駐車スペースにも線が引かれ、たくさんの車が止まっている。想像以上の規模である。
「はたして見つかるだろうか?」
避難所で一緒に撮った写真を持参した。
買い物帰りの、若いご夫妻に尋ねてみた。
「寺島住雄さんのお宅はご存知ですか?」
「寺島さんなら、たしかここですよ。」
あっけないほど簡単に見つかった。鍵がかかっている。
「阿部洋子さんはご存知でしょうか?」
「阿部さんは、ほら、何件かあって…ここと、ここと、ここ。」
世帯主の名前の入った地図を広げて、丁寧に教えてくださった。
「寺島さん、お留守ですか?いまお弁当が届く時間だから、そっちの方かもしれませんね。」
「ありがとうございます。ちょっと探してみます。」
寺島さんは、仮設住宅の北集会所で、お弁当を配っていた。
「こんにちは!お元気ですか?」
私たちが声をかけると、両手を広げて近づいてきてくれた。
「おー!来てくれたんかー!」
「ひと月ぶりですね。来ましたよ!」
集会所の入り口には、漁師の網元風体の人が、数人たむろっている。
「ほら、この人がよー、はまなす館(避難所)に来てくれた、ギターのなぁ。」
「こないだ電話かけてきたのはあんたらかぁ?」
「区長の鈴木さんですね?」
「鈴木さんから聞いてはおったから、今日来るってな。でも本当に来てくれたんだなー。」
「仮設に移れて良かったですね。」
「本当になー。みんなそろって移れたからな。ほーら、仮設に来ても、みんなの世話焼いてるべ。」
「みなさん、お元気そうですね。」
「ここはみんな元気だよー。時々、ボランティアの人たちも来てくれるんだけどなぁ。あんまり世話を焼いてくれ過ぎると、ここの人たち、みんないなくなっちゃうのさ。なんか申し訳ないような気いすっけどなー」
「ほらほら、ちゃんと写真もとってあるべさ。」
「いろんな人たちが、いろんなことをやりに来てくれたなぁ。おかげで耳も肥えてしまって。アハハハハ」
「またいい音楽聞かせてなー。また夢見心地でいたいからなぁ。」
寺島さんに、阿部洋子さんのお宅を教えていただいた。
「阿部さんとこ、こないだ孫が生まれてなー。忙しくしてるから、いねーかもしんねっぺよ。」
阿部さんのお宅は、仮設住宅敷地内の一番南の方にあった。
「こんにちは。先日はまなす館にお邪魔した…」
「アラー!来てくれてたのぅ!」
「住雄くんから『ギターの人が今日来るよ』って、聞いてはいたんだけど、もうこんな時間だから…来てくれたんだねぇ」
もう6時を過ぎている。
「やっと仮設に入れてねぇ。こんな所だけど、ここに入ったときにはねぇ、自分の家(うち)に帰ってきたみたいで、涙が出てきたんだよー。」
「お孫さんが生まれたそうですね。」
「そうなの!それで暇ナシさー。病院に泊まったり、上の子を連れてきたり、ほんでも馴れてないから、母親恋しくて泣かれてなぁ。」
「息子の慰霊祭も、昨日消防団の方でやってくれてなぁ。10人合同でな。何て言ってもね、やっぱりこれで、少しけじめがついたぁ。」
「ねぇ、上がっていって。主人もいるし、中も見てほしいの。さぁさぁ、上がって。」
完成からまだ半月しか経っていない建物は、まだ新しい匂いがする。
「こんなとこだから、なーんにもないけど、どうぞ奥に入って。」
阿部さんのご主人が、座卓で晩酌をしている。
「こんばんは。はじめまして。」
「楽にしてなー。」
「ありがとうございます。」
座卓には、二人分のお弁当がおいてある。
「ここはね、毎夕こうやってお弁当を出してくれるから、夜ご飯は何も作らなくなったべさ。」
「何もないから、これでも食べていって。仮設のご飯だから、美味しくないと思うけど、仮設ではみんなこんなもの食べてますよって。」
「それでは、二人でひとつをいただきます。」
「それで足りるぅ?足りなかったら、遠慮せずに食べてね。」
お手製のお漬物が二種類、小鉢に入っている。
「ちょっと酸っぱくなってるけど、これも食べてなー」
「狭いでしょ?でも何でも揃ってるのよ。これみーんな、ほれ、赤十字のでやってくださったんだって。ほーんとに、みなさんのおかげでね、ありがたいよー。」
仮設住宅には、クーラー、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、電子レンジ、電気ポットが備え付けてある。
「弁当も他では出ねぇべよ。こんなん相馬市だけでできるわけねぇべ。全国の人たちのおかげだっぺ。ほんと、ありがてぇなぁ。」
今回の津波で、磯部地区は集落ごと流された。100人を超える人たちの命も一緒である。
「みんななー、まさかあんなのが来るとは思わんかったべさ。これまで警報ったって、20cmとか30cmとか。」
「家(うち)もね、何十年前かの大雨で、床下浸水したべよ。だから石垣で少し高くして、これで大丈夫だと思ってた。」
「地震のあと、みんなに『逃げろー!』って言っても、全然逃げなかったもんなー。」
「うちも、あにやん(息子さん)が『とにかく学校まで逃げれー!』って言うから助かった。」
「私の軽(自動車)に二人乗せて、主人は軽トラに一人乗せて・・・『なにかあったら頼むねー』って言われてた人がいてね。その人の家さ行って、車に乗せてね」
「逃げれー!って言っても逃げねぇから。みんながすぐに逃げてたら、10人も消防団員が死ぬことなかったべさ。それが悔やまれてならねぇ。」
「もうそんなこと言わないの。消防団員は、いったん法被着たらさ、もうそれがお役目なんだから。それで亡くなったんだから、本望だべしたと、私は踏ん切りがついているんだけど、この人がね落ち込んで。」
「泣くのは代わりばんこよ。私が泣いていると、『おい、もう泣くな』って。でも次の日は主人がねー。」
「この前ね、山梨の温泉に行ってきたんだよ。石和温泉。よかったよー、のんびりできて。」
「みんなでバスに乗って4泊5日、温泉が招待してくれたの。」
「うちは漁に出ていたから、毎日やることがあって、こんなこともなかったら、4泊も温泉だなんて、生まれて初めてよー。」
「一緒に行った人がね、毎晩『うわー!』って言って飛び起きるの。津波が来るんだって。」
「私たちは早くに逃げたからね、津波は見てないの。すごい音がしたけどね、波の方とは反対側にいたから見えなかった。」
「見なくてよかったぁ。見た人たちは、未だに毎晩うなされるのよ。」
「バリバリバリってな。松林を超えて来たんだべ。」
「木がなくなったら、浜がすぐそこなんだべさ。こんなに近いとは知らなんだ。」
洋子さんが台所に立った隙に、ご主人が『あにやん』のことを話し始めた。
「あにやんが生きとればなー。」
阿部さん夫妻のご長男健一さんは39歳、ご主人と一緒に船に乗っていたのだそうだ。隣の部屋に、お嫁さんと二人の娘が暮らしている。
「津波で家が流されてしまったから、おれがまた家を建てねばならねっけど。あにやんが死んでから、もう仕事さしたくねくって。」
「いままでこんなことなかったんよ。親が死んだときだって、涙流さなかったもんな。」
「それが、あにやんが死んでから、どうも涙もろくなってしまってなは…」
「そういえばご主人の名前を伺ってなかったですね。」
「えー?おれの名前かぁ?聞いて驚くなよ。」
ご主人は嬉しそうに笑っている。
「聞いたらひれ伏すかもしれませんね。」
「阿部新太郎。どんなに古くなっても新太郎よ。どうだ驚いたか?わっはっは!」
みんな大笑いである。
「漁もやって、田んぼもやって、子どもを育てて、祖母や母の面倒も見て、婦人会や地区の役員もやって、ほんと暇なしで働いて…それだけ忙しくして、外に出ることも多かったべさ。」
「それでもこうやってやって来れたのは、主人の理解があったから。そうでなかったら出来なかったべさ。」
「今まで、いろいろな人たちのお世話をすることはあっても、まさか自分たちが、こんなに人様のお世話になるとは、夢にも思わなんだ。」
「災害だっていっても、なんか遠い国のことだとばかり思っていたもんなぁ。」
「今度来たときには、この辺の特別にうまいお米を御馳走すっから。」
「いあー、遅くまで引き止めてしまったなぁ。自分のことばっかりしゃべってごめんね。今日はどこまで帰るの?」
「二本松です。」
「あっれー、それは遠いなぁ。隣にもう一部屋あるから泊まってゆくかい?」
「明日の朝、9時半から川俣町の学校に行くんです。楽器も取ってこなくてはいけないし。」
「それじゃ、途中お腹すくかもしれないから…ちょっと待っててね、ゆで卵してあげるから。」
「そんなおかまいなく…」
洋子さんはすぐ台所へと立っていった。
「ごめんねー。こんな狭いところだから、何のおかまいもできずに。」
「また来てなぁ。いつでも待ってるから。」
「はい、また来ます。」
洋子さんは、ゆで上がった卵を六つ、アルミホイルにくるんで下さった。
「ゆで卵だけじゃのどにつまるから、これも持って行って。」
冷蔵庫から缶コーヒーとジュースを出してくれた。
「ごめんなさいね、こんな遅くまで。でも、なかなか帰したくなくってね。」
「本当に来てくれてありがとうございました。また来てね。」
「こちらこそ、とつぜんお邪魔してご飯までごちそうになって、すみませんでした。でもみなさんにお会いできて良かったです。また来ますね。」
「うん、そうして。」
「どうぞお体には気をつけて。」
「うん、私たちはほら、元気よー。」
夜の仮設はもうすっかり寝静まっていた。
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川俣南小学校(7/4)、飯坂小学校(7/6)でのケーナ教室。川俣の小学校では、コスキン事務局の齋藤さんと若林さんが子供たちにケーナの指導をしている。ケーナは決して難しい楽器ではないが、まずは音が出るかどうかという、最初の関門がある。どのように子どもたちにケーナを教えているか、大いに興味を持って参加した。前述のとおり、毎年2日間応援に来ている東出さんの助っ人である。
川俣南小学校の4年生は20人、飯坂小学校は9人である。両校とも、この日が二回目の講習会だそうだ。
前回習った『二羽の小鳩』の前半を演奏。大勢での演奏だとはいえ、想像以上にしっかりと音が出ている。もちろん個人差はある。音が出ていない子、音を出すのが精一杯の子、指が上手く動かせない子。それでもみんな一生懸命に、ケーナに息を吹き入れる。齋藤さん、若林さん、東出さんが子どもたちの席を回り、ていねいに指導してゆく。私はもっぱらギターやチャランゴで、子どもたちの演奏の伴奏をした。
しばらくすると、何人かの子どもたちが、机に突っ伏した。酸欠である。音が出ないと余計に強く息を入れてしまう。大人でも、初心者にはよくあることである。
「さあここで、『コンドルは飛んでゆく』を演奏してみましょう。」
齋藤さん、若林さん、東出さんの演奏に、ギターで参加した。
その後齋藤さんは、大きく引き伸ばした写真を取り出し、コスキンやアルゼンチンの紹介を始める。
「コスキン行くには、どれくらいの時間がかかると思いますかぁ?」
「5時間!」
「8時間!」
「10時間!」
みんなケーナを持っている時より元気である。
「コスキン市は、本当にこの川俣に似ているんです。」
真剣に齋藤さんの話に耳を傾ける子供たち。
飯坂小学校でのこと。齋藤さんは、ブエノスアイレスの写真を見せて、こう説明した。
「アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、『きれいな空気』という意味です。この川俣と同じように、とってもきれいな空気の美しい町です。」
「今はもう、きれいじゃない」
小さな声で、しかしハッキリと聞こえた。
先生も私たちも、このひと言に何も応えることができなかった。
後半30分を、私のミニ・コンサートとしてくれた。東出さんにも参加していただき、一緒に手拍子を打ったり、掛け声をかけたり、ボンボやチャフチャス、学校にあるいろいろな楽器を総動員して、とても楽しいコンサートとなった。
「ボンボをやりたい人!」
「ハーイ!」
「じゃあ、チャフチャスをやりたい人!」
「ハーイ!」
「叩き方は教えません。好きなようにやってみてください。」
「エー!?」
子どもたちには戸惑いながらも、曲が終わる頃には、自分流のやり方を工夫している。
最後にもう一度『二羽の小鳩』を合奏した。川俣南小学校の先生は、子どもたちと一緒にケーナを、飯坂小学校の先生はギターを取り出して、合奏に加わった。
楽器の演奏には得手不得手がある。音楽がとても好きな子も、そうでない子もいる。その中で、全員の子どもたちにケーナを教えるというのは、たいへんな事である。しかしそれが10年以上続いているというのは、コスキン開催のきっかけとなった長沼康光さん、東出さんをはじめ、齋藤さん、若林さんたちの情熱にほかならない。
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7月4日、福島市内のあずま総合体育館で演奏した。体育館は、広大な運動公園の奥まったところにある。市内最大の避難所で、一時5,000人以上の人たちが、避難生活をしていたそうだ。私たちが訪れた時点では、約500人だという。
広いロビーの一角での演奏に、菅野新也さんが、簡易のPA機材を用意して下さった。ソファーの前には大画面のテレビがあり、NHKのニュースが流れていた。
椅子に座って聞く人、通りがかりに立ち止まって耳を傾ける人、ソファーに座って、おしゃべりしながら耳を向けている人、みんなそれぞれのスタイルで聞いている。
演奏後、何人かの人たちがノートを持って近づいてきた。
「ここにサインをしてもらえますか?」
「ご自宅はどちらですか?」
「浪江からです。」
「私は双葉です。」
お一人の方が差し出したノートには、東出さんと私の演奏姿がスケッチしてある。
「へえ!これ今描かれたんですか?」
「そう。避難所でやることないから、こうしてみなさんがいろいろやりにきて下さったのを、こうやって描いていたら、もうノート10冊にもなっちゃった。」
スケッチの横に、それぞれの名前と『ボリビアに十年』とかのメモがしてある。
「震災前から描かれていたんですか?」
「ううん、ぜんぜん。ここに来てから始めたのよ。」
「じゃあ、この絵と一緒に写真撮りましょう。」
さっきまでコンサートの舞台だった場所は、もう『スポーツ吹き矢』の会場になっていた。

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夕暮れまでまだ少し時間があったので、川俣町の『駒桜』を見に行った。山に挟まれた谷間に、美しい棚田が続いている。ここにはちゃんと稲が植えてある。
どんどん奥へと入ってゆくと、谷はどんどん狭くなり、大きな屋敷が一軒、斜面に建っていた。駐車場に車を止めて、看板に従って歩いてゆくと…それはそれは大きな樹である。とても桜とは思えない。
もちろんこの季節、花は咲いていない。しかししっかりと延ばした太い幹からは、たくさんの葉っぱを広げている。何とも言えぬ貫禄を持って立っている。
この老木は、空から舞い降りてきた細かい粒のことを知っているのだろうか?
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2011/10/04
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