福祉エッセイ 【風笛】 社協だよりからの抜粋
1 21 2 22 3 23 4 24 5 25 6 26 7 27 8 28 9 29 この地域をゆたかな福祉思想の息吹きで満たそう 10 30 地域で築こう,若い世代とのパートナーシップ 11 31 原点に還って地域福祉を考えよう 12 32 じょうずにサーヴィスを利用しよう 13 33 希望ある街,夢ひろがる21世紀へ 14 34 仲間とふれあいながら自らを高める人びと 15 35 分かち合う心,認め合う心 16 36 土曜日は,世代を超えて地域でハツラツと 17 37 自信と誇りのもてるふるさとの街に 18 38 秋のなごみ,寡欲な老いを美しく生きる 19 39 健康な顔でまた会いたいから 20 40 スローライフの方向
福祉エッセイ〔風笛〕――No.40スローライフの方向
梅雨期。樹々のみどりがもりもりと生命力を誇っています。右の写真は,もみの木台のへりで見つけたカタツムリ。偶然目にしたものですが,この生き物,このごろあまり見ることがなくなったなぁ,とお思いにはなりませんか。どなたも幼いころ,このデンデンムシと遊んだ記憶をお持ちではないでしょう。ほかに楽しい遊びをたくさん知っている今の子どもたちは「気持ち悪い!」と手にふれることはないかも知れませんが,物の乏しい時代に育ったわたしたちの世代には,うっそうたるみどりに蔽われた鎮守の森の記憶とともに生きている,親しい遊びの仲間でした。
「デンデンムシムシ,カタツムリ……ツノ出せヤリ出せ目玉出せ」という童謡。うすっぺらな殻を背負って,ゆっくり,ゆっくり木を登り降りするすがた。乾燥を嫌って暗いジメジメしたところを好む虫(正確には,虫ではなく陸に棲む貝の仲間だそうです)。このムシ以上の平和主義者はいるだろうか,とふと思う。外敵に対してまったく抵抗手段を持たず専守防衛に徹する生き物。
「ツノ」「ヤリ」といっても,これは明暗を感知する触覚でしかなく,攻撃手段にはならない。襲われたら殻の中に身を縮めて,災厄の時の過ぎるのを待つだけ。子どもが手に載せても,刺すわけでもない,噛むこともない,逃げるといっても,あのスローぶりでは…。なんともおだやかで,時を超越している生き物。有事三法案が国会で乱暴に進められているときということもあって,このムシ,なんだか気になるのです。
社会の急激な少子高齢化に加え,団塊の世代と呼ばれる人たちがそろそろ定年退職を迎えてごそっと地域に帰って来る時期。激越な企業戦争から解放され,自分の立っている足元を見つめ直す時期でもあります。どうだろうか,カタツムリの生き方に学ぼうよ,肩の力を抜いて,無理なくゆったりとさぁ,と云ったら叱られるだろうか,ムシケラといっしょにするな,消極的だよ,退嬰的だよ! と。でも,そんな人にひとことだけマハトマ・ガンジーのことばを借りて反論したい,「善きことはカタツムリの速度で動く」と。(菅野)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.39
健康な顔でまた会いたいから
――ヴォランティア,わたしの場合――
道(さとり)は修行を要せぬものなり。
ただ自己を汚さぬことなり。
何が汚れかと問へば,
生死の心を起し,
何かをなし何かのためになすなら,
すべてそれ汚れなり。
あたりまへの心なるが道なり。
――馬祖道一『平常心是道』
☆
ヴォランティアについて考えるところを少し書いてみようと思う。ひとの前でいえるほどのこともないが,わたしもいくつかのヴォランティア活動をしている。奉仕とか施しなどという心に重いものは欠片ほどにもない。そのことでわが身の社会的評価(名利)が高まることを期待することもなければ,ましてやお金を得る(営利)ことも期待していない。ひとに褒められたいからでもないし,無論,ただのヒマ潰しというわけでもない。そんなに尊いことでもないし,美しいこととも思っていない。「善意」といわれるのもこそばゆい。ただ,それがふつうの生活,ひととともにあるときに自然に湧き起こる気持ちを素直に行動をもって表現しているにすぎない。「あたりまへの心」である。
修行中の宗教者でもない身,自分のやることにそれほど高い精神性などあろうはずがない。相手から「ありがとう」といわれればうれしいし,「おかげさまで」といわれれば,ハイハイ,どういたしまして,お互いさまで…,と純一に思えるのが心地よいだけのこと。
柳宗悦は,健康こそがこの世で最高の美だと云っている(『手仕事の日本』岩波文庫)。健康の尊さは,それが,自然が欲しているいちばん素直な,正当な状態だから,といい,反面,病気とは,弱々しいこと,神経質なこと,たくらみ多く不自然であること,角があること,冷たいことだともいう。自分の場合のみならず,身近にいるひとの病気や不健康を見るのはいやだ。だれもが闊達であってほしい。会うときは互いに明るい顔でいたい。人と人とのあいだで平静に,気持ちよく生きるとは,そんなふうに思えることなのではないだろうか。
一方,ヴォランティアは自由が前提で,それに参加する自由もあれば,参加しない自由もある。純粋に自発的な意志にもとづく行為である。参加しないものが参加するものを指して「偽善的だ」と批判するのも自由。ただ,参加するものが参加しないものを指して,社会性がない,利己的だ,良心に欠ける,やさしさがない,などと批判するのは当たらない。自然な心のおもむくに任せて行動すること,これあるのみだ。自分ある種の行動によって心をホカホカさせてくれるひとが一人でもあれば,それでいい,十分に幸福なのだ。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.38
秋のなごみ,寡欲な老いを美しく生きる
老境のあるべき姿とはどんなものだろうか。この街は老いを生きるのにふさわしいところだろうか。
かつての若い日々,わたしたちはほぼ例外なく「欲」に生きてきた。俗情にまみれた欲心をときには「意欲」と美化して呼んで韜晦したこともある。少しおだやかにいうなら,あすのよりよい生活を目ざし「向上心」に衝き動かされ,他と競い,他と闘いつつ自分を啓発し,自分の生を切り開き,同時に社会を育ててきた。食欲,性欲,出世欲,征服欲,名誉欲または名声欲,自己顕示欲,支配欲,物欲,所有欲,金銭欲,貪欲…。どれもよくは云われることのないことばながら,これらの動物的本能に動かされ,業欲に流されてわたしたちはいまここにあることを知る。リタイアし,年老いてこれらの欲が衰退したからといって,その存在の尊厳が軽んじられる社会があるとすれば,それはやはりおかしいだろう。
欲望ぎとぎとの一時期を走り越し,業欲の苦役から放免されたとき,人はほんとうの自分を知り,ほんとうの自分に帰る自由が賦与されるように思う。寡欲な老境を得てはじめて,人は自然な自分のありようを見だし,閑雅な日々のなかで,自分の魂の蘇生を楽しみつつ生きることができる。
さて,わたしたちのふるさと,すすき野は,閑雅な老境を十分に享受し,魂の澄んでいく厳粛な時を楽しむにふさわしい街だろうか。そして,現実,この街に住む高齢者は,そんな老いにふさわしい生きかたをしているだろうか。朝に夕に健康保持のため黙々とウォーキングにはげむ人がいる。 ゲートボールやカラオケに凝って,連日家をとび出していく人がいる。それがただの個的なヒマ潰しになってはいないか。家族の前での自分の存在の軽さを恥じて意味のない外出をしていることはないか。自身の健康を護るのはともかく,個的な愉悦をいくら重ねても人は満足できないし幸福にはなれない。まわりからの尊敬も得られない。加齢に応じてのフィジカルな衰えは誰にも避けがたい。しかし,老いたといっても,人は社会的存在であることをやめるわけにはいかない。たしかに,仕事一途,わが身の欲望一途に生きてきた人が,老いてなお,地域社会の中,家族のあいだで尊厳を保ちつづけるのは,そんなに簡単なことではない。他とともにあり,他に喜ばれるあり方とはどういうものか。機会を得て広くみなさんと話し合ってみたいものだ。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――N0.37
自信と誇りのもてるふるさとの街に
★…夏休みといえば,ぎらぎらした太陽のもと,野山や海辺でまっ黒になって遊んだ記憶がまず甦る。セミを採り魚を獲って,たくさんの仲間とエネルギーのかぎり遊んだ記憶。ところがいま,街に子どもの声があまり聞こえない。わたしたちの時代ばかりを懐かしむつもりはないけれど,掌のなかでバタバタ暴れるムシにしたたかな命を感じ,その命を奪ってしまった心の痛みから,命の尊厳を身をもって知ったように思う。子どもたちに,この時期こそ,できるだけたくさんの出会いを通じて感性を養い,自分固有の感覚を根拠にバランスよく判断する力を養ってほしいと願うのは,ただの感傷だけではないように思うのだが…。
★…10代の若ものたちと地域の旧世代の人たちが読書を通じて互いの感性をふれあわせ,肉声で語り合おうととしているグループがある。青葉ふれあい読書会《どんぐり》といい,毎月一回,すすき野コミュニティハウスでおこなわれていて,早や17回を数える。オゾンたっぷりのとでもいうか,声高に自己主張しあうこともなく,こじんまり,一人ひとりの感じ方を撚り合わせながらなだらかに運営されているのがいい。さまざまな海外の作品にふれてきたうち,この7月に読み合ったのはヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。いかがでしょうか,みずみずしい青春の日々の記憶とともに思い出される方も少なくないでしょう。きびしい受験制度と周囲が寄せる期待の重圧下に押し潰されていく痛ましい青春群像は,いまの「ゆとり教育」の課題とともに,各世代で広く読み合ってみたいテーマだ。
★…10月26日(土),この地域のさまざまな団体と組織と学校が手をつなぎ,すすき野地区社協が主催しておこなう「すすき野フェスタ2002」。当社協は,この街に暮らす各層の人びとの力を結び合わせて地域のコミュニケーションを起ち上がらせることを考えてきました。まだまだ第一歩ながら,これをひとつの契機に,地域に内在する潜在的な力を賦活化し,一人ひとりが自信と誇りを持てる街にしたいとの願いによるもの。多くの皆さまの参加を期待しています。こうした催しの一方,時代と切り結びつつその方向を推し進めるもうひとつの手段として,当社協は,住民みんなのこころの根拠地になるようなホームページの開設へ向けて準備を進めています。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.36
土曜日は,世代を超えて地域でハツラツと
乗り物などで子どもと乗り合わせ,その不躾,無遠慮,傍若無人ぶりに眉をひそめ,不愉快な思いをした経験を,どなたも一度や二度はお持ちでしょう。とりわけ中高生の無神経さと非礼ぶりには不快感が残る。
躾(しつけ)――これは字画を見るとよくわかるように,身を美しく清くすることを意味する和製語である。いまその躾を子どもたちはどこで体得するのだろうか。学校は知識を授けるところで,数量で測れない躾,マナーというものは家庭のなかで養われるべきものとして関与しない。ところが家庭は,子どもを学校や学習塾に押しつけ,親はより多くの対価を求めるための労働に埋没したり,自身の趣味教養へ時間を注ぐ。その代償のようにして,子どもには欲しいものがあればすぐに与え,無条件に甘やかす。子どもが迷い苦しみ,考えながら判断すべきことも,すべて親が奪い取ってやってしまう。子どもが身を美しくし心を強くする機会など家庭にはない。
この4月から公立の学校では週5日制が実施されている。自ら問い考える力を培うための「総合的な学習」が加わるほか,土曜日の授業がなくなることをもって学力の低下を叫ぶ向きもある。しかし,それは違うだろう。「ゆとり教育」で存在感の薄れる進学塾や私立の高校・大学が経営危機を見通しての発想に過ぎず,むしろ学力低下は,自主性を奪われ,希望や志を見失って気力を欠いた日常の生活にこそ起因すると考えるのが自然だ。学力が向上すれば,いま問題の若い世代の心の荒廃と無気力を救うことができるか。その深い病巣は除去されるのか。そんなことはない。いちばん大事なのは,彼ら若い世代がみずみずしい「生きる力」を取り戻してくれることだろう。
土曜日は,子どもたちが社会力を身につける日としたい。地域のなかで彼らがふだんとは違うさまざまな異質の人と出会い,さまざまな異質な生き方・考え方に触れ,その共同性のなかで心と身体を鍛える日。“Learning by Doing”で多様な市民性を獲得することだ。
そうなると,地域のおとなたちが彼らにどんな機会を提供し,どんな受け容れ方をするかがきびしく問われることになる。むずかしい。しかし,やろうではありませんか,それをいまから恐れずに。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.35
分かち合う心,認め合う心
昨年秋のアメリカ同時多発テロに始まり,今もまだつづいているアフガン報復爆撃の情勢とその後の復興策にふれて、みなさんはどんなことをお考えになり、どんなことを学んだでしょうか。米英による史上例を見ない規模の武力行使もアメリカ国内で「特別な戦争」として高い支持を受けるなか,世界的に著名な言語学者ノーム・チョムスキー博士(米)のように,アフガニスタンにテロリストが潜んでいるらしいからといってその国の主権を踏みにじり,誤爆も辞さず無差別に攻撃するという条理はない,と発言してはばからぬ品性と理性も現われた。映画「カンダハール」を監督したモフセン・マフマルバフ氏は,「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」と,思いがけない発言をする。人間の存在の尊厳なるあり方を忘れて戦いに明け暮れる人びとのすがた,その愚かしさと頑迷さに,神も絶望し,勝手にせよとついに見放したのだ,と。そして,これからアフガニスタンにもっとも必要なのは「教育」で,広島・長崎の悲劇の経験を稀有に持つ日本は,その教育に手を貸すもっともふさわしい資格を有していると訴える。戦争のないあしたのアフガニスタンをつくるのは,外国からの資金援助だけでなく,ノートとエンピツをもって目を輝かせるその子どもたちの力であり,彼らの母親や女性たちの意識の目覚めだろうと。
爆撃を受けて不毛の廃墟と化した町の風光や,不幸を背負いながらもキラキラと目を輝かす子どもたちの映像を見て,わたしたちが共通に思うのは,一日も早い「特別な戦争」の終息であり,分かち合う心,認め合う心の大切さではないだろうか。悦びも苦しみもともに分かち合い,互いの違いを越えて認め合い,もう一歩ずつ近づきあう心。――これをわたしたちの地域の福祉活動にも生かしていきたいとせつに願う。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.34
秋のすすき野に描きだす多彩な交流の輪
仲間とふれあいながら自らを高める人びと
柿の落ち葉を踏みて後山に登る。黄茅(こうぼう)粛々として乱れ、竜胆(りんどう)の碧、棘実(いげのみ)の紅と径を綴る。………鳥五六羽あり、山上よりの樹より立ち、鳴き連れて彼方の村に向ふ。唖々の聲満山に響く。
(徳富蘆花『自然と人生』より)
†
気づけば午後の日はすっかり短くなり,風は白菊と霜の香りをほのかに運んで肌を刺激する季節。いかがおすごしでしょうか。
この秋,皆さまのまわりは多彩な催しに彩られました。「すすき野ふれあい2001」には参加なさいましたか。数かずの力作が出展された「すすき野地域文化展」はご覧になりましたか。青春の記憶とともにある古い名作映画に若やいだときめきを覚え,愉しまれた方も多いことでしょう。いや,以下にご紹介する各種の催しのほかにも,けやき祭り,寺家ふるさと村方面への晩秋ハイク,地域ゲートボール大会,しもほり…等々,みなさんのごく身近なところでさまざまな楽しみの輪が広がっています。とりわけ第12回目となる「すすき野ふれあい2001」は,広い層にわたる地域の人びと,世代を隔てる住民同士のふれあいを目ざしておこなわれ,またもう一歩の前進を画しました。親しい仲間の輪のなかで切磋琢磨し自身を高める努力を重ねる出演者それぞれの笑顔に,すすき野の健康さを見た思いがいたします。これにはじめて参加なさったすすき野3街区におすまいの坂東誠さんは,退場を前にこんな歌を書き残してくれました。
なつかしき歌にて想いはふるさとへ 老若はただ真直ぐ歌いまくれり
歌声にこころは澄みぬ 老いてなおつやある聲ぞ経たる年輪
多層にわたる楽しい交流から人のこころの扉は自然と大きく開かれます。わたしども地区社協が目ざす活動の眼目のひとつがそこにあり,困ったことや悩みごとをひとりで抱え込むことなく,気づかいなくみんなで分かち合おうと願っています。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.33
希望ある街,夢ひろがる21世紀へ
地球温暖化の勢いが学者たちの予測を超えて進んでいるかのように実感される酷暑の日々です。ご壮健にてお過ごしでございますか。7月28,29の両日の第27回ふるさと祭り・すすき野盆踊り大会(於・嶮山公園少年野球場),また8月4日の第12回「緑の郷」納涼まつり(於・特別養護老人ホーム「緑の郷」)での地域のみなさまの晴れやかな弾む声,太鼓の音も止みました。模擬店の屋台から漂いくるふくよかな香りやかき氷の音,老若のゆかた姿に故郷を想った方もおいでではないでしょうか。
すすき野地区社会福祉協議会も新しい役員を迎え,態勢も新たに平成十三年度の活動をスタートいたしました。今後とも,みなさまのすぐそばにあってさまざまな課題に誠心誠意取り組んでまいりますので,どうぞお気軽にお声をかけてくださいますようお願い申し上げます。今年度の活動方針を項目から列挙いたしますと,@福祉思想の啓発,A福祉環境づくり,Bすすき野サーヴィスステーション事業,C福祉活動の助成援助,D地区社協設立20周年記念事業の展開,となります。上記諸計画のうち,単年度事業として特に重点的に取り組んでいくのは,「福祉環境づくり」に沿って「青少年の健全育成」,および「20周年記念事業」に沿っての「地区社協のあり方検討委員会(仮称)の展開」,加えて本紙「社協だより」の充実と広報活動の積極的展開,となります。
今号においては,去る7月7日,「夏休みを前に」をテーマにすすき野中学校PTAのおこなった本年度第一回地域懇談会を踏まえ,若い世代と地域とのコミュニケーションをどういう回路で構築していくのかの課題を,みなさまといっしょに考えてみたいと思います。社会力を備えた逞しい若者たち,希望に胸ときめかすみずみずしい感性を地域にいっぱい育てたい――そんなアイディアを,「夏休みを終えて」と題し9月7日(金)午後7時からおこなわれる第二回地域懇談会のグループ討論に持ち寄ろうではありませんか。(T.S)
どちらを指すか,若ものの心の磁石。
きみは,21世紀は希望に満ちた社会になると思うか,これからの社会に夢が描けるか――日本,韓国,アメリカ,フランスから各1,000人ずつ,中2と高2の男女を対象にある財団法人がそんなアンケート調査をおこなった。その結果,日本では62%が「ノー」と回答しているのに反し,アメリカ86%,韓国71%,フランス64%がそれぞれ「イエス」である。日本の若ものばかりがなぜ自分の将来をそれほど否定的に見ているのだろうか。とかく問題が多く批判的な目を向けられることの多い彼ら。膝を交えて彼らと「どうしてなの?」「希望って何だろうか」とじっくり話し合う機会を得たいとは思いませんか。
彼らはいま,どこに目標をおいて生きているのだろうか。必ずしも,高い理想を掲げて目標へ一直線に突っ走る姿を期待するわけではないが,人生目標について,日本の若ものの64%は「楽しんで生きる」を挙げている。韓国35%,フランス6%,アメリカ4%という数字と比較するとき,いよいよ彼らの意識のありどころが見えてこない。社会参加の意識もなければ,地位や名誉などさらさら要らないとする感覚。心の磁石を失って,ただ毎日が楽しければいいとする彼らに,われわれはどう向かい合えばよいのだろうか。磁石の針がふっ飛び,目ざす方向が見えないとき,人間に創造的なエネルギーは生まれない。自分の楽しみのために漫然と楽しく生きる≠ゥ,それにも飽きたときの空しい暴発でみずからを損ねることになる。そういう若い世代にここまで育ててきた社会を手渡さねばならない旧世代の者こそ「希望が持てない」の項にマルをつけねばならない情況にあるようだ。
若ものを地域活動のパートナーに
最近の新聞が紹介するもうひとつの統計を見ていただこう。昨年度の神奈川県下の公立高校における長期欠席者と退学者の数が過去最高にのぼったというもの。年間50日以上欠席している生徒が4,355人(全日制2,927人/定時制1,428人)で,厳密にカウントしたらほぼこの倍数近いと推測される。長欠の理由は,病気や家庭の事情による場合もないではないが,80%近くは学校生活と学業に馴染めないことによる。体調が悪いわけでもなければ,リストラや会社の倒産に伴う父親の失業などの困難な事情でもないとすれば,高校にも出ずに彼らは毎日いったい何をしているのだろうか。教育現場はこの事態にどんな方策を講じているのだろうか。いや,家庭のほうは…。また,こんなとき,地域はどんな役割を果たせるのだろうか。
因みに県下の公立高校の昨年度退学者数は4,375人。長欠生徒数にほぼ匹敵する。まじめに働いている者もないではないが,多くは不安定な環境のもとで将来への見通しもなく働いているか,何もせずプラプラしていたり家に閉じこもって不健康な幻想にふけっていることが多い。当然,この傾向は神奈川県に限ったことではない。
若い世代に健康な夢を育んでもらううえで,地域の果たすべき役割は小さくないことを如実に示す二つの数字を見ていただいた。地域活動に活力を与えるには若ものの参加が決め手となる。隔たる世代間をスムーズに通い合う回路を地域に見出さねばならない課題は,ますます重要なものとなったと見なければならない。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.32
介護保険制度の1年を振り返って
じょうずにサーヴィスを利用しよう
公的介護保険制度がスタートして1か年が過ぎました。「走りながら考える」として手探りで施行された制度。「サーヴィスを受けやすくなった」といった声の一方,「経済的な負担がふえた」「ケアマネジャーがパンク状態にある」「痴呆の判定に問題がある」「在宅介護サーヴィスが進まない反面,施設依存の傾向が強まった」「高齢者福祉に偏りすぎて障害者や難病患者への福祉に遅れが出ていないか」などといったさまざまな声も聞かれ,各自治体間のバラつきはあるにせよ,この制度の定着へ向けて見直すべきポイントはおよそ見えてきたように思われます。みなさんの実感はいかがなものでしょうか。
在宅サーヴィスを充実させ家族の負担を軽減するとうたわれたこの制度。しかし,介護スタッフを家に入れることに抵抗があることや,初めてのことで不慣れだった,などの理由から利用が進まず,全国の市町村の70%が当初の予算を下回ったとの調査結果が出ています。せっかくの制度ながら,これを使い慣れるまでには時間もかかり,多角度からの検討が求められそう。
当社会福祉協議会を中心的に支えているメンバー16名は,去る3月3日(土),鉄町の特別養護老人ホーム「緑の郷」を訪問,その後の介護福祉の現場を見学いたしました。櫛風沐雨(しっぷうもくう)の活発さで動きまわる職員やヴォランティアスタッフの無私なケア,その一方,さくらもちや白酒などの「桃の節句」のこころざしに,なんとも幸せそうな表情を浮かべる入所者たちの老いた表情にふれて,涙を禁じ得なかったメンバーも。改めて老後のありかたや,「ほんとうの幸せとはなんだろう」を考えさせられる一日でした。
「緑の郷」ではみなさんの見学を歓迎しています。電話予約のうえ,一度ぜひ施設訪問をなさることをお薦めします。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.31
「あなたはこのすすき野が好きですか?」
原点に還って地域福祉を考えよう
すすき野地区社会福祉協議会は,新世紀を迎えたこの年,20周年の実績を刻んだことになります。幾多の問題を抱えながら,手弁当でここまでこの組織を育て,わが街を育ててきた先人たちのご努力に衷心より敬意を表します。その理想と志を継承すべく,わたしたちはこの記念の年を機にもう一度原点に立ち戻って地域福祉のあり方を問い直してみようと,去る2月11日(祝),たくさんの地域の方がたの参加を得て第19回福祉討論会を開催,「わが街の新しい地域福祉を求めて」ワークショップ形式で皆さまのご意見を聞かせていただきました。との人のどんな意見にも真実がある,解説や批判は控え,まずそのことばを聞き逃すことなく耳傾けよう,という発想で取り組んだものでした。たとえ焦点のぼけた議論になろうとも,不自然な合意形成へ引っ張ることはつつしもう,と心がけたものでした。本号はこのワークショップで語られた皆さまの声をかいつまんでご紹介いたします。
わたしたちのできることは限られているとしても,地域の皆さまといっしょにここから改めて出発したいと思っております。今回,一つのテーマをめぐって知らぬ隣人どうしがテーブルを囲んで語りあえたことことの意義も小さくないと信じております。その日はご都合で参加できなかった方も,つぎの機会にはぜひお運びのうえ,忌憚のないご意見を聞かせてください。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.30
地域で築こう,
若い世代とのパートナーシップ
いつに変わらず第二団地を貫くケヤキのトンネルがみごとな紅葉を見せております。みなさまにはお変わりなく健やかにお過ごしでございますか。
ふれあい2000,地域文化展,けやき祭り,ウォークラリー…などと,この秋も多彩な地域の催しが開かれ,みなさまにも多くのふれあいの楽しみを分かちあっていただいたことと存じます。ご都合で機会を失った方も,来年はぜひご参加いただきたいと願っております。
さて,当社協は「子どもから老人まで,世代をつなぐ地域活動を推進する」ことをひとつの目標に掲げて活動に取り組んでおります。このごろの若い人の考え方がどうもよくわからない,そんなふうに感じておられる方も少なくないように見受けられます。「17歳問題」などといわれ,この世代の不健康な病理現象から毎日のように凶悪犯罪が報道されているこのごろ。いくつかの問題を残しながらも,刑事罰の対象年齢を引き下げるなどを内容とする少年法の改正案が議会を通過したのはご承知のとおりです。若ものたちのこころにいま何が起こっているのでしょうか。いったいその原因はどこにあるのでしょうか。わたしたちには,いま,彼らの抱える問題を地域の力でどう受け止めていくかの課題が突きつけられています。
本号では,先に「子どもたちの放課後をみんなで考えよう」をテーマにおこなわれた地区懇談会(すすき野中学校PTA主催)の討論を踏まえ,これからのこの地区の課題をごいっしょに考えていただこうと考えております。青少年が健康で逞しい「生きる力」「社会力」を甦らせるには,さまざまな人との出会い,さまざまな相互行為が必要です。閉じられがちなそのこころを地域のみなさまの人格をお借りして,もっと大きく広げてあげたいと切に願うものです。(T.S)
福祉エッセイ〔風笛〕――No.29
この地域を
ゆたかな福祉思想の息吹きで満たそう
ことのほか暑かった夏も走り去ろうとしています。みなさまには健やかにお過ごしでございますか。
すすき野地区社協は,この6月より新しい体制のもと,より暮らしよい地域づくりの課題に向けて再スタートいたしました。
まだまだ多くの問題を残しながら,公的介護保険制度がすべりだすなど,周囲の様相も少しずつ変わりつつあり,「動きだしたかな」と感じさせます。高齢者を対象にある新聞が先ごろおこなった調査によりますと,「老後の生活で何が大事と思うか」との問いに,数年前には,@家族,Aお金,とあらわれていたのに,最新の調査では,@近所づきあい,A友だち,と移ったと報じています。いま,地域の連帯とそのための環境づくりが求められていることを浮き彫りにするデータです。
わたしたちの社協は,こうした地域福祉の動くニーズを的確に受けとめ,この暮らしの現場で組織的に問題の解決を図っていく意志を新たにしております。そのためには,距離をおいて批判するだけでは何も進まない,やさしさだけではあまり役に立たない,とにかく具体的・現実的な動きを起こすことに力を合わせていこうとしています。
同時に,地域活動をこの生活の場にしっかり根づかせるためには,ある特定の世代をヨコに並べただけでは機能しにくいだろうと考えました。子どもから高齢者まで,世代をタテに貫く連帯が求められ,そこに自然な交流の形ができたとき,明るい活力ある地域社会へ育つ力が生まれていくだろうと期待しています。
こうした点を踏まえ,今年度の軸として取り組んでいく課題を以下の二つといたしました。
◎高齢者のやさしい街を,大きな連帯で築く
◎子どもから老人まで,世代をつなぐ地域活動を推進する
地区社協は多くの人たちの善意を撚り合せてつくっていく任意の組織です。みなさまのすぐそばで,いつでも活動しております。積極的なご参加とご協力をお願い申し上げます。(T.S)
もどる