OPINION 地域・社会
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すすき野サービスステーション

2003.02.03 『介護保険』に物申す M.N.
2003.02.24 『少子化』から見えてくるもの T.S.
2003.05.21 『福祉』とは・・・ M.N.
2003.05.22 『素朴な疑問』 T.T.
2003.08.05 『出でよ、セラピスト!』 M.N.
2003.10.12 『素朴な疑問』 Part2
T.T.
2004.05.20 『これから先のこと』 T.T.
2004.05.21 『自立』と『自律』 M.N.



自立』『自律


サービスステーション(SS)が開かれて7年、延べにして三千件を超える活動がなされてきた。これは、ほぼ毎日地域内でだれかが動いている、ということになる。
だが、ここにきて、SSをヘルパーや便利屋の派遣母体と勘違いする方たちが非常に多くなってきた。

「SSは良いことをやっているのだから、もっとアピールしなければダメじゃない」
多くの人から、ことさら福祉に従事していると称する方たちから、しかも半強制的な脅しも含めて幾度も聞かされてきた言葉である。
大きなお世話、とも言えず、
「良いことをやっているなどとはこれっぽっちも思っていない。緊急に必要と判断したことだけを我々はやっている。しかも、いまでさえ大赤字の運用なのに、これ以上のアピールをしたら潰れるのは必至。そこをなにゆえに理解していただけないのか」
と飽きもせずに繰り返し繰り返し説明してきた。

しかし、理解されるどころか、「“SSの説明に来い”と言っても来ない」から始まり「いくら要請をしても受けてくれない」だとか「SSなんていらないじゃないの」と、お叱りの言葉、批判の言葉、あげくの果ては無用論まで飛び出してくる。
福祉の受益者ではない、それをコントロールする立場の方たちのこのように偏った考えには、呆れかえって反論どころか説明の気力すら失せる。
自分たちは手を汚さず、他人の活動にはあれこれと自分たちの都合で指図する。まさしく官僚の鑑のようである。

何度も言うが、我々は福祉に携わっている。
生活に潤いをもたらすべく、その手助けをすることが任務と捉えている。
単純なるヘルパー派遣や便利屋で済ませられる事柄は、しかるべくその筋に連絡し早急な対応を願う。
そのような交通整理・コーディネートこそが、本来の福祉の根幹であると考えSS業務の最重要点としているのだが、上記のご意見を述べる方たちは、このようなものを活動とは認めたくないらしい。

SSは、どのような手段を講じたら、相手先にとってもっとも望ましいか、模索し考えてきた。従って、いままでも、そして恐らくこれからも、出来る限り自分たちは動かない方針となる。SSが直接動くときは真実の緊急事態のみなのだ。

“自立”と“自律”、福祉の原点としてのこの言葉が叫ばれて久しいが、いまだ援助する側にもされる側にもこの意識が希薄である。

自立と自律、きちんと認識さえすれば、この冒頭で述べた様々な意見など、恥ずかしくて口には出せまいが、【福祉】と【施し】を混同している方たちに、それを望むのは無理ってものであろう。
Mutsugi Nishijima
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『これから先のこと』


先日、ある集まりで耳にした話。

「自治会費も払っていないのに、夜間、街灯の下を歩いたり、勝手にゴミを出したりして、不公平よね。だって,街灯の費用って自治会費から支払っているのよ。まったくどういうつもりなのかしら」

この話の様子からすると、どうもこの人は地域のことに関心があり、ひょっとすると自治会の役員なども務めたことがあるのかもしれません。

それならなおさらです。ちょっと待ってください。
確か、自治会という組織は任意加入が原則のはずですよね。つまり、会費を払って自治会員になるかどうかは各世帯の自由ですよね。
そのことを無視して、たとえ自治会といえども“会費を払っていない人は街灯の下を歩くな”とか、“ゴミをだすな”とか言えるんですかね?

だいたい、自治会組織というものは任意加入の会費だけで成り立っているものなんですか?
確か、自治会には、行政から“地域振興協力費”なるものが、自治会加入・未加入に関わらず、各世帯に年間1000円前後振り込まれているはず。さらに、これに加えて“公報誌配布謝金”なるものも、自治会加入・未加入に関係なく、各世帯割で振り込まれているはずです。しかも、これら“地域振興協力費”・“公報誌配布謝金”の原資は税金であり、その一部が私たちに還元されたに過ぎません。
だとすると、冒頭の「自治会費を払っていない人は・・・するな」という言には無理があるように思うのですが、いかがでしょうか?

そんなことよりも、私が気になっているのは、地域のこれから先のことです。
「余計なこと心配するな、誰かが考えてくれるよ」という声も聞こえてきそうですが、歳のせいか私は気がかりで仕方がありません。まっ、老婆心ってものですかね。

特に気になるのは、最近の自治会の組織率の低下傾向、つまり自治会未加入世帯の増大傾向です。不況のせい?それもあるかもしれません。しかし、理由はもっと他のところにあるような気がするのです。
隣近所の“付き合い”の希薄化?プライバシー主張の拡大?面倒なことにはなるべく関わりたくないという“事なかれ主義”の徹底化?
いずれにしても、こうした状況の中で、事の善悪は別にして、今や自治会は単なる“おつきあい”の範囲でしか理解されていないのではないでしょうか?その意味では自治会費も“おつきあい”の域を出ない、とも理解できます。それにしては高い?安い?

それに加えて役員でも引き受けざるをえなくなったら、それこそ家庭争議になりかねない。
「勘弁してよ、会費だけの会員にしてよ」という人たちが意外と多いんじゃないですかね。そこを無理を通して役員でも押し付けようものなら、「もうやめた、自治会費を払うのもやめた、自治会もやめた」ってなことになりかねない。

私たちの地域は今そういう状況の真っ只中にあるのではないでしょうか?
“公平・平等”は確かに大事です。しかし、“自由”も重要なのではないでしょうか。
この一見両立し難い問題を、過去の“しがらみ”にとらわれないで、近い将来像を画くように運営されるのが、これからの自治会の姿なのではないでしょうか。

でも、やはり、自治会員でない人は夜道をうつむき加減に街灯の下を歩かなければいけないのでしょうかね?
だって、自治会が自治会費だけで成り立っていないように、税金だけで成り立っているわけでもないのですから。

Tamotsu Taira
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『素朴な疑問』 Part2


 よく「憲法が法律に優先する」と言われますが、それでは憲法と法律とはどこが違うのでしょうか。

 ある政治家が答えて曰く、「それは最高法規ということだ」とか「法律の中で一番偉いものだ」と。
 そんな答えではさっぱりチンプンカンプン。まったく意味が違うのではないでしょうか。

 「市民から国家に対する命令(=憲法)のほうが、国家から市民に対する命令(=法律一般)よりも優越する」というふうに答えていただければ、その意味も明確に理解できるはず。

 では、同様に「名誉毀損とプライバシーの侵害の違いはどこにありますか」という問いに、きちんと答えられる政治家、官僚、法律関係者がいるのでしょうか。

 要するに、日常生活を営むうえで、一般的に流布している常識・正解なるものをもう一度、私たち自らが自分で考え直してみる必要のあることが意外と多いのではないでしょうか。

 上の例はほんの一例です。「わかっているつも」、「知っているつもり」のことも、日常生活に引き寄せて考えてみると「何か変だなぁ?」、「いや、おかしいなぁ?」と首をかしげることが実際にたくさんある。

 プライバシー保護という問題についても、本来プライバシー保護の役割を公的に担っている人が、その役目を果たす以前に自らのプライバシー保護を主張することによって、むしろ他の人々のプライバシーが保護されない、といった逆立ちした現象が起きるのも、実はこんなところに原因があるのではないでしょうか。

 特に、地域における福祉活動においては、現実の日常生活に照らして行政による施策を考え直したり、見直すことが重要なのであって、決して施策に基ずいて私たちの生活を鋳型にはめるようなことがあってはならないと考えます。

Tamotsu Taira
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『出でよ、セラピスト!』


いまわたしの娘が、OT【Occupational therapist──作業療法士】の卵として【Rehabilitation──リハビリテーション】の実習に出掛けている。同じくOTだった母親のやり残したことをやる、というのがOTを目指した動機なのだが、はてさて・・・。

その娘に、伝えていることがいくつかある。
曰く、我が国の Rehabilitation は世界の潮流からは遠く外れていること。
曰く、PT【Physiotherapist──理学療法士】とOTとの区別が非常に曖昧になってしまっていること。
曰く、OTを目指すのなら、是非にも幼児の“発達”に関わって欲しいこと。
これは願望でもあるのだが、“発達”の早期に関われるOTが一人でも増えれば、数多くの障害児が救われる、とわたしは考えている。

Rehabilitation は、医学や看護学と同じようにかなり血生臭い誕生をしている。娘の母親からの伝授だが、ここにその歴史を紐解いてみよう。

人類史上初めての大規模戦争といえば第一次世界大戦になるが、その大戦終結後、アメリカには膨大な数の傷痍軍人が残された。これまでの小規模戦闘ではおよそ例を見なかった、身体・精神の両面に重い障害を残す軍人たちだ。戦争で疲弊しつくし、国を立て直さねばならないアメリカには、これら傷痍軍人たちの保護・補償は重い足枷となった。
「税金で保護・補償している彼らを、税金を払える納税者の側に仕立て上げろ」という当然の声が挙がり、やがて至上命令となった。
こうして【Taxpayer──納税者】を創り出せ、の合い言葉と共に Rehabilitation が産まれたのである。

身体の障害に対して【Physiotherapy──理学療法】、精神・神経の障害に対しては【Occupational therapy──作業療法】の両方が考案され、それぞれの療法士【Therapist】を、PT・OTと名付けた。PT・OTは医師と対等であり開業できる。

だが、それはあくまでも創設したアメリカの話であり、第二次大戦後、我が国に導入された Rehabilitation は、初期の段階から違っていた。
まず医業より下にランク付けされ、医師の指示のもとでなければ実施できないとされた。当然のことに開業などは論外となった。輸入当時 Rehabilitation を知る医師などいなかったにもかかわらずその配下に置かれたため、勝手な解釈からPT・OTの区別すら付かなくなった。

今日、“機能回復”の意味合いを持つ Rehabilitation の Therapist には、整形外科、もしくは脳外科の領域に行けば会える。患者が萎えた痛む手足を動かし、あるいは麻痺した手足に鞭打ち、 Rehabilitation に励む姿は日常的となっている。
確かに、それも Rehabilitation には違いないが、しかしそれがすべてか? それだけではなかろう、とわたしは強く想う。

精神・神経科領域はどうなっているのか? 重度障害を持つ乳幼児たちへの早期対応は? わたしが、日本には本物の Rehabilitation がないのではないか、と思うのはこれ故なのだ。

そしてここに、もうひとつの問題がある。
これまで動いていた手足が障害のために動かなくなった、その機能回復の Rehabilitation はまだいいだろう。
だが、産まれた直後の乳幼児の手足は満足に機能してはいない。その乳幼児に障害が発見された場合、現行では【Rehabilitation】を施行している。
だがその時点での【Therapy】は、神経系の発達を促す【Habilitation──ハビリテーション“注:訳語なし”】でなければならない、とわたしは考えている。
身体の運動機能を満足に持たない障害児たちには、まず運動機能を付与しなければならない。
この手技が Habilitation なのだが、その基本となる“発達”をマスターしたOTに、実は、これまでにわたしは一人出合っている。
このOTは、重度の障害児をまったくの健常者に生まれ変わらせ、文字通りの Taxpayer に仕立て上げた。

この Habilitation Therapy が浸透すれば、間違いなく世の障害児は激減する。
国は障害補償をしなくてもよくなり、本人と家族がなによりも喜ぶ。
ここまで分かっていながら、国はなにゆえに足踏みをする・・・?
医師の指示のもとから、PT・OTを解き放つ、たったそれだけの当たり前のことがなにゆえに出来ないのだ?
施策を待ってはいられない。

出でよ、本物の Therapist!

Mutsugi Nishijima
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※尚、上記のものは、現行の Therapist の能力うんぬんに言及するものではありません。 あくまでも我が国のシステムの不備に対する純粋な怒りです。


『素朴な疑問』


社協って何? 
社会福祉協議会のこと! 
その社会福祉協議会って何?
官製のパンフレットにも書いてあるし、このすすき野社協のホームページにも書いてあります。
でもイマイチ理解できない。制度論あるいは歴史的沿革ならその程度の説明で事足りるでしょう。
しかし、私の疑問はけっして言葉の問題としてではなく、社会福祉の”社会”がこの国には本当に存在するのであろうか? という素朴な疑問なのです。
地域社会という場合の”社会”だって同様。
「社会は本当にあるのでしょか?」

たしかに西欧にその出自をもつ"social welfare"なら学校で教わった記憶があります。
しかし、"social welfare" を日本語に直訳した”社会福祉”はその内容において似て非なるもの、というのが私の実感です。その原因は個人と社会の関係にあるのではないか、というところまでは検討がつきました。

問題はその先。
「個人が存在すれば社会は当然のように成立し、逆に社会があれば当然そこには個人が存在する。」
「これ本当でしょうか?」という疑問。「鶏が先か卵が先か」という命題よろしく個人と社会の関係理解は一筋縄ではいかないようです。とくに頭の中で考えているとゴチャゴチャして眠れなくなってしまいます。
こうした素朴な疑問に自ら答えを出すためにも、具体的に肌身で感じながら考えることができるのが”地域福祉”という場なのではないでしょうか。

社会も福祉もどうやらタナボタのように上から偶然与えられるものではなさそうです。
このままでは”世間福祉”になってしまうのでは、という危惧。
”世間”って何?
       
Tamotsu Taira
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『福祉』とは・・・


“拭く紙”と掛けて“トイレットペーパー”。
もちろんジョークだが、常に身近にあり普段は気づかないが、ないとなると大騒ぎになるもの、であることは確かだ。

第二次大戦後の混乱期、“社会福祉思想”が我が国に導入された。
当時は衣食住すらままならず、炊き出しや衣類の配給等、方面委員としての“民生児童委員制度”が縦横に活躍していたころである。
その名残であろう、民生児童委員が行う“社会奉仕”がそのまま“社会福祉活動”なのだと誤解している方たちがいまだにいる。
実は、民生児童委員の“民生”とは名ばかりで、その活動が“行政”の範疇を超えて住民サイドに立つことは滅多にない。
もちろん、このことは個々の民生児童委員の資質や責任ではなく、制度そのものが、現状から大きく乖離してしまっていることによるのだが、ここでは詳しくは触れない。

さて、話を社会福祉に戻そう。
日本人は、すべてを貪欲に吸収する性格傾向にある、と言われている。宗教しかり、生活文化しかり、東洋のものであれ西洋のそれであれ、すべてを合体させ別の新たなるものを生み出す能力がある。良きに付け悪しきに付け・・・だが、この“社会福祉”の捉え方にしても同様だ。
古くからの“民生児童委員制度”に併行させて“社会福祉制度”を導入した。このことを中庸を尊ぶと言えば聞こえはよいが、どっちつかずの宙ぶらりんであることに変わりはなく、それゆえの誤解を生む温床ともなっている。

他方、社会主義国家では“社会福祉”は必要がない、との論議がかつてまかり通った時代がある。国そのものが福祉国家であるから、とりたてて“社会福祉”など取り上げなくとも良い、との言い分だが、“衣食住”の分配さえしていれば社会福祉だとの考え方は、我が国では国や行政が行う『社会保障』の範疇なのだ。
これは、“社会福祉”からは遠く外れている。

『より良い生活のために・・・』というのが本来の福祉である。
『より良い生活』とは、悩みや希望が個々人すべてに異なるように、規格品となるものなどは存在しない。従って、国や地方行政に依存するのはお門違いとなる。
“社会福祉”とは、自らが築き上げ、自らが主体的に実施して始めて得られるもの。

テニスをやるのもいいだろう、海外旅行も元気なときは楽しいはずだ。だが、人は必ず老いる。一人の力で立って歩けなくなるときが必ず来る。
その日のためにも、他人任せではない自らの福祉を、いま一人一人が切実に考えなければならない時にきている。

遊んでいられる時間はとても少ない。
Mutsugi Nishijima
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少子化』から見えてくるもの


 急速に高齢化する社会の問題,福祉の課題とともに,いまきちんと目を向けなければならないのは,少子化と晩婚化,未婚者(パラサイトシングル)の著しい増加である。今更の感も拭えないが,国としても抛っておくことができないとの認識か,厚生労働大臣がへたに誇大な言い方をして国民の失笑を買ったのも記憶に新しい。けれど,お役人さんのように,これを年金引き下げ,保険料アップということに結びつけて,「深刻な事態だ」「日本が潰れる」と考えることはできないにしても,これは他人事として嘲笑していて済むことではなさそうだ。

 一人あたりの女性が生涯に出産する子どもの数を示す出生率を見ると,2000年の調査では1.34だった。これを横浜市に限って見ると,1.19という驚くべき数字が示されている。わたしたちが育った時代には,兄弟姉妹が5人,6人というのはごくふつう,12人きょうだいの友人もいた。そうした感覚でこの数字を見ると,もう,驚きなんてものではない。

 昨年6月7日,今度は2001年の人口動態統計が厚生労働省から発表された。結婚した人の数は新世紀のめでたさにあやかってグーンとふえたのに,出生率のほうはは1.33とさらに減少し,史上最低を更新している。最も低率なのが東京都で1.00,京都府が1.20,北海道1.21,神奈川1.22とつづく。近々,横浜市の統計もあがってくるだろうが,その数字を見るのが恐ろしいような気がする。全国の出生数は前年を約2万人下まわる117万665人。この数字だけでは現実的な少子化の実感をもつのはむずかしいかも知れない。しかし第2次ベビーブーム(1971〜74)当時の数字とこれを比べてみたら,一目瞭然に理解できよう。1973年の統計を見ると,出生率は2.14,誕生した赤ちゃんの数は209万1,983人とある。およそ2倍である。ついでに第1次ベビーブームの1949年の記録を見ると4.32とある。

 私事で恐縮だが,1979年の秋にこのすすき野に転居してきて,1971年生まれの息子がすすき野小学校に転入したときには,教室が足りず,急ごしらえのプレハブ校舎で勉強したこともあるほど。そのうち嶮山小学校ができるなどして過密状態は緩和されたが,いまは各学年ともほとんど生徒数30人にも満たない状態にあり,空き教室が目立っている。

 いま若い人たちは何歳で結婚しているのだろうか。2000年の平均初婚年齢は,全国平均で,男28.7歳,女26.8歳。横浜市の場合は,男29.5歳,女27.6歳となっている。今回発表されたものから,最初に子どもを出産したときの年齢を見ると,男29.0歳(前年28.8歳),女27.2歳(前年27.0歳)と,晩婚化・晩産化の傾向がくっきりしてきている。適齢期を過ぎても結婚しないでシングルライフを気楽にエンジョイしている人を,どなたも身近なところで2人や3人見て知っているだろう。そうした人たちのほか,離婚する人も増えて,昨年は28万5,917組(前年より1万1671組も増加)の離婚件数となり,これも過去最高という。

 こういう数字があらわす社会は,いったい住みよい社会なのか,それとも生きるに世知辛い社会なのか。何がこうした状況を生み出す因子になっているのだろうか。

 育児のための社会環境と条件が整っていないからだと指摘する人も多い。不景気,リストラ,展望のきかない将来,弛緩した人びとの意識,平和ボケ,相対化され存在感の薄い個人のあり方,生きている実感のなさ,政治家や官僚による権限の私物化と不明瞭な蓄財……。こうした点を挙げ,子どもに誇れるような国ではないじゃないかという人もいる。人間関係が薄く,互いに信頼しあうことがなくなって,どっちを向いても不安ばかりの百鬼夜行の図の前で,人はいま,享楽的なエゴイズムと俗物性への傾斜に走り,自己保身と虚栄の欲望に突き動かされ狂奔している。精神的には完ぺきに病人で,病人特有の甘さとわがままぶり,身勝手さにまみれ,ほんとうの自信はないくせに浅知恵を働かせてやたらと技巧に走る軽輩の横行が目にあまる。

 どうすればよいのか。だれに期待すればよいのか。このエゴイズムを剔抉しようとする小さな努力の先に見えてくるのが,ゆとりある生活であり,それを底で支える地域の共生であろう。物質ばかりを求めてもついに幸福に行き着けないことがはっきりしてきたろう。地域社会がみんなで自分たちの手を差し伸べあってつくっていく社会,みんなで幸福を勝ち取る社会を,愛すべきこのふるさとの街に立って目ざそうではありませんか。

(Tsugio.Sugano)
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介護保険』に物申す


我が国の現行の老人介護は不手際が多すぎるのです。それゆえにその穴埋めがどうしても必要になります。
とはいえその中心を担う“介護保険”は、またどうしようもなく前近代的な代物なのです。

長くなりますが、いかなるものなのか少し述べてみましょう。


これまでの我が国の老人介護は『家庭内介護』が主流でした。しかも、その介護者はほとんどが身内で、何年も何年も家に閉じこめられ、明けてもくれても年寄りの世話をしてきました。

その方たちに援助の手を、と考え出されたのが『介護保険』です。介護保険としての当初の理念は確かに良かったのです。素晴らしいものでした。
だが、出来上がったものは、すでにして満身創痍の状態となっていたのです。


『介護保険』の設立時、不況下という社会環境のために、雇用促進の意味合いが大きく打ち出されました。

二つ目が、医療保険の赤字軽減という大問題です。

そのための手段として、次のような苦肉の策が取られたのです。


まず、“看護”から“介護”を分離独立させ、医療・看護の基礎知識を持たない『介護福祉士』や『介護ヘルパー』という中途半端な介護専従者を急造しました。

続いて、介護保険の“要”となるケアマネジャーの作成時点では、医師会や薬剤師学会やありとあらゆる派閥の強引な圧力がありました。
医者・看護婦等の医療職経験者でなければマネジメントは無理だ、と言われた当初の観点はどこ吹く風、それ以外の職域の者にも、また無資格者であっても10年の経験さえあればケアマネジャーの試験資格を与えることになりました。

こうして今日の“ケア・マネジメント”の基礎が築かれることとなったのです。


話変わって、老人に対する“介護”などは存在せず、あくまでも“看護”の範疇にあることは識者なら既知のことなのですが、これにはまったく目をつぶりました。

なにより、“看護婦”は“介護”を行ってはならない、というバカ丸出しの法令を作り上げた時点で介護保険は完全にレールから外れ、脱線しました。

健康体の老人など滅多にいませんし、年を取ればどこかしら悪くなるものですが、それを脇にどけてまで、健康な人への世話を“介護”と称する、と定義付けたのです。

病人は病院へ行け、自宅にいるな、というのが根本思想なのです。


しかしながら、モデルケースとしたドイツ介護保険やアメリカのシステムでは、家庭に派遣されるヘルパーの最低限の資格が“看護婦”なのです。
薬ひとつ投与できず、注射一本打てず、貼り薬すら施行できない我が国の介護保険関係従事者との大きな大きな違いがここにあります。

目の前で年寄りが死にかけていても、介護従事者たちはただ黙って見ていなければならないのです。心臓マッサージも呼吸確保すらも学ぶ必要がなく、またやる必要がない、というのが我が国の基本方針なのです。酷い話です。


さらにです、もっとも我が国に適さない思考形態を取り入れてくれました。

ご承知のように我が国には、残念ながら“個”というものはほとんど育っていません。“集団の中の一人”があるだけです。

ところがです、個を最重要視する『契約』の思想を取り入れたのです。

介護保険は個人契約が大前提なのですが、このことについて、介護保険導入前に声を大にした者はいませんでした。だれも彼もが息をひそめていたのです。


これまでの“措置”の時代の老人福祉は、黙っていても民生委員や行政がやってくれました。年寄りは、何かがあれば家で待っていれば良かったのです。

だが、現行は、本人か家族が自分の意志で“契約”しない限り履行不能なのです。

ですが、物事が見えている年寄りや、自分の意見を声高に言える年寄りばかりではありません。他人に迷惑を掛けないことを美徳とする人たちが数限りなく存在するのです。

そういう人たちは何も分からず、何も知らされず、ただ黙って大人しく介護保険料だけを支払っているのです。若い人たちも自分に関係がないことですから、関心もなくほとんど手伝いません。


さらには、介護保険の個々の報酬単価に至っては、あまりにもデタラメです。
問題が大きすぎてここでは深くは触れませんが、医者が一枚指示書を書けば数千円、ケアマネジャーがどれほど頑張ろうが、一ヶ月の報酬単価はその一枚の指示書とほぼ同額なのです。
また、現行のケアマネジャーの大半は看護婦ですが、“訪問看護”をすれば1時間7〜8千円の単価となり、ケアマネジャーとしての一ヶ月では、その1時間にも及びません。
なおかつ全責任を押しつけられるのですから、ケアマネジャーを職業とする者が少ないのは当然至極なのです。
これでは介護保険は動きません。



この先、いずれは我々も世話になるものですが、現行のシステムに関する大きな期待はまず無理でしょう。

長生きしたかったら医者の世話になるな、介護保険を使うな、という医療や介護の現場に従事する者たちの切実な叫び声が、それを端的に表しています。

                              

(Mutsugi Nishijima)

何年も前に書いたものの焼き直しのため、内容に時間的なずれがあります。
例えば、“看護婦”は名称変更で“看護師”となっていますし、報酬単価も改定しつつありますが、微々たるもので態勢には変化がありません。従って本文では訂正してありません。ご了承下さい

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