絹糸のような雨がようやくやんだあとは、また、セミ時雨。まったく動かなくなった空気がはるかうえのほうで重くうなっている。目の下遠くに、白っぽく蘚苔類に蔽われて大小数しれぬ低い塚が佇っている。それは太古のころからだれも手をつけなかったような荒涼とした風景だった。
木の葉から落ちる雨のしずくがいつまでも腐葉土をたたいている。死者のするもの悲しいつぶやきにも似て、その音は高まり、またしずまり…。そんななかで、一時間二時間、いや、半日また一日、亡霊のようにこころを透明にして、ただ静かに自分の胸の動悸を数えるのが、おれの習慣になっていた。そこでは、ありとあらゆる滅却の涯てに、おれひとりだけが生きている。ここに来てはじめて、おれはほんとうの自分の笑いを笑うことができるのだ。こころの底からおれの小さな実在を笑いとばしてやることができるのだ。
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なんであの女はおれに近づいたのだろう。あいつとの一週間、五十に近いおれの日々ははじめてカァーッと輝いた。それまでは、昨日につづく今日であり、望むものもなく、また捨てるものもない、独りだけの夜と昼のくさりに牽かれるまま生きてきた。雨降らば降れ、風吹かば吹け…、愉しみも慰めも知らぬおれにはじめて情熱が兆し、おれを奪った眩暈と陶酔は、その間、周囲のすべてをおれの目からかき消した。夫も子どももいることをあいつはなんでおれに隠したのだろう。あれは夢だったのだろうか……、おれのつまらぬ生き方を揶揄する天女か妖女の、気紛れないたずらだったのだろうか。職業高校を卒えて以来、一日も欠勤することなく勤めてきた法律事務所からは、一か月ほど前、突然「出社に及ばず」としるした文書が8号の角形封筒で送られてきていた。終わったのだ。二階の事務所へ通じる狭い階段。歩くたび女の悲鳴にも似た軋りを発するあの明かりのない階段を、そっと、そっと、息を殺すようにして歩いてのぼる日々はもう終わったのだ。意味のわからない専門用語をただそのまま精確に書き写す仕事も、もうしないでいいのだ。
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影と影が重なり、影の翳と影の翳とが重なりあい、やがてあたり一面は深い煙霧のなかにものの輪郭を吸い込んでいく。自分の肢体も崩れだし、溶けはじめて、全宇宙を蔽う濃い霧の粒子に吸い取られていくような、はるかな沈降感覚がからだのまんなかを貫いていくのを感じた。放恣な幻想が気遠い意識のなかでゆっくりと点滅していた。するとそのうち、きらめく水滴を眼球のうえに受けたときのように、清麗な虹の帯がいっぱいに広がってきた。
カラスアゲハが赤い野の花のまわりで戯れていた。影と光のあいだを悠然と出たり入ったりしている。青光りのするみごとな尾状突起の黒い色を見て、ふと、幼いころ祖父から聞いた霊魂というものを想った。黒いチョウは人のからだから抜け出した霊魂を運んでいるのだ、だからいたずらにチョウを捕ってはならないという。遠い遠い昔から、だれも知らないところにその霊魂たちは集められているのだとか。――その秘密の場所におれはいま迷いこんでしまったのだろうか。
おれの胸を領する憂愁に気づいたかのように、大きな地獄蝶は、はらりと目のまえに近づき、二度、三度旋回した。あとについて来いといわれたような思いがして、おれは意思もなくそのあとを追っていた。
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古い倒木かと思って見れば、それは半ば白骨化した人の死体だった。男のものか、女のものか…。土のうえにころがっているその物体は、よく見ると、義歯の入れ具合のよくない老人がするように、カラッ、カラッと下顎骨を動かした。風のいたずらか、それとも遠いところにいる審理者の意思なのか…。立ち去りかけたとき何やら動くものを感じてもう一度振り返った。腐肉がからまる肋骨の一本に、セミが足をしっかりふんばり、羽化をはじめていた。飴細工のような殻が割れて、中からまっ白な生物が出てきた。背を反らせ、もっと反らせてついに殻から抜け、いのちを確かめるかのようにオパールの輝きをもつ半透明な翅を震わせた。それは、目を向ける角度ごとに色を変え、美しくみずみずしく輝いた。数年にもおよぶ地下での生活を終え、丸い穴をうがって地上に出てきたセミ。つぎの世代をつくるそのためだけに、わずか数日のいのちを輝かすこの小さな生きものに、そのときなぜか、おれは声をあげて泣いていた。
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