大人のメルヘン
第一話 『天国への階段』 第二話 『未完の宇宙』 第三話 『男と女』 第四話 『My family』 第五話 『永い永い昼と永い永い夜』
第1話 『天国への階段』 “三途の川”の渡し船が着いた。 乗り合い客は三人。呉服問屋『清玄』の店主“清治郎”とその番頭の“五作”、それに『清玄』への押し込み強盗を手引きした若い女“お京”だ。 “お京”は、夜間に裏木戸を開けているところを“五作”に見つかった。“清治郎”“五作”からの責め折檻の最中に強盗一味が踏み込み、二人はあえなく斬られた。だが、“清治郎”が死に際に、縄で縛られている“お京”の胸を懐の匕首で刺した。それで渡し船の相乗りとなった次第だ。 “清治郎”“五作”の二人は、渡し賃の六文銭を払うとさっさと降りた。振り返るでもなく歩き出す。六文銭を持たない“お京”は、ひとり残された。 茫々として薄暗く、天と地の境目すらない。不気味な静寂がヒタヒタと押し包む。 途方に暮れる“お京”に、渡し守は川下方向を指さした。“行け”と無言のまま顎をしゃくる。そこは“清治郎”“五作”の歩いていった方角とは違っていた。 渡し守に小腰を屈め“お京”は歩き始めた。ゴロゴロとしたこぶし大の石が散らばり、歩き憎いことこの上ない。やがて、微かな声が聞こえてきた。なにか小さなものがノロノロと動き回っている。子供のようだ・・・。 かつて“お京”にも子供が一人いた。生活に困り、押し込み強盗の一味に入ったものの、足手まといになり始末した子だ。子殺し、間引きは、当時の世相だった。 唄が聞こえる。 「ひとつ積んでは母のため〜、ふたつ積んでは父のため〜」唄いながら、ひとつ二つと石を積み上げている。 積み上がった頃、どこからともなく恐ろしげな赤鬼と青鬼が現れた。立ち尽くす“お京”を横目で眺め、積み上げたばかりの石を蹴った。積み石を崩された幼子は、頭を下げるとまた積み始める。 「なっ、なんてことをするんだぇ!」思わず“お京”は叫んだ。 赤鬼と青鬼はジロリと一瞥すると、無造作にまた別の石を蹴る。 「やめろって言っているんだよぅ」赤鬼にむしゃぶりついたとき、 「かあちゃん・・・」と、幼き声がした。 「うっ・・・!」“お京”はその場に崩れ折ちた。「おっ、おまえは!」自らの手で首を絞めた我が子だった。 這いずりながら近づこうとした“お京”は、だが何ものかの力強い手で強引に戻された。再び試みたが、また恐ろしい力に引き戻された。 「かあちゃん・・・」子がニッコリと微笑んだ。 「産んでくれて、ありがとうね」 “お京”の地の底からの咆吼が響いた。 女一人、必死で生き抜いてきた礎が、いま粉々に砕け散った。過去からの時が走馬燈となり、滂沱の涙が堰を切って流れ落ちた。再度、子に近づく“お京”を、なにものかの力は今度は妨げなかった。 赤鬼と青鬼は、子の髪を撫でる“お京”を黙って眺め続けていた。 裁きの時が来た。 “お京”より先に“清治郎”“五作”の二人が“閻魔大王”の前に跪いていた。 「よし、阿漕な商売をした報いじゃ、多くの者の痛みを思い知るがよい。“針の山”じゃ、引きたてい!」 雷鳴が轟き、鬼が二人の腕を掴んだ。 声もなく足を奮わせ立ち上る二人を“お京”はただ見つめていた。“お京”の心は平穏だった。これまでの罪を悔い、どのような仕置きをも甘んじて受け入れる覚悟ができていた。その心根は表情に現れ、自然と頭が垂れた。 「次、前に出い」大気が鳴り響いた。 賽の河原で出会った赤鬼と青鬼が“お京”を閻魔大王の前に座らせると、そのまま閻魔大王の両脇に付いた。 閻魔大王の燃える瞳が“お京”をしばし睨み付けた。 「うーむ、おまえが“お京”か・・・針の山は痛いがおまえは耐えられるだろう」言いながら二匹の顔を盗み見る。軽く二匹がうなずく。 「血の池地獄も灼熱地獄も、おまえにはもう必要がない。な、そうだなおまえたち?」 代わる代わる二匹が大王の耳に何事か囁いた。 「そうか、おまえたちまでがそう言うのなら、間違いはあるまい。よかろう、連れて行け」 しばらく無言で“お京”は腕を引かれた。いずこへ行くのか知らされてはいない。 青鬼が“お京”を見た。「賽の河原で、おまえを子から引き離したのは大王様だ」 「そうだ、大王様は一部始終を見ておられた」赤鬼が引き継ぐ。 二匹の口調が心なしか柔らかい。“お京”は黙ってうなずいた。 血の池地獄や針の山はすでに彼方に隠れ、灼熱地獄の赤い炎だけがおぼろに見える。 前方に天に延びる巨大ななにかが見えてきた。階段だ。 「さあ、行くがいい」階段の前で“お京”は背を押された。 「おまえは資格を得た」二匹の鬼が優しくほほえむ。 戸惑う“お京”の足が階段に掛かったとき、まろやかな声が湧いた。 「動きますから足下にお気をつけください。この階段は天国に直行します」 |
第二話 『未完の宇宙』
太古の昔、1年は360日だった。
地球は360日掛けて太陽を回り、月は30日で地球を一周した。地球は1秒の狂いもなく24時間で一回転していた。
なによりも、完全無欠な宇宙数【6】がすべての底辺にあった。
だが宇宙の創生者たちは、完全無欠には飽き飽きしていた。あえて不完全を造れば、ことによると完全無欠を乗り越えられるかもしれない、と淡い期待を抱いたのだ。
よって、まず6よりわずか少ない曖昧数【5】を造り、この曖昧数【5】に宇宙数の【6】が掛けられ【30】を造った。
これをひと月として1年を12ヶ月に区分した。1日も30を当てはめ、昼15時間、夜15時間、足して30時間とした。1時間は30分、1分は30秒となった。
だが、無限の時間を存在する宇宙創生者たちにとって、時間はさほど重要事ではなかった。
「昼15時間は語呂が悪い」と月数の12時間に簡単に変更され、ついでに「減らしたからどこかを増やそう」と1時間は60分、1分は60秒と修正された。
だが、この“360”と“30”と“12”は、なぜかとても気に入った。クロスワードパズルのように宇宙のあちらこちらにこの数字を填め込む作業が始まったのだ。
太陽系の惑星は11個、太陽を加えて総数12個とした。各惑星の衛星“月”は合計30個となり、太陽は360個でひとつのグループを成し、それぞれが星団を形成した。さらに30個の星団が集まって“球状星団”となり・・・以下省略。
また、骨格構造を成す生命体の大骨は12本、中骨は30本、小骨は360本とした。ただし、生命体が外部へと開放する“穴”だけは宇宙数の【6】にこだわった。「もしも動かなかったらどうするの」という強行意見があったためだ。
曖昧さの典型を残すために、手足の指は5本とした。体幹は手足が4本、胴体・首で1本、尻尾1本で合計6本となった。
生命体の増殖については議論が沸騰した。アメーバ状の細胞分裂や蜂や蟻のような無性生殖では芸が無さ過ぎると、“有性生殖”が提案された。身体の構造変更は“雌”となるものの身体から一部を取り出し、それを“雄”となる身体に付け足す微少な変更でこと足りた。これで凸と凹が出来上がった。
出来映えにみな一様に感激し、この凸凹の概念は他の様々なものにも取り入れられた。
“ブラックホール”の凹や“ホワイトホール”の凸もこうして造られた。
生命体の“仕様プログラム”は各自の自主生産となり、親から子へと受け継がせる“遺伝子”が考え出された。これはこれで便利だったが、時に遺伝子が千切れ跳び、種々の悪さをすることが判明した。後に言う“ウイルス”だが、宇宙の創生者たちは“病原菌”も含めこの種類のバグにはまったく無頓着だった。
“円”は、小宇宙のレプリカとして1年と同じ360度を当てはめた。
クモの巣や蜂の巣も、最初は宇宙を模したサークル状を考えていたのだが、いつのまにか宇宙数の6角形に収まってしまった。たまに、12角形や変形があったが“誤差”の範囲ということで完全に無視された。
星たちは、すべてが完璧な円軌道を描くように配置された。だが、それで完結してしまっては面白くない。“宇宙を乱すもの”として“彗星”が考えられ、太陽系最外縁を回る惑星に楕円軌道が与えられた。これで星たちの軌道にわずかな狂いが生じる。わずかな狂いはさらなる狂いを呼び、時間の経過と共に宇宙が少しずつ乱れてゆく。
宇宙創生者たちは顔を見合わせ、寝乱れた、あられもない姿の宇宙を想像して思わずほくそ笑んだ。完璧な宇宙を造らないことが、当初の完璧な計画だったのだ。
終盤となり、宇宙にさらなる“混沌”を与えようと工夫が凝らされた。だれかの提案で“エントロピー”が導入され、これで時間の経過と共にすべてのものは無秩序へと移行することになった。この“秩序あるものの崩壊過程”は、満場一致で迎えられた。宇宙創生者たちにも“他人の不幸は密の味”だったのだ。
こうして、宇宙のインフラ整備はあらかた終わった。
残されたのは“意志”だけとなった。創造物に目的を持たせる意志だが、何に持たせるかで意見が割れた。「太陽がいい」と言う者、「いや、当初の計画通り宇宙全体にもたせよう」と言う者、様々だったが、凸凹を考え出した者の「どうせゴミのような宇宙なんだから、このゴミみたいなものに持たせよう」という意見で、“意志”はゴミのような“人間”に委ねられた。
これは多数決で決まったのだが、この時点で宇宙創生者たちの興味は急速に醒めていった。民主的に事を進めることは決して楽しくはないのだ。
「よーし、今度は別のものを造ろう」を合図に宇宙創生プロジェクトは一瞬にして散り散りバラバラになった。
物置の隅に水生動植物観察用のアクアリュウムが埃を被り放置されていた。スペースリュウム『宇宙』は、未完のままその水槽の上に乱暴に積み上げられた。
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第三話 『男と女』
「あなた、きょうは遅かったのねぇ。わたし待ちくたびれちゃったぁ」
車のドアを開けるが早いか、含みのある鼻に掛かった声が飛び出した。
「すまんなあ、会議が長引いてさ。例によって部長がまた訳のわからんことを言い出して、実際、困るんだよあの人には・・・。前回のボクの提案もいまだに没になってるし、老害だね、ああなると」
つぶやく男はコートを脱ぐと、後部座席に投げた。
スターターボタンに軽く触れ、インバーターを立ち上げる。強大な電流が流れ込み、電気モーターが音もなく車を進める。街中をゆっくりと流した。
「ねえ、労咳って、肺結核のことでしょ? いまどき、そんな病気に掛かる人がいるの?」
「へ? 違うよ、歳を取りすぎたってことさ。年寄りが頑固一徹になるのは知ってるだろ」
「ははーん、そういうことか・・・。ねえ、さっきテレビで面白いこと言ってたわよ。年寄りのボケを治す薬が完成したとか何とか」
「へぇ、そいつは朗報だねぇ。うちの部長にぜひとも飲ませてやりたいもんだ」
「その先をどうしても、知りたい?」尻上がりのアクセントがじらす。
「どうしても、知りたくないなぁ」
後部警戒レーダーが反応すると同時に、ヒュンと脇を高速の何かがかすめていった。赤と青の点滅サインが追いかける。電子サイレンが獣の雄叫びを上げた。
「あらま、スピード違反で捕まっちゃったよ。バッカだなぁ。街中を自分でドライブするなんて、信じられないよ」男は胸の前で両腕を組んでいる。
「古来より、スピードに憧れる人々は多くいました。あなただって、郊外では自分でやっているではないですか」トーンが上がり、微妙な棘を含んでいる。
「そ、そりゃたまにはな、それも気分のいいときだけだよ」
「ならば、いつもは気分が良くないって事ですね」茨の棘がどこまでも突き刺さる。
「わたしといるのがそんなにお嫌なのですか」
男は腕を解き、首を傾げた。どうにもおかしい。心持ち、インストルメント・パネルの輝度が増しているようだ。電圧が不安定になっているのかも知れない。
「ねぇ、あのぅ、何を怒っているのかな?」
「怒っていません」瞬時に返事が返る。
「ほら、やっぱり怒ってるよ。なぜだい? あっ、さっき、話を聞きたくないって言ったからかい。あれは冗談だよ。分かってるだろうに、そんなこと」
気まずい沈黙が漂った。男は肩をすくめるとスポットライトを付け、手元の資料に目を通し始めた。
いつの間にか自動車専用高架道路に入っていた。一定間隔で車が流れ、テールランプの明かりがどこまでも無限に続く。
「まもなく家に到着します」
抑揚のない乾いた声に男は顔を上げた。資料に没頭しすぎて、頭に靄が掛かったようだ。
ランプウェイを下り、しばらく家並みの道を走ると車は見慣れた我が家に滑り込んだ。
「やれやれ、きょうはなんだか疲れちゃったよ。早めに寝るとしよう」
資料やコートを手に持つと、男は車を出た。
「おやすみなさいませ。では明日またお待ちしております。ご主人様」
それだけ言うと、“車”は自動シャッターの開いたガレージに入っていった。
「なんだってんだよ、他人行儀になっちゃってさぁ。すぐにへそを曲げる“女”はダメだな。明日にでも、他のメーカーのROMに交換してもらうとしよう。今度はもっと素直な“女”がいいな」
男は、玄関ドアの前に立った。
「お帰りなさい、あなたぁ、寂しかったのよぅ」嬉しそうに“家”が言った。
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第四話 『My family』
妻「お父さん、洋平の高校からまた呼び出しが来ていますよ」
夫「それが、仕事から帰った直後にする話か?」
妻「仕方ないでしょ、食事をしてお風呂に入ったらすぐ寝ちゃう人ですから。とにかく授業を受ける気がないようだからどうのって・・・」
夫「そんなつまらんことをどうして俺に言うんだ? 学校のことは全部おまえがやってきたんだろうに、なんだって今回だけこっちに振るんだよ?」
妻「たまには代わったらどうなのさ。いつだって、そうやってすぐに逃げるんだから」
夫「なんだとぉ、いつ俺が逃げたってぇ!」
妻「ふん、なにさ、父親の自覚なんかこれっぽっちもないくせに。そういうのを“風呂屋のせがれ”って言うのよ。“湯”うばっかし」
夫「ガハッ、下手な洒落言うんじゃねぇよ。笑っちゃうじゃないか。とにかく俺は忙しいんだ。つまらん話を持ってくるな」
娘1「お母さん、ねぇ聞いて。恵子がね、わたしの持ち物勝手に使うんだよ」
娘2「嘘だよーっ、姉ちゃんが貸してくれるって言ったじゃないかぁ。嘘つきーっ」
娘1「いつ言った。何月何日の何時何分のどこで言った。さあ証明してみろっ」
娘2「うーんとね・・・」
夫「やかましいっ! おまえらまで、ごちゃごちゃつまらん漫才やるんじゃない、あっちへ行けっ、しっしっ」
妻「ほらほら、お父さんのいるときにそんな話をしないの。もういいから向こうに行きなさい。明子はお姉ちゃんだから、そんなことは我慢するの」
娘1「ふん、いっつも、お姉ちゃんだから・・・恵子のバカ、おまえのせいだ」
娘2「お姉ちゃんのアホウ」
息子「おふくろ、パンパカパーンでやんす。目出度く金が終わりやした」
妻「おまえったら・・・ガクッとくること言わないでよ。この前やったお金はどうしたの?」
息子「全部、ゲーセンで使いやした」
妻「ゲ、ゲームセンターで・・・全部?」
夫「このバカモノがぁっ、金は使えばなくなるのはあったりまえだ。そんなことよりちったぁ勉強しろ、バカモノ!」
息子「んだよ、親父、いたのかよぅ、バカバカとうるせぇな」
夫「なんだ、だとぅ、いたのか、だとぅ、うるせぇ・・・ってのはなんだ、このバカヤロー、親をなめるんじゃねぇ!」
妻「あなたっ、やめてよ、なにも殴ることないでしょ・・・あ痛っ、なんだってわたしまで殴るのよ!」
夫「ついでだ、バカヤロー! 大体が、おまえが甘やかすからこのバカがつけ上がるんだ」
息子「くそ親父め、勉強しろって吠えるか、殴るしか能がねぇのかよ。ケッ、やめたやめた、オレは出てくぜ、こんなくそ家」
夫「あーっ出てけっ、上等だ、二度と戻るんじゃねぇぞ。てめぇなんざ、金輪際せがれでもなんでもねぇ、ただのバカガキだ」
妻「ちょっと、あなた、これ洋平、待ちなさいっ!」
娘1「えっ、兄ちゃんどこかへ行くの?」
娘2「わぁ、旅行に行くんだ。いいなぁ、わたしも連れてってよーっ」
妻「うるさい、あんたたちはちょっと黙ってなさい。洋平っ、待ちなさいってばーっ!」
夫「ほっとけ、ほっとけ、そのうちに戻ってくるさ」
夫「・・・と、まぁそんなわけでしてね。せがれが出ていってかれこれ二ヶ月ほどになるんですが、まだ戻る気配がないんですよ」
妻「そうなのです。この人も反省してくれて、多少は父親らしくするって言ってくれたので、帰ってきても、さほど辛い思いはさせないと思うのですが・・・」
娘1「どこにいるんだろうね、兄ちゃん」
娘2「まだ旅行中だよ。わたしも行きたいよーっ」
赤ん坊「オギャー、オギャー」
妻「あっ、オッパイね、いまあげますよ。ああ、この子は洋平が出ていった後で産まれた子です」
夫「それで、相談なのですがね、先生。この先どうしたもんなのでしょうかねぇ。このままじゃ、あたしはどうにもこうにも・・・」
Dr.『はい、お話はとても良く分かりました。そりゃ大変でしょうね。・・・それで、家族の問題もしかりですが、実はあなたの場合はそれ以前に大きな問題を抱えています。お聞きになったことありませんかねぇ、multiple personality disorder と言う言葉。あっ、英語はダメですか・・・えぇと、俗にMPDとも言われるのですが、我が国では“多重人格障害”と呼ばれています。ま、ぶっちゃけた話、ひとつの頭の中に何人もが同居しちゃうわけですよ。家賃も取れませんしねぇ、アハハ・・・。
あ、いや、その、それに普通は、同居人同士の意志の疎通はないのですが、あなたのところは家族同様・・・失礼、家族そのものでしたね、しかも赤ちゃんまで生まれて増殖傾向にある。本当に珍しいレアケースなのですよ。いや、ホント、ハハハ・・・』
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第五話 『永い永い昼と永い永い夜』
1日が以前の半分、12時間になっていた。
地球の自転速度に合わせ、なにもかもが2倍の速度で動いていた。幼児はハイハイをする前に1歳になり、ギネスの長寿記録は260歳を超えた。
羽を付ければ空を飛ぶスピードでバスやタクシーが突っ走る。急加速・急ハンドル・急ブレーキは当たり前となり、未熟な運転手や耐えられない古い車は、どんどんとお払い箱になった。救急車やパトカーの緊急車両は、ジェット炎を吐き地上を滑走した。
「急いでください、ドアが閉まります。早く早く!」駅では、アナウンスがけたたましく喚く。急発進したリニアモーター電車のドアは、大抵が一人二人の人間を挟んでいた。子供や年寄りは公共機関を利用しなくなった。うっかり転んでも誰一人として手を貸す者はいない。皆、自分のことで手一杯だった。
仕事をする間もなく昼になる。昼飯をゆっくり食べている時間はない。
通勤時間の絶対的な不足から、自然と職住接近が受け入れられた。職場は生活の場となり、寝袋や簡易テントが飛ぶように売れ、どのビルの屋上にも洗濯物がはためいた。
家に帰るのは夫婦者か、余程の変わり者だけとなった。
消費時間がなくなり、物が売れなくなった。サービス産業がローソクの火が消えるより早く衰退した。パチンコ屋が潰れ、ホテルや旅館が軒並み店を閉じた。旅行する者がいなくなった航空業界は空を飛ぶ必要がなくなった。
一時期、情報は整理するまもなく垂れ流された。新聞や雑誌は作るそばから陳腐化し、やがてだれも見向きもしなくなった。ラジオは終日音楽を流し、テレビはエンドレスで景色や古い映画だけを映していた。
腹も空かないのに惰性で3度の食事をとるため、食糧不足が発生した。野菜や米などの生鮮食品は早稲品種が促成栽培され、なんとか需要に追いついてはいたが、これとても常時品薄だった。促成の効かない肉や魚類等はとうに底をついていた。
地球の自転にさらに加速が付いた。1日8時間となると狂気の沙汰だ。
“寝不足”が人々を苦しめた。寝たかと思うと朝になる、仕事を始めたかと思うと夜になる。人間の耐えられる範囲をとっくに超えていた。
やがて、まる一日が仕事、次のまる一日が睡眠、翌々の丸一日が休息となったが体調を崩す者が続発した。医療機関は精神科・神経科を問わず内科・外科・産婦人科どこであろうと人が溢れた。藁にもすがりたい人々は、宗教に、呪術に占いにと走り、神社仏閣は常に満員御礼となった。自殺者が急増し、『電車に飛び込むな!』『道路で死ぬな!』『死ぬなら海へ行け』『玄関前での自殺お断り』等の立て看板がタケノコのように乱立した。
物流が完全に停まり、社会は完璧に機能不全となった。
以前から、各地で暴動が頻発していたが、武装警察と重武装の自衛隊に情け容赦もなく撃ち殺された。夜間は、人気のない街中を戦車と装甲車だけが闊歩していた。
餓死者が大量発生したが、ブルドーザーで遺体は積み上げられ、火焔放射器で火葬処理された。建設用ユンボが街のあちこちに埋葬の穴を開けた。
生きている人々は、ただ空を見上げていた。太陽が猛烈な勢いで東から西に駆けめぐる。沈んだかと思うとまた上がる。めまいのする速さだ。
1日が何時間になったのか、そんなことを気にする者はもうほとんど残っていなかった。
世の終わりが着実に迫っていた。雪や雹の翌日は50℃を越える炎熱、その翌日は大雨と大洪水。竜巻・台風・強風・地震、まさに異常気象のオンパレードとなった。
音がするほどの速さで、地球がキリキリ舞をしていた。赤道上の海は遠心力でヒマラヤよりも高く膨れ上がり、反面、極地方の海は干上がり、ほとんどの大陸は陸続きとなった。
今は昔、遠き氷河時代、人類はこの地の底を歩き地球上へと広まっていったのだ。
突然、太陽が停止した。地球に急制動が掛かる。
ものはみな慣性の法則に従い、山も海も川も地表上のすべてが東に向かって跳んだ。極限にまで触れ上がった海は巨大津波となり、地球の急制動で奇麗さっぱりとなった地表を、性懲りもなく蹂躙した。水が干上がった跡には、見事に整地された大地が残された。
動くものとてない真っ平らな地表をジリジリと太陽が焼き尽くす。
新たな地球の永い永い昼と、永い永い夜がこうして始まった。
「以上が120万年前の新生地球の創生紀です。現在では痕跡すら残っていませんが、太古の地球には海も山も川も谷もあったのです。分かりましたか」教師は三次元プロジェクターのスイッチを切った。
「はい、きょうの授業はこれで終わりです。また20時間後に会いましょう」
チャイムと同時に、子供たちは蜘蛛の子を散らすように学校をあとにした。
見渡す限りどこまでも地平線の世界。どす黒く汚れた太陽は、まだ頭上に輝いている。
夜になるまで、あと36万8千7百59時間と49分28秒・・・27秒・・・
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