作品3


 

ふしぎばなし

誕生日はいつ?

              ――がんちゃん

 これは、2002830日、すすき野小学校はまっ子ふれあいスクールでおこなわれた「さよなら夏休み、はまっ子おたのしみ会」で、日没をまって語られた怪談。やきそばを食べたあと、たくさんのこどもたちが身をふるわせて聞いた話で、いろいろな人から文字に起こして残しておいてくれと依頼されていながら、忙しさにまぎれ、そのままになっていましたが、この機会にまとめて紹介いたします。

  


 このあたり、市ヶ尾や藤ケ丘や新石川、港北ニュータウンのあたりは、むかし、「石川の牧」とよばれて、戦国時代までは朝廷に献上する馬を育てるところでした(「元石川」という地名が残っている)。馬をめぐるふしぎなお話もいっぱいあるけれど、きょうは、もっときみたちの近くでじっさいにあったおはなしをしよう。これは、横浜シルバープラザに入所していた九十を越すあるおばあさんから直接聞いたおはなしです。

         †

 ずうっとむかし、明治のはじめころまで、いまのすすき野第二団地ともみの木台をつなぐあたりには、火屋(ほや)といって、死んだ人を焼くところがありました。そうはいっても、いまの火葬場のようなきれいな施設ではなく、野天に穴を掘っただけのところで、そこに木を組んで遺骸を焼いていたんだね。きみたちは知っているかな、いまでも、もみの木台のもうひとつむこうは深い谷になっていて、早野のお墓です。ちょっと気持ち悪いね。

そのころ、死んだ人を葬るのは土葬がふつうでしたけれど、特別に身分の高い人とか、戦さで死んだ人とか、はやり病い――ペストとか赤痢とか、ほかの人に感染する病気で死んだ人は、火で焼いて葬っていました。中でも、ペストは「黒死病」とも呼ばれ、からだじゅうまっ黒になって死ぬので、たいへん恐れられていたと伝えられています。

このあたりに弥兵衛さんという人がいました。みんなのおじいちゃんのおじいちゃん、そのまたおじいちゃんのころです。弥兵衛さんは馬を育てる名人で、そのころも「石川の牧」で仕事をしていました。きれいなお嫁さんをもらったあと、苦労して森を切り開き、新しく家を建てました。いまのもみの木台のあたりです。

弥兵衛さんには十二になったばかりの一人娘、彌生(やよい)という子がいました。これは、その彌生さんのおはなしです。

        †

むかしのことで、このへんはまだ、古い木々が暗いほど生い茂る深い森になっていて、その下にはびっしりとすすきが生えているようなところでした。いまみたいに、大きな道路もできていなければ、街灯もありません。交番もなかったし、団地もまだ建っていなかったし、コンビニやデパートなんてもちろんありません。「嶮山」(――けわしい山)という名前が残っているように、あまり人の近寄らないけわしい山になっていて、夜になるとまっ暗でした。電気がやっと町まで来たばかりで、弥兵衛さんの家の中の灯りはまだランプでした。水道もガスも、もちろんまだです。

彌生さんは、可愛いだけでなく、とても賢くてお勉強が好きな頑張りやさんでした。十二歳になるとすぐ、身分の高いところのお嬢さんのたしなみで、お琴やお習字のお勉強に通うようになりました。「通う」といっても、お師匠さんのところはいまの綱島の近くにあり、小さな女の子の足では2時間くらいかかりました。夕方6時ごろまでいろいろなお勉強をして、家に帰りつくのはいつも9時近くなってしまいました。むかしのことだから、バスも電車もありませんでしたし、いまみたいにお母さんが車で送り迎えしてくれることなんてありませんでしたからね。人力車や馬車はありましたが、こんな山の中の道を走ってはくれませんでした。

おスズちゃんというお友だちがいて、いつもなら、乳母のお伴もつけず、ふたりで楽しくおしゃべりしながら、じき近くまでいっしょに帰るのですが、その日は高い熱を出したとかでおスズちゃんはお休みで、彌生さん独りで帰らなければなりませんでした。長い時間お稽古をしたし、長い時間歩いたので、とても疲れていました。黒い森のほうから、ホー、ホーとブッポウソウが鳴いています。何かわからない黒いかたまりがサッと前を横切っていくこともありました。

で、さっき云った、むかし火屋(ほや)だったあたりまで来たとき、小さな女の子の声を耳にしました。

「彌生ちゃん、ね、教えて、お姉ちゃんのお誕生日はいつ?」

それは、まるでほら穴から聞こえてくるような、くぐもった声です。

 「ね、いいでしょ、彌生ちゃんのお誕生日を教えて?」

とても澄んだ小さな声だけれど、意外なほどはっきりと聞こえました。彌生さんは、最初、へんだな、そら耳かしら、と思って、そのまま先に、そォーっと、そォーっと五、六十メートル歩きました。するとまた、あの同じ声が呼びかけます。「お誕生日を教えて?」……気味わるくなって、彌生さんはそれには返事をしないで、とっとと足を速めました。それでも、着ているのは着物ですから、裾がからまってそんなに速くは歩けません。気ばかりあせります。あの声はぴったりとあとを追ってきます。――「ね、いいでしょ、お誕生日を教えて」「お姉ちゃんのお誕生日はいつ?」

 彌生さんは返事もせず、振り向きもしませんでした。どうしてかというと、赤い目の「うさぎババア」のことを以前におスズちゃんから聞いたことがあるからでした。目と目が会ったら、どこまでも、どこまでもついてくるという「うさぎババア」。

 トット、トットと足を速め、転げこむようにして家の玄関に飛び込み、うしろ手にピシャッと戸を閉めると、カギをかけました。お母さんから「どうしたの、そんな蒼い顔をして…」といわれたけれど、彌生さんは、あの気持ちの悪い声のことはお母さんには話しませんでした。自分の思い違いだったかもしれないし、口にだして云ったら、もっと怖いことが起こりそうな気がしたからです。

 軽くごはんを食べ、自分のお部屋に行って、また一生懸命にお稽古のおさらいをしました。そうしているあいだは、ふしぎなあの声のことはすっかり忘れていました。

午前0時をすぎました。彌生さんはあしたのお稽古の用意を整え、さあ寝ようとしたとき、ふと、あのかわいい、でもなんだか気持ちの悪い声を思い出しました。――「彌生ちゃん、教えて、ね、いいでしょ、お誕生日はいつだったかしら?」

 彌生さんは、そのとき、ちょっとからかうような気分で、

「いいわ、教えてあげる。わたしのお誕生日は830日よ」

 そう云ったとたん、天井でドドーン!              と雷のような音がして、まっ黒な手がいくつもいくつも垂れ下がってきました。にゅ〜〜っ             と出てきてブラン、ブラーン…としています。 

小さい子どもの手もあります。鎧(よろい)武者の篭手(こて)を巻いた大きな手もあります。あら、馬の足も…。どれもみんな墨に濡れたようにまっ黒でした。

          †

さあ、どうしたんだろうねえ。

 彌生さんのほんとうのお誕生日は330日でした。でも、12歳で死んだこの彌生さんの命日は830日。あのまっ黒の手を見た次の日、そう、きょうでした。

 だからね、みんなも、めったなことでは知らない人に自分の誕生日を教えたりしないほうがいいね。なにかお祝いをもらえるかと思って、云ってしまう子はいないかな。ましてや、うそをおしえたりしたら、どうなるか、がんちゃんは知らないよ。