作品2

  ブラックジョーク集
第一話『タバコ飲みの効用』
第二話『狂気の価値』
第三話『複合民族国家』
第四話『あなたは、だあれ?』
第五話『オラは、死んじまったダ』
第六話The third eye
第七話『母親は魔女?』
第八話『幼女はなぜ出てきたのか?』




ブラックジョーク集
第一話『タバコ飲みの効用』


こんなことを書くと、嫌煙権運動とやらの団体が大挙して押しかけ、拡声器で怒鳴られそうだが、一種のブラック・ジョークということでお許しを。


以前、『パイプの煙』というエッセーがあったが、現在でも続いているのだろうか?
「同じ物書きでもタバコを吸わないやつの書いた物は、およそ奥行きがない」と、冒頭にあったのを記憶している。もちろんこの作家は正真正銘のヘビースモーカーだ。

わたしも、この作家に習ったわけではないが、何かを書くときにはタバコを吸うことにしている。いや、書いていないときでも吸っているから、書くことが理由にはならないのは当たり前だ。

吸わなければ吸わないでなんとかなるが、タバコがないとなると無性に吸いたくなる。
“タバコ飲みの卑しさ”と飲まないものは思い、“この味わいを知らずして何が人生か、気の毒に”とタバコを口にして心豊かなわたしは思う。
フロイト流には、タバコは乳首の代替え品らしい。ホントかなと思うが、タバコ飲みは大抵が乳首も好きなのであながち間違いではなさそうだ。だから取り立てて否定はしない。

何年か前、喀痰に赤いものが混ざった。一大事である。さてはタバコの吸いすぎか、と急いで近所の医者に走った。検査をすることになり、結果は一週間待たされた。
1週間後の当日、「うん、3のbですね」とデータを手に医者が言う。
この先生、水虫が痒くて仕方のない時に「おーおー、元気に動いている」と、顕微鏡を覗きながらつぶやいた人だ。目は悪くはなさそうだ。
「で、先生、何て書いてあるんですか?」
ちょっと肩をすくめると「うん、異形細胞が出ている」とわたしの顔を見た。
「そりゃあ、肺ガン・・・ですね」と、わたし。
「まぁ、そうとも言うね」と、医者が笑ったのでわたしも一緒に笑った。

以来、10年近く経つが、わたしは相変わらずタバコを吸っている。
ガン? そんなもの、なんの兆候もない。
えっ、不思議だって・・・うん、多分このような仕組みになっていると思われる。

ガン細胞は、活発に動作している細胞ほど進展が早い。これはご存じだろう。だが、一方タバコ飲みの肺細胞はいつも“煙に巻かれ”、従ってガン細胞は満足な仕事をしていない。
ようするに、ここはどこ? わたしはだあれ? 状態なのだ。
さらには、精神的ストレスがほとんどない。胃がキリキリ痛む、心臓が・・・というリスクが皆無なのだ。
これでは、人の弱みに付け込むガン細胞でも動きが取れない。結果、ガンが進行しないことになる。

だから、わたしは声を大にして言いたいのだ。
肺ガンの主原因としていたこれまでの学説は間違いである・・・と。
肺ガンにはタバコが良く効くのだ。



ジョークですってば、ジョーク。
たばこの吸いすぎには、皆さん気を付けましょう!
もどる
第二話『狂気の価値』


という本を『西丸四方』氏が随分と前に書いている。
盲腸にも必然があり、風邪を引くのも何かの必然だとすれば、当然、狂気にも必然があってしかるべきだ。というような内容ではなかったが、多分似たようなものだろう。西丸さん、ごめんなさい、すでに記憶にありません。

昼下がりの閉鎖病棟は、きょうも賑やかだ。
ブツブツと独語(ドイツ語ではない。独り言)を唱える者、ウロウロとホールを歩き回り「邪魔だっ」と突き飛ばされる者、ガッハッハと大声で笑う者、意味もなくシクシクと泣く者、「食事をまだ食べていません」と看護婦にすがり「夕食はまだなのよ」とやさしく諭されている者、「タバコ頂戴」とナースステーションに手を差し出し「1時間に1本。5分前に吸ったばかりでしょ!」と怒られる者。

「おーい、トランプやろう」と呼ばれ仲間に加わる。
鬱患者が、ギロリと光る目でわたしを睨む。緊張型の精神分裂患者がニコリともせず、カードを配る。
「お茶っ」だれかがコップを脇に乱暴に置いた。バンッ! と後頭部が鳴る。
「お茶でしょ」怒りに燃えた瞳だ。
「あっ、ありがとね」後頭部を叩いてくれた礼を述べると、ハンチントン舞踏病の彼女は手を振り回しながら嬉しそうに離れていった。

パンツ一枚の男性精神分裂患者がホールを闊歩している。衣服を抱えた看護婦がその後ろを追いかける。
「どうしたの?」
「どうしても服を着てくれないのよ、困ってるの」と看護婦。
わたしは、彼に尋ねた。「どうして服を着ないのですか?」
彼は答える。「わたしは、風邪を引かなくてはいけないんです」
分裂病の患者は、時として妙な使命感を持つ。彼も何かの指示を与えられたのだろう。
「そうですか、でもあなたは希にみる特異体質なのです。あなたの場合は服を着なければ風邪を引きませんね」
「やっ、ホントですか!」たちまち、看護婦の手から服が消えた。

「腕相撲しようよ」鬱の患者が手を伸ばした。
テーブルの上を片づけて相手をする。なかなかに強い、互角だ。
んん・・・ちょっと待てよ、「手を見せてくれ!」わたしは急いで患者の腕を取った。
やはりそうだ。手首を横断する赤いリストカットの跡。しかも綺麗に治っている。
わずか4日ほどで・・・どうして治るのだ? しかも、縫わなかった傷だぞ?

そういえば、元気に徘徊しているあの精神分裂の彼もそうだ。レントゲンで見れば胃も腸もとうに機能していない。癌が進みすぎているのだ。でも、なぜ生きているのだろう? 食べ物をどうやって消化しているのだ?

昼下がりの精神病棟をさわやかな風が吹き抜ける。
ここには、"不思議"が普通の顔をして歩いている。
狂気の価値が、一人歩きをしているのだ。


某所、某精神病院、閉鎖病棟にて・・・

もどる
第三話『複合民族国家』


遙か昔、若かりしころの思い出話をひとつ。


併走する車の窓からマシンガンの銃口がこちらを向いた。
追い越しをしたパトカーは路肩に止まり、仕方なくその後ろに止めた。
小柄なポリスがマシンガンを手に近づく。
わたしはハンドルに頬杖を付いた。
「どこから来た?」訛りの強い耳障りな口調だ。
頬杖のまま、わたしは無言で後ろを指さす。
「ふん、・・・ならどこへ行く?」
フロント・ウィンドウ越しに、今度は前方を指した。
「あっちから来てこっちへ行くってのか?」トーンが跳ね上がり、マシンガンが左右に振られた。
「そうさ」低い声で応じた。

まあいいだろう、という顔がフロントのボンネットを開けるように命じた。
わたしは車を降りるとボンネットを開ける。リアエンジンのワーゲンだ、フロントにはスペアタイヤと燃料タンクしかない。
ポリスはろくに見ないで、銃口をヘッドライトに移した。ライトを点けろと言いたいのだ。その次はブレーキ、その次はワイパー、どこかに不具合を見つけて難癖をつけたいポリスの魂胆など見え見えだ。
しわくちゃな札を、マシンガンと手の間に差し込んだ。
「なんだこれは?」ポリスが凄む。
「飯でも食べたら、おごるよ」
ポリスの顔が急に崩れた。「そうかっ、すまんな、じゃ気を付けて行ってくれ」

連邦制をとるこの国では、州の自治権が絶対だ。学校や公的機関の休日ですら州毎に異なる。当然のことに、州境は軍隊が厳重に警護し武器の持ち出しや禁輸製品の有無に目を光らせる。
と、表向きそうなってはいるが、実は“ゲリラ”の移動防止が最大の目的なのだ。
警察が重装甲車を持ち、パトカー乗務員がマシンガンを携行するのもそれが理由だ。

峠を登りきった州境の検問所では、いつものように二人組が立っていた。いずれもライフルを携え、必ずどちらかの銃口がこちらを向く。ジャングルの奥の木の茂みにはトーチカが作られ、重機関銃の銃口が不気味に光る。
軽く室内を覗き込み、顔を確認すると「行けっ」と銃が振られた。
“今度だけは、さっきのパトカーのようにはいかないぞ”と覚悟していただけに、拍子抜けがする。多分、ゲリラの活動が沈静化していることと大きく関係があるのだろう。

そう、問題はすべてゲリラなのだ。
以前、勤務先の同僚から「なあ、ゲリラに入ろうかと思うんだが、どうだろう?」
と相談を受けた。わたしには皆目意味が分からない。
「どうだろうとは、どういうことだ? オレはゲリラの内情が良く分からないのだ」
同僚は肩をすくめた。「簡単なことさ、あっちのが今よりも給料がいい」
まだ、わたしには理解が出来ない。
「ちょっと待て、じゃ共産ゲリラってのはなんだ? 政府に敵対する組織だろ?」
同僚はわたしのポケットから勝手にタバコを取り、一本抜いた。
「うん、そういうゲリラもある。だがそうじゃないのもあるのさ」
北の方から流れてきた共産ゲリラは確かにいるが、それとは別にゲリラを職業とする連中もかなりいると同僚は説明した。
「だがな、ゲリラなら当然ジャングルポリスと撃ち合いになる。命が掛かるだろうに?」
わたしの質問を、女房も子供もいる同僚は笑いながら大きく手で払った。
「ないない、それは絶対にないっ。弾はな、両方とも空に向かって飛ぶんだよ」

異民族と異宗教の集合体、“複合民族国家”とはやっかいなものだ。決して一筋縄ではいかない。
民族間の確執や宗教を越えた“恐怖”だけが、人々をひとつにまとめ上げる。
ゲリラという名の人を驚かす“お化け”も、混沌とした世相の産物なのだろう。


同じ複合民族国家のどこぞの大国が、どこぞの国を爆撃するとかで、フト昔のことを思い出してしまった。

相も変わらぬ、“お化け”退治の図式が描かれているようだ・・・。

もどる


第四話『あなたは、だあれ?』


わたしの中の、もう一人のわたし。あなたの中の、もう一人のあなた。これは、そのようなわけの分からないお話なのです、はい。


夜、ナポレオンを飲んでいた。わたしは普段はアルコールを嗜まないが、時と場合、相手によっては羽目を外すこともあるのだ。

お相手は三十半ばの美貌の未亡人。さらに、子供が二人いるとは思えない若々しい身体、形良く突き出た薄手のウールのセーター、膝小僧が悩ましげなチェックのタイトスカート、とこれだけでも完全にノックアウトものだ。わたしは男でもタイトスカートを穿かれたら惚れちゃうくらい、タイトスカートには弱い。

おまけに話し上手で、ウィットに富んだ話が縦横に飛び交う、ときたら心楽しくないはずがなかろう。“まあ飲みねぇ、寿司喰いねぇ”のドンチャン騒ぎが続いていた。

「ちょっとトイレに行って来ますね」と軽く会釈をしながら彼女が立った。
しばらくして戻ってきたが、どうにもおかしい、妙だ。
姿服装は彼女だが、彼女であって彼女ではない・・・ような気がする。意味が分からないだろうが、そう、それほどに奇妙なのだ。簡単にいえば、中身だけが違う、そんな感じだ。

それを裏付けるようなことが起き始めた。
話が噛み合わない。面白くも何ともない。「わたし、わかんない」を連発する。突如としてIQが30ぐらい低下したようだ。美しさも影を潜め、貧相な容貌となった。

《これはおかしい、まったくおかしい、早急に確認せねばなるまい》と決心した。
同時に、「あなた、だあれ?」と口が言葉を発していた。「ボクは、あなたと話をしたくないんだがなぁ」勝手にベラベラとしゃべった。

「あらぁ、わたしじゃダメですかぁ?」舌足らずの口調で言うと、眉がキュッと狭まった。
な、なんだってんだぁ? お化け? 人格変換? 二重人格? ジキルとハイド?! オレは、一体何を目にしているのだ? 

「わたしなら、よろしいでしょうか?」歯切れの良さと輝く笑顔。
知性と美貌とその他諸々のすべてが、そこにあった。
しかし、これは、現実のことなのかぁ? 混乱するわたしを、優しい瞳が見つめる。

「ん・・・・ねぇ、もう一度やって、お願い!」
わたしもバカだ、とことんバカだ。なによりも目前の興味が最優先した。
「でも、これ結構に疲れるのですよ。それに人前でやるのは初めてなのです」
また美しい眉をしかめると眉間にしわを寄せた。
ブルンと顔全体が小さく振動し、瞬間的に人相が変化した。
・・・そこにいるのはIQの低い方の彼女だ。
《よ〜し、絶対に同じ人間ではないぞ》わたしはまじまじと眺め、確信した。
また顔が揺れ、元に戻った。
「ふうーっ、疲れたわ」と笑顔が言った。
余程、わたしの驚いた顔が可笑しかったのだろう、アッハッハと声に出して笑った。

「ねぇ、切り替えスイッチがどこにあるのか、当ててみませんか?」
今度は、いたずらっ子の目だ。こっちの力量を試している。
チックショウメ、わたしは全知全能もてる限りのフルパワーを出した。

《さっきは瞬時に切り替わった・・・同時に、左右の顔の配置が微妙にずれた。ということは、左右の大脳を切り替えたわけだな。脳の神経は交差しているから左脳が顔の右、右脳が左半分を司るが、それ以前に大脳の切り替えを自分の意志で出来るものなのだろうか? 脳にだってNFB制御が効いているぞ、それを逸脱した行動は不可能のはずだが・・・まてよ》と考え直した。
《・・・あったぞ! あった!》

NFB【Negative Feed Back】は自動制御の要、通常は安定を目的とするが同時に暴走をも食い止める。だが脳神経にも例外がたったひとつだけある。気分の高揚や情動を司る“A10神経”だ。こいつにはNFB回路がない。しかも前頭葉を貫いている。
そう言えば、前頭葉への電気ショック、ロボトミー手術は感情を鈍らせるものだった。

「なるほどね、分かったよ、前頭葉・・・つまり、この額のど真ん中だ」
指を差した。
「すごい、すっごーいっ!」


お断りしておくが、このあとご期待通りの艶めく展開には、残念ながらならなかった。
それどころか、女性の怖さを骨の髄まで知る体験が後に待っていようとは・・・。

      そんなわけで・・・To be continued.

             Coming soon!


 


もどる

第五話『オラは、死んじまったダ』
  ・・・〈あなたは、だあれPart2〉

お待たせしました。
ひとつの身体に二つの人格を持つ美貌の未亡人の続きです。
どなたも期待してはいないでしょうが、まあ何かの参考にとお読みいただければ幸いです。もっとも、これが参考になる状況はかなりに“やばい”状況なので、本当は参考にもならないことを祈るばかりです。



そろそろ真夜中の2時近くにもなろうとしていた。楽しい時は瞬く間に過ぎる。
ナポレオンはすでに空っぽ。他にも、オンザロック用のウィスキーが幾らも残らず、テーブルの上には缶ビールの空き缶数本と日本酒の五合瓶が一本転がっていた。もっともわたしはビールも日本酒も飲まない。飲んだのは彼女だ。
だが、これほど飲み干しながらも、わたしはもとより彼女もまったく酔ってはいない。

彼女はといえば、飲み始めてから数回トイレに立つ以外は終始イスに座り、両手を膝に置いている。絶対に足を組んだりもせずお行儀が良すぎる。多少のチラリズムは大歓迎なのだが、残念ながら崩れる気配すらない。

一方、話はといえば、亡くなったご主人との最初の性交渉から始まり、微に入り細に入り過ぎて、思わず赤面するほどだ。内容を知りたい向きもあるだろうが残念ながら割愛する。あしからず。

問題は、話の内容と態度の食い違いなのだが、その極端なアンバランスが異変の前兆だったと気付いたのは、実は事件のずっと後のことだった。

姿勢も乱さず端整な顔立ちそのままで、いきなりわたしを罵倒し始めた。
しかも徹底的に無茶苦茶を並べ立てる。論理もへったくれもない。“おまえなんて大っきらいだ”という意味合いを丁寧な言葉のまま吐く。これでもかと叩きつける。
なぜなのだ? なぜオレは怒られなくちゃいかんのだ? 
人格変換を目の前で見せられたとき以上の混乱だ。まるで訳が分からない。

“おまえなんて、生きる価値がない”とまで言う。ホントかな、そんなに生きる価値がないのかな、と自分でも悩み始めた。それが30分以上休み無く続く。
怒られながらも奇妙なことに気付いた。彼女は席を立たないのだ。そこまでイヤなら席を蹴って帰ればいいのだが、立とうともしない。
やがて、罵倒する彼女の左目からは大粒の涙が流れ始めた。
左半分の顔は泣き、右半分の顔は猛烈に怒っていた。

突然、停電した。
電気ブレーカーが落ちたのか、と腰を浮かしかけて途中でやめた。静かすぎる。暗いだけではなく、音も全く聞こえない。普通なら生活音は必ずある。それだけではない、身体も静かすぎる、振動がないのだ。
まさか・・・と脈を取った。
・・・打っていない。心臓が停止している!

冗談じゃないぜ! 
119番、と一瞬閃いたが、間に合わないと即座に諦めた。
4分なのだ。脳への血流停止のリミットは4分。心臓停止後4分以内に蘇生させなければ脳は死ぬ。例え生き返っても植物人間、最悪“脳死”だ。

何分経った? 時計を見ようとして目が見えないことに気付いた。目も耳もすでに機能停止。漆黒の闇と、完全なる静寂。
“意識”は、この意識はあとどのくらい保つ? 手や足はいつまで動く? 
そんなこと知るか! 神のみぞ知ることだ。くそったれ、どうしてくれようか!
血の流れていない頭脳がフル回転する・・・が、策があるはずもない。

30秒ほどが経過。とにかく、もう待ったなしだ。
“電気ショック”も考えたが、装置を作っている間がない。“心臓マッサージ”が通常の方法だが、自分で自分には無理だ。それに手足がいつまで意志に従うのかは分からない。
だが、いまならまだ手は動く。

わたしは一発勝負に賭けた。“叩打法”というものだ。
たった一発、心臓をどやす。停止直後の健康な心臓なら、それで動く。暖まったオートバイのエンジンをキックでリスタートさせるのが容易なのと同じ理屈だ。これは早ければ早いほどいい。
右手の拳を強く握りしめ頭上に振り上げた。左手で落下位置を確認する。
“失敗したら、さよならだな”子供たちの顔が脳裏をかすめる。
あばら骨がブチ折れる勢いで叩きつけた。

動いた! 
弱いが確かに鼓動がある。光が戻った。ウィスキーの瓶を掴むや一気に飲み干した。多少はカンフル剤になる。そのまま床に大の字に寝ころんだ。
心臓が強烈に痛む。
胸に手を当てたわたしは、ジッと見下ろす冷たい目に出合った。顔は、もうひとりのIQの低い方の彼女だ。

それで意味が分かった。わたしを罠に嵌めたのはこっちだ。
簡単だ、女の“嫉妬”なのだ。もう一人の彼女が、わたしと美貌の彼女に“嫉妬”した。「あなたとは話したくない」との一言が、もう一人に殺意を抱かせたのだ。
表面に出ている美貌の彼女を操り、言動はすべて彼女本人なのだとわたしに錯覚を抱かせた。巧妙なる罠だったのだ。
どのようにして心臓停止に至らしめたのかは不明だが、心臓停止直前に見たあの左目の涙は、それに抗えない自分を悔いての美貌の彼女の涙だった。

美貌の彼女とは“右脳”の具現、もう一人の、わたしを殺そうとした性悪の彼女は“左脳”の方だ。
この推測が、決して間違いではないと悟ったのは、後日、さらに新たな人格変換に出会ったときなのだが、これはこれでまたすさまじいものだった。


従って、この話はさらに続く・・・のだが・・・この辺りで To be not continued としよう。


いやいや、お疲れ様でした。
あなたの心臓は、なにごともなく動いていますか?
なによりも、美人にはご用心・・・ご用心。


もどる

第六話The third eye


第三の眼、というものをご存じだろうか?
ヒンズー教徒の女性の、眉間の赤マークがさしずめ擬似的な第三の眼だ。
なにより、あの部位は白く光る。ランプのような明るさはないが、一種神々しい淡い輝きを発する。出合った者は、その畏怖の念に恐れおののく、かどうかは定かではない。

さておき、これから話すわたしの場合は正確には第三の眼とはちょっと異なる。ことによると幽体離脱とかいうものかも知れないが、眉間中央ではなく、自分の後方1m、さらに背丈より1m上空に“眼”があった。
あった・・・というのは、今は消えているからだが、いつかヨーガを学ぶものにこの話をしたとき、「それ以降は出ていないんですね、惜しいことをしました。そのまま続けていれば、多分、宇宙に出ましたよ」と真顔で言われた。
わたしは、宇宙飛行士になり損ねたのかも知れない。

二十代後半、東南アジアの大学で教師をしていたころのことだ。
だれかに見張られている、覗かれている、つきまとわられている、という落ち着かない奇妙な気持ちが二週間ほど続いた。振り返るが、誰もいない。
当時は、イスラムの部落に住んでいた関係上、宗教警察に付け狙われているのかとも疑った。異教徒は、ことさらわたしのように広範囲に活動するものは、必ずブラックリストに載ったからだ。宗教の規範を知らないが故だが、部落の女の子と出歩き、気配に振り返るとそこにはパトカーがいた。情報は網の目のように流れ、どこにでも民間の格好をした宗教警察の目が光っていた。

しかし、宗教警察ではなく、だれかに見張られていたわけでもなく、覗いていたのが自分自身だったと分かったときはちょっとした驚きだった。
とはいえ、自分の後頭部を見る、というチャンスなどそうそうはあるものではない。驚きを通り越して、奇妙な体験をむしろ楽しんだ。自前の二つの目はしっかりと前方を見ていたので、都合3つの目で周囲を眺める。まさに“三つ目が通る”を地でやってしまったわけだ。

第三種接近遭遇ともいえるその最初の現象はほどなく消えたが、それ以後も突如前触れもなく出現した。多いときには日に数度。ただし、長くても1分程度で、しかも出したいときに現れないという不自由さがあった。
授業中にも幾度となく現れ、人の後ろでコソコソしている学生たちが丸見えとなった。
「こらぁ、ユソフ、なにをやってる!」よもや見えないだろうと高をくくっていた学生は怒鳴り声に飛び上がった。
この重宝この上ない視覚(超常?)現象は1年と経たずに消失した。

だが、その後、見えないものが見える、いや“分かる”という不思議な現象が始まった。
恐らく、ここからが本来の“第三の眼”のいわれなのだろう。
たとえば・・・、自動車を運転していて、信号機のない十字路に差しかかる。突然右足が急ブレーキを踏む。周囲にはなんの危険もない。なぜブレーキを踏むのだ、と足をにらみつける。途端、トラックが猛スピードで横切る、と言うようなお話。

でもま、丁度お時間が来たようなので、これらについてはまたの機会ということで・・・。
でもダメですよ、こんな与太話をまじめに信じちゃ。

もどる

第七話『母親は魔女?』

母親とは、すべからく“魔女”だと、わたしは思っている。


「いやぁ、なんとも早熟な赤ちゃんだ」
元気に産声を上げる赤ん坊を抱き上げた産科医は、「ほら、もう首が据わっているよ」と分娩台の母親に見せた。
「違うっ!」母親は即座に否定した。「この子は重度の脳性麻痺児です。生きて1年、生きながらえても養護施設です!」

分娩時、へその緒が幾重にも首に巻き付き、脳への血流が阻害された。酸素不足によりかなりの数の脳細胞が死滅、それに繋がる神経系が機能を停止、それゆえの硬直がすでに首に現れていた。いずれは手足、体幹にも硬直は波及する。知能もゼロ歳児よりは進まず、身体の成長も鈍る。生きて1年、生きながらえても生涯寝たきりだろう。
わずかな兆候からその異常をキャッチし、このように判断したこの母親は、実は心身の障害児を専門とする日本では数少ない『作業療法士』“Occupational therapist”の一人だったのだ。似たような症状を何百何千人と見てきた結果だった。

分娩台から産褥のベッドに移るや、リハビリテーションを開始。
神経系の修復は早ければ早いいほどよいが、もっとも、このときの手技は、正確にはリハビリテーション“rehabilitation”とは呼べない。
それまで普通に機能していた身体が何かの障害で機能しなくなる、それを回復させるセラピー“療法”がリハビリテーションなのだが、まだ機能する身体を持たない赤ん坊にそれは適切ではない、と『療法士』の視点からの判断があった。
損傷した脳細胞とそれに接続されている神経系は潔く切り捨てる。
残された脳細胞にすべてを委ね、まったく新たな神経系を再構築するしかない。
母親はそう決心した。

この、新しく一人の人間を造り上げるに等しい作業こそが、ハビリテーション“habilitation”と称するものなのだが、理屈はどうであれ、この母親はもとより過去にこのような手技を施した者はいなかった。記録や文献もどこにもない。
誰の手も得られず借りられず、未知で孤独な母親の全知全能を賭けた作業が始まった。なにより失敗は許されない。失敗は、・・・死を意味していた。
母親のすべてが、この時点に凝縮された。

一週間が過ぎ、一ヶ月、二ヶ月と過ぎた・・・が変化の兆しは見えなかった。
ありとあらゆる方法を必死で試みる母親は、不眠不休。
試行錯誤の三ヶ月が経過したが・・・首の硬直は以前のままだった。
母乳はよく飲み、身体は一回り大きくなり、周囲にはなんら問題児とは見えなかったが、どんなに熟睡していても横に寝かせると重力の変化から目を覚ました。縦に垂直に寝かさなければならず、様々な工夫が凝らされた。リング状の布団を幾つも造り、それを積み重ねその中に赤ん坊を入れた。
鼻で呼吸が出来ず、常に口呼吸だった。母乳をガブガブと飲み、深海から浮き上がったような深呼吸を繰り返し、また母乳を飲んだ。大小便の排出も自力ではできず、その都度、外部から“こより浣腸”等なんらかの刺激を必要とした。生存のための臓器の神経すら、上手く機能していなかった。

三ヶ月目がまもなく終わろうとするある日、とてつもない悲鳴が母親の口をついた。
乳児の首が、初めてグラリと動いたのだ。神経系が繋がり、硬直が融けた瞬間だった。
我が子を抱きしめ、頬ずりする母親は恥も外聞もない大声で泣いた。乳児も、訳も分からずに一緒に泣いた。
新たな神経系の繋がりは、この乳児にとっては二度目の誕生となった。

・・・だが、それから、
母体ならぬ、厳しい環境の世界で、幼児は運動機能を獲得しなければならなかった。
寝返りが打てず、ハイハイが出来ず、口からは物を食べられなかった。
左右の手を前で組み合わす事が出来ず、座れば転び、立ち上がれば転倒した。身体が幼児の自由にならず、常に、全身は血だらけとなった。極度のチックが頻繁に襲い、重いアトピー性皮膚炎が四六時中幼児を苦しめた。夜間、かゆみで全身をかきむしるため、翌朝のシーツは血で赤く染まった。
端から見ればこれらすべてが大事件なのだが、神経系の繋がりを成し遂げた母親には、いずれも枝葉末節の些細な事柄にすぎなかった。すべては時と共に収まる、母親はそう確信していた。母は強し。

・・・さらにそれから、
10歳にて、長時間の直立が可能になったが、初めて学校の朝礼に出た途端、グランドに横になった。「ボクは寝ていたいんだ」というのが本人の言い分だった。
また、極度の学習障害があり、常に校内を徘徊した。授業はまったく受けなかった。

・・・中学校に入り、
いくらか行動に落ち着きが生まれ、それまでの遅れを一挙に取り戻し始めた。学習・運動能力共に他の子供たちと初めて同じスタートラインに立った。

・・・高校に入り、
コンピューター制御のロボットにのめり込んだ。十二指腸に穴が開くまでのエネルギーを注ぎ込み、三年次には関東大会を制覇し、全国にもその名を轟かした。
その流れから、ごく自然にコンピューター・プログラマーになった。

・・・いまは、
四輪に乗り、オートバイを転がし、コンピューターを操作する、ごく普通の青年になった。身長は180p近く、体重も80sほどに成長した。
もはや脳性麻痺児の面影などどこにもなく、すべてが忘却の彼方に消えつつある。

だがしかし、この母親は目論み通り、一人のタックスペイヤーを誕生させた。
すべての母親が、同じ状況に置かれたら同じ事をするとは限らないが、それでも母親とは、すべからく“魔女”なんだ、とわたしはこれらの出来事を振り返りつくづくと思う。

もどる

第八話『幼女はなぜ出てきたのか?』


以前、二つの人格の話をしたが、これはその番外編とも言えるものだ。
ただ、最初にお断りしておくが、この話は長い。
実際に1ヶ月半掛かっている事柄を、幾ら話とはいえ端折れるものでもない。
とはいえハッピーエンドで終着しており、“怖さ”もないので、どうかそれだけはご安心を。
まあ、SF中編小説でも眺めている気分で読まれることをお勧めする。

とは言っても、これで収拾がつくのかと幾度も思われるだろうが、どうであれ決着をつけねばならないのがこれまでのわたしの人生。それでなくとも、これを途中で投げ出すわけにはいかなかった。


『コンバンワ』いきなり稚拙な幼児語が飛び出した。
「えっ、あらあ、・・・日本語が下手だねぇ」
突然の場面展開にそうそう追随出来るものではない。
『ダッテシャ・・・ケチナンダモン』久美子がモジモジと下を向いた。
「ケチ・・・? あっそうか、もう一人が言葉を教えてくれないんだね」
『ウン、ショウナノ』2〜3歳の口調だが久美子の実年齢は25歳だ。

夕食を済ませ雑談の最中に突然この幼女が出現した。
第三種接近遭遇ともいえる出会いだが、それにしても、さてどうしたものか・・・。
方法は分かってはいるが、一人でやるのは難儀だ。それに一つ間違えると精神病院行きになる。だが、医者には渡せない。行ったら最後の片道切符を貰った患者は精神病院には大勢いる。西洋医学の限界を超える事例などこの世に山ほど存在するのだ。
やむを得ない、この状況をひとりでなんとか修正するしかあるまい! 

覚悟を決めると右目に話しかけた。右目は左脳に直結されている。
「さあ、出ておいで」
ヒュンと音がする速さで切り替わる。幼女のにこやかさは一瞬にして消えた。
『なによっ、何か文句があるっての!』
瞬時を待たない出現だが、初手から激しい喧嘩口調だ。目がギラギラと光る。
「いや、文句じゃないんだが、なぜ言葉を教えて上げないのかな、と思ってさ」
『ふん、やなこった』プイと横を向いたまま固まった。話の接ぎ穂がない。

いいさ、短時間で処理できる事柄とはわけが違う。それに考えたら、食事の後お茶も飲んでいない。ポットからお湯を注ぐと、湯飲みを久美子の前のテーブルに置いた。
「はい、お茶」
『そんなものいらない!』えらい剣幕で、押し返す。
「しょうがないなあ、じゃもう一人の久美ちゃんにあげようね」
今度は左目に呼びかける。
「さあ、久美ちゃん出ておいで」
今度の右脳への切り替わりは速い。
『ウフッ、オチャ、ウレチイ』
無邪気な笑顔にはこちらもつり込まれる。
「アッハハ、ねぇ、さっきは何処にいたの?」
純粋な興味だ。喧嘩っ早い久美子の出現時、この子はいったい何処にいたのだろう?
『ウーントネ』と天井の端を指さす。『アッチデミテタヨ』

今わたしがやろうとしていることは、幼い久美子を実年齢25歳の女性に造り上げることなのだ。だがこの幼女は、これまで世の中にほとんど出たことがない。世間を知らないどころか、25年の生涯で数日か、ことによると数時間も出ていないのかも知れないのだ。だが、この右脳の幼い久美子こそが真実の本人。久美子の身体の真の主人はこの幼女なのだ。

わたしはすでによく似たケースを何例も手がけた。この道のベテランと自負するつもりはさらさらないが、少なくとも幼い久美子はそれ見抜き、“わたしなら助けてくれる”と一縷の望みを託し姿を現した。
ここで左右の脳の統合に失敗すれば、幼女の久美子は一生出られない。久美子にすれば命が懸かっていた。

世間でよく話題になるものに多重人格障害のケースがある。だが、わたしはまだこのケースに出会ったことがない。霊的な障害を受けて、何かがとりついたという話もテレビなどでは賑やかだが、このケースの実例も知らない。
わたしが知る限りでは、10人が10人、右脳と左脳に別々の人格が宿る“二重人格”のケースしかない。
また、この“二重人格”であっても、症状は様々だ。それを目にした人によって様々に命名されることも充分にあり得る。だが、わたしはこの世の中に発生する精神に関わる障害は、そのほとんどが人間の持つ右脳と左脳の二つの脳が起因している、と考えている。

話を戻すが、幼女の久美子にとっては命懸けといった。一方、左脳のこれまでの人生を担ってきた久美子にとっても、同様に命懸けのことなのだ。
幼女の久美子には世に出るチャンスだが、他方の久美子にとってそれを許すのは、自分が消滅することを意味する。この攻防が一筋縄でいくはずもなかろう。
その状況をこれから描写するが、考えようによっては悲惨であり無惨であり、そして悲しみに溢れている。人生の縮図そのままなのだ。
しかも人によっては、霊的障害からの解脱過程と映り、あるいは単なるヒステリーと見えるかも知れない、だがどのように映ろうが、わたしのやることはたったひとつだ。


『ノ、ノメナイヨーッ』幼い久美子が悲鳴を上げた。
お茶を手で掴んだものの口元に届かないのだ。努力すればするほど湯飲みは口から離れ、ついに背中に回ってしまった。
火傷させないように、わたしは湯飲みを手から取り上げた。だれが妨害しているのかは分かり切っている。
「意地悪だねぇ、お茶ぐらい飲ませてくれてもいいのにねぇ」
『ウン・・・デモ、チカタナイ、ズットアノコガヤッテキタンダモン』
幼い久美子が首をすくめ小さく笑う。優しい物言いだ。心根の優しさが良く分かる。
「久美ちゃん、左手で湯飲みを掴んでごらん。今度は飲めるはずだよ」
ブルブルと手が振動する程度の妨害はあったが、飲むことが出来た。左脳がいくら妨害したくとも、左手には困難なのだ。

ギュンと首が捻れた。映画“エクソシスト”そのままだ。もっとも真後ろまでは回らない。
『イッタイヨーッ!』幼い久美子が泣き出した。『イッタイ、イタイ、イタイーッ!』
本当に痛そうだ。わたしは首を抱えて元に戻そうとしたが、並大抵の力ではない。
この状態をだれかが見たら、真実“悪魔付き”と思うだろう。
右目に怒鳴る。「久美ちゃん、やめなさい、出てきなさーい!」
一瞬の間が空き、『なぁによ、何か用?』とぼけた表情の久美子がいた。
「なぜそんな酷いことをするの。お茶を飲ませないだけならまだしも、首をねじったら自分だって痛いでしょ」
『だあってさ、わたしは痛くないもん』
「そう、自分が痛くなければ何をしてもいいって言うんだね。でもね、もう一人の久美ちゃんだって、君の分身なんだよ。その分身を虐めて何が楽しいの?」
久美子は例によってそっぽを向いている。
「いいかい、君はとても疲れている」
『疲れてなんかいないっ!』横を向いたままだ。
「いいや、疲れている。疲れているからここに来たんだよ。だから幼い久美ちゃんが出て来た」
久美子は無言。口をへの時に結び一言もしゃべらないぞ、という顔だ。
「電話口でオンオンと泣いたのを覚えているかな。仕事に疲れ、人生に疲れ、どうしようもなくなって君はここに来た。逃げてきたんだよね」
職場での軋轢、友人関係のトラブル、様々な重なりをどうにも処理しきれなくなって、久美子はここへ来た。“逃げた”とわたしに言われても返す言葉はない。
「もうこれから先は君では無理なんだよ。交替の時期が来たのさ」
ジッとわたしを睨んでいた久美子の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
『わ、わたし・・・消えたくないーっ!』

言葉が詰まる。だが、久美子も承知しているように、どちらかが消えなくてはならない。それに、だれかがその引導を渡さなければならないのだ。本来ならこれは坊主の仕事なのだ。
「消えるわけじゃないよ。君たちは二人で一人なんだ。これまで君のやってきたことはそのまま残るし、それに君は影で見守らなければならない。どうだろう、幼い久美ちゃんに言葉を渡してくれないかな」慎重に内容を選ぶ。
久美子はまだ激しく泣きじゃくっている。涙で濡れた顔がつと上がった。
『・・・時々は、出てもいい?』
今度はわたしの息が詰まった。それじゃ幽霊だろう、とは思ったが口には出さない。
「いいよ、ただしボクの前だけね。他の人だと腰を抜かすよ」
何度も何度も何度も・・・久美子はうなずいた。

『あの子が交替してくれるそうです』突如、明るい声音が湧きあがった。
「えっえっ、あの、赤ちゃん言葉の久美ちゃんなの?」
『そうです。言葉を貰いました』幼い久美子が、いきなり成熟した女性に変身した。
左脳の久美子が約束を守ったのだ。

これにて一件落着・・・と、思ったのだが、実はまだ入り口にも達していなかった。


ウトウトとまどろんでいた久美子が悲鳴と共に飛び起きる。
恐ろしい形相の“般若の顔”が襲いかかってくると訴える。なだめて布団に入れるが、十分もしないでまた飛び起きる。何度も何度もそれが繰り返された。
深夜をとうに回り、わたしも疲れてきた。長丁場は覚悟の上だが、このままでは久美子の身体が保たない。覚醒したばかりの久美子にこの仕打ちは酷だ。

わたしは、一度消えると誓った左脳の久美子を再度呼び出すのは忍びなかった。彼女にしても、真実吹っ切れない何かが残っているのだ。それが“般若の形相”となって夢に現れる。なだめてどうにかなる問題ではなく、左脳の彼女自身で決着しなければならないことだ。
とはいえ、このまま手をこまねいているわけにもいかない。やむを得ず“気”を使うことにした。

頭頂部から送り込む。ただ送り込むだけの“気”は、こちらの体力をかなり消耗する。
久美子の身体の周囲からは、白くもや状のものが登り始めた。それが何なのかはわたしには分からない。もともとが“気功”を正規に習ったわけではなく、以前、心臓停止事件があった直後から、自然と手のひらから“気”を発せられるようになっていた。
もちろん受けることもできる。“癌”の腫瘍部位から発する異常なる振動は、ビンビンとキャッチできる。だれかとすれ違うだけでも、“癌”を患っているかどうかが分かった。とはいえ、「あなたは癌ですか?」と聞くわけにはいかないが、しばらくして亡くなったと連絡を受けると、ああやはりな、と思った。

1時間も続けると、わたしの意識が朦朧としてきた。久美子の軽い寝息が、こちらの睡魔を誘う。
フッと脳裏に映像が浮かんだ。港だ。もやいのロープが四方に伸び、船を繋ぎ止めている。
50pほどの毛むくじゃらの丸い生き物が、20pほどの小さなものの手を引いている。その隣には40pほどの同様の生き物がやはり手を繋ぐ。親子かな、と思った。三匹は背を向けいずこかへ歩いている。
ああそうか、帰るのだな・・・と確信した。
フッと久美子が目を開けた。『いま、去りました』
「うん消えたね、ボクにも分かったよ」

左脳の制御が解けた久美子は、一時、人間の動きを失った。
全身を貫くけいれん状のチックがひっきりなしに襲った。歩行困難を伴い、チックの最中は何かに捕まらなければ立っていられなかった。そのたびに久美子が目をぱちくりさせ、本人には気の毒だが見ている者にはとても愛嬌があった。
右手、右足は意志に背いた。と言うよりもまったく意のままにならなかった。料理をするフライパンの中身はあらかた外へと飛び散った。米研ぎも、食べられる米は半分ほどしか残らなかった。台所は常に戦争状態で、何かが所かまわず飛び散っていた。
『大丈夫です、あと少ししたら慣れます』と久美子は笑顔で言ってはいたが、わたしには多少の不安があった。このまま収まらないはずはない、とは思うもののその確信はなかった。

右半身の神経系は、1週間ほどで久美子に接続された。
全身チックは多少は薄らいだものの極度の顔面チックだけは容易に消えなかった。顔面神経痛と思われるのが嫌だ、と久美子は大きなマスクを使用していた。
“統合”が完全に終了したのは、1ヶ月半の後のことだった。

それ以後、左脳の久美子は完全に消えた・・・わけではなく、折に触れひょこっと悪戯っぽい顔を出す。だが統合した久美子が意にも介さないので、わたしは黙っている。なんらかの二人だけの暗黙の了解があるのだろう。


しかし、人間とはつくづく“不可思議”な生き物だ、と思う。もっとも身近な存在でありながら、いまだ知られざる部分が多すぎる。
物語には、大部分のフィクションとごく一部の真実がある、と言われるが、わたしの身の回りには、理解しにくい大部分の真実とごくごく一部のフィクションがあるだけだ。

さらには、ここではブラックジョークに名を借りてはいるが、似たようなケースが世の中には多々あるはずだ。
多少なりとも参考になってくれれば・・・と祈る。
もどる