この節では、慰安婦問題の解決 ―― 日韓関係の和解や慰安婦問題を未来への教訓として記憶するためになすべきこと ―― について研究者の意見を紹介し、筆者の考えも紹介して最後のまとめとする。なお、否定派にはこのような視点での提言はない。おそらく、「嵐が去るのを待つ」のが彼らの方針で、韓国との和解もこの問題を将来に生かすという発想もないのだろう。
国家補償派は、第12回「日本軍"慰安婦"問題アジア連帯会議」(8か国被害者と支援組織が参加)が2014年6月2日に決議した解決策を実現することがこの問題を解決する唯一の道だという。そこには、次のように書かれている。
1.日本政府は次のような事実とその責任を認めること
2.日本政府は次のような被害回復措置をとること
出典: 林博史:「日本軍"慰安婦"問題の核心」,P350-P351)
この会議は挺対協が主催し、各国の被害者やNGOが参加している会議である。否定派の政治家などが飛ばす"ヤジ"が相当気になっているようだ。さすがに「犯人の処罰」はなくなっているが、法的措置を求めていることには変わりなく、歩み寄りの姿勢はまったくない。
朴裕河氏は、日本政府に対して植民地支配に関する自己批判(?)のようなことを提案している。(3.9節にも掲載)
{ 戦後日本は平和憲法を掲げ、戦争を起こさないという価値観を守り続けてきた。大多数の国民が「反戦」意識を保てるように教育してきたのも、高く評価すべきだろう。しかし、「帝国」として存在した――植民地支配した――ことに対する反省意識は、反戦意識ほどには日本国民の共通意識にならなかったと言えるだろう。日本が、日本人の犠牲を中心においた戦争記憶だけでなく、<他者の犠牲>に思いをはせるような、反支配・反帝国の思想を新たに表明することができたら、その世界史的な意義は大きいはずだ。
過去において、帝国主義的な侵略を行ったのは日本だけではない。しかし西洋発の帝国主義に参加してしまった日本が反帝国の旗を揚げるのは、西洋発の思想によって傷つけられたアジアが、初めて西洋を乗り越えることになり得る。支配思想でなく、共存思想をアジアが示す意義もある。}(朴裕河:「帝国の慰安婦」,P313)
確かに、日本において、韓国併合が、いつ、なぜ、どのようにして行われたか、併合後に何が行われ、その結果、韓国の人たちがどういう思いをしたか、などについて気にしている人たちはとても少ない。例えば、有名な創氏改名や天皇崇拝などの日本人化施策の多くが、戦時体制に入ってから行われていることは、筆者もこのレポートを書き始めて初めて知ったことで、ほとんどの日本人は知らないだろう。朴氏の願いを叶えようとしたら、まず、植民地支配の実態を知らしめることから始めなければならない。
熊谷氏はまず、韓国側の対決的な姿勢を批判する。植民地支配の責任を追及する徴用工問題に関する韓国裁判所の判決、伊藤博文を暗殺した安重根の記念碑を中国のハルピン駅に設置したこと、アメリカの韓国系団体が進める慰安婦像の設置運動、反日活動を行う民間団体への資金援助、などである。(熊谷奈緒子:「慰安婦問題」,P212-P217<要約>)
その上で、次の4点を提案している。
(a) 政府レベルでの人的パイプ作り
韓国政府のなかにいた知日派が少なくなり、国定教科書で語られる民族主義に感化された民族主義者が増えている。直接の人的交流を増やすことにより、イメージ先行の悪循環を防ぐことができる。(同上,P219-P220<要約>)
(b) 長期的信頼関係の構築
韓国のいわゆる反日教育について日本ではいろいろと指摘されているが、長期的視点で韓国と付き合ってゆくことが必要である。挺対協は2013年3月からネットによる署名運動を始め、7言語で1億人の署名キャンペーンを行っている。このような行動は一時的な解決をもたらすかもしれないが、和解へと結びつけることはできない。日本側もこうしたキャンペーンに過敏に反応しないようすべきである。(同上,P220-P221<要約>)
(c) 河野談話の継承とアジア女性基金の続きを!
日本は過去に対する反省と謝罪の認識を土台として外交を継続しているのだから、その前提を守るような公の発言や姿勢の一貫性が求められる。アジア女性基金を受け継ぐような方策については民主党政権が韓国政府と2012年末まで模索していた。安倍政権においても対話の試みは続いている。(同上,P221-P223<要約>)
熊谷氏のこの著書の発行は2014年6月である。「安倍政権の試み」は2015年の日韓合意で"結実"したが、和解にはほど遠い内容であった。
(d) 複眼的言説からのアプローチ
日本の植民地支配が朝鮮人慰安婦を生み出していたが、慰安婦問題はジェンダーの問題でもある。植民地問題に帰結してしまうと、女性への性暴力としての慰安婦問題や日本人慰安婦の存在が無視されてしまう。こうした視点は、慰安婦問題を元慰安婦の自由意思の有無、つまり慰安婦が公娼であったか否かの問題、そして強制連行の有無という視野の狭い枠組みに収斂させてしまっている。根本的な解決への鍵は、ジェンダーや植民地言説、そしてナショナリズムなどのさまざまな当事者性を超えた、複眼的な言説である。たとえば、ジェンダーという視点は、戦場における強姦と性病の蔓延を防ぐために慰安婦を使うという戦略的思考が許されたこと自体の問題性を指摘しうる。
慰安婦問題の根本的解決のためには慰安婦問題を人権の問題としてとらえ、人権侵害の構造的原因についての多様な面から考察がなされることが大切になってくる。それは、女性の人権、そして植民地化で虐げられた人、ナショナリズム的思考によって排除された人の人権侵害についても問う形をとってくることになるだろう。(同上,P223-P226<要約>)
熊谷氏の指摘は、慰安婦問題の「解決」に向けた方向性が、2つあることを示唆している。
ひとつは、こじれきった日韓関係の和解に向けた行動、もうひとつは慰安婦問題の根底にある戦争や植民地における人権問題の構造を明らかにしていくことにより、それらの問題を教訓として知識化していくことである。
後者については、一般の人の課題というより研究者たちの領域の問題であろう。しかも、従来の学問のカテゴリにとらわれずに、たとえば歴史学と社会学、政治学などを融合させたアプローチが求められるはずである。フェミニストたちにも活躍してもらいたいが、男の道徳の問題に帰結させて終り、ではなく、構造的問題を明らかにし、しかもそれが男女問わず知識として活用できるものにして欲しいと思う。
"ふつうのおとな”の興味は、なんといっても日韓関係の和解にあろう。日本政府としては2015年の日韓合意で韓国にボールを渡したつもりだろうが、韓国はそれを持て余して問題の矛先を徴用工問題に変え、日本に別のボールを投げ返そうとしている。それに対して日本は国際司法の場での解決を提案したが韓国は(多分、負けそうなので)拒否し、日本は経済制裁という強硬手段で対話の扉を閉じた。韓国も安全保障面での対抗策をとったがまたまたアメリカに言われてしぶしぶひっこめた。和解どころか対立はエスカレーションし、相互の不信感は高まるばかりである。戦争というのはこんなふうにして始まるんだ、と思わせるような状態だが100年前ならいざしらず、現代においてはまだ時間的な余裕はあるだろう。
国によって歴史の見方が異なるのは当然のこととしても、韓国側の歴史認識がナショナリズムに汚染されていることは間違いない。一方、日本でも独善的なナショナリズムの視点でしか見れない人たちも多い。相互に相手の立場で歴史を見る、という努力は必要である。ナショナリズムを捨てる必要はまったくないが、前面に掲げて突進するものではなく、胸のなかで温めておくべきものである。
慰安婦問題は、「独善的なナショナリズムは争いしかもたらさない」という法則を確認させてくれたのではないだろうか。
筆者は何をすべきか提言できるような知識もなく立場でもないが、"ふつうのおとな"なら誰にでもできる、しかし、とっても大事なことは、妄言を吐く政治家や強硬論で突っ走ろうとする政治家を選ばないことである。それは第二次大戦に至る経緯をみれば明らかで、世論の後押しがなければ軍部の独走も抑えられたかもしれないのである。