妙 義 山 麓 よ も や ま ば な 史   歴史の交差点
 今昔余

 

  目次

 

 妙義町の六部さん              5

 狐の嫁入り                  7

妙義神社の権威             9

 石塔寺                   11

妙義千軒                  13

 妙義詣                   19

無縁墓地                  21

黒滝山潮音禅師             22

六部を殺した村              24

東京大学の妙義山遠足         25

 妙義神社                  27

 波古曽神社                 31

 妙義神社の男根石             32

 妙義神社の山王猿             33

 妙義神社の女陰杉             33

 妙義山の「大」の字             33

松葉屋のお多福              34

  ひし屋のごもっとも様            35

 菅根堂・菊女伝説             36

 菅原城                   37

菅原神社                  37

菅原の石仏                 39

川後石                   41

磨墨神社                    42

弘法の井戸                                  43

鳴沢不動尊                                  43

天狗の作ったお道具                        43

 古立の由来                                   44

 二つ岩                                        44

八城の八塔石紅地蔵           44

中の岳神社の仙人             47

天狗堂の大草鞋              48

 

大黒さんの滝                49

中の岳一本杉                49

大牛の大通龍さま                            50

小日向の大通龍さま            51

下大久保の大通龍さま            52

諸戸の吾妻屋さん              52

菅原の道祖神ねり              53

一山和尚                   55

行人塚                    55

弘法様の酒買い              55

 弘法様の清水                56

 お菊と小幡の殿様              57

 菊女観世音菩薩               58

百合若大臣                 60

デーラン坊                  61

逆立ち岩(ひげそり岩)            62                    

領主高田氏                 62

陽雲寺                    64

金鶏山の伝説               65

あとがき                   66

参考文献                  67

 妙義町の六部さん

 

     妙義町は現在、富岡市に入っている。以前は妙義町と高田町とで妙義町を形成していて甘楽郡に属していた。

   昭和中期に高田町と合併する前の妙義町は妙義山の東麓に位置する小さい町だった。

     妙義神社の入り口に位置する妙義町妙義の東に、筆者の生家を含む大牛集落がある。その先は北山集落となる。

   この北山の十字路から妙義神社に向かうと、すぐ右に鋭角に曲がる農道がある。

     この小型車一台が通れるか通れないかの細い農道に入り、緩やかな上り坂を150mも行くと平らな農道になる。

   左側は杉や楢がまばらに生えている雑木林状の低い里山になっている。ここが「六部さん」と呼ばれる場所だ。

     少し先へ行くと道は緩やかに下って行くが、昔はそこの左側に炭焼き窯があった。冬には渡辺家が炭焼きをしていた。

  そこから更に二十メートル程行くと左側に土地の旧家である佐藤家の墓地がある。

    佐藤家の墓地は広く大きな石碑の周りに小さい石柱が巡らしてあった。

     田舎には珍しく佐藤家はキリスト教で大きな石碑の上部には十字架が刻んであった。

 

      「ろくぶさん」と呼ばれる場所は、丘の頂上に向かって細長いウナギの寝床状に木々が切り取られていた。

    農道の平らな所に面して幅は約3m奥行きは約20m程であろううか。

     上部に向かって細長い長方形の部分は、雑草などが生えていたが心なしか土がこんもりと階段状の面影を残していた。

    長方形の両側には樹高およそ8m程の杉が頂上に向かって並んで植えられていた。

      この「ろくぶさん」の両端には、毎年中島家によって十数本の幟が立てられ風にはためいていた。

     ここの「ろくぶさん」については、子供の頃に親などの話から耳に入っていた。

     「ろくぶさん」という人が、この場所に埋めて貰って空き缶をたたき続けたという。

   その音が聞こえている間は私が生きていると思ってくれと言って穴に埋められたという。

 

    今ではすっかり見かけなくなった「六部さん」とは、簡単に言えば諸国を回って歩く行者である。さしずめ山伏の類であろうか。

    妙義の本田氏によれば、これは大正初期の頃の出来事であるという。その頃この周辺に疫痢(赤痢?)が流行っていた。

    そこへやって来た「六部さん」が、「俺が病気を治してこの村を救ってやる」と言って、自ら土中に埋められたという。

      同氏は疫痢と発音し多くの人は高崎や甘楽町に避難したと言う。氏の母親は大正3年の生まれである。

     従ってこの出来事は大正7~8年の頃ともいう。

   この頃、氏の母親は実家である大牛に住んでおり、その家は現場から二百メートルほどしか離れていない。

    その故に近所の人と供に現場に見に行ったのだろう。

      六部さんは穴の中で行を行い、伝染病の治まるのを祈ったのであろう。

     「5~6日は穴の中で缶を叩いて鳴らすから、音が聞こえなくなったら死んだと思ってくれ」と六部さんは言った。

   記録によれば明治29年に高田町に伝染病隔離病舎が作られ、昭和17年には北甘楽郡に隔離病舎組合が設立されている。

             

                            六部さん (ここの上部)



                 



 

     ちなみに中島家は「しゃぐじ」と呼ばれていた。屋号であろうか。後年この意味を考え密かに「社宮司」の文字を充てていた。

    後に「妙義町誌」を何度かめに閲覧している時に、同誌上巻に大牛の小字名が載っているのを見つけた。

       その中に「社宮司」が載っていた。ちなみに大牛の小字名は沢山あるので次に記す。

     砂田、反田、前山、弥八、番匠海戸、姥ヶ谷、土俵入、殿海戸、大平、妙義、上原、中村、中原、下原、栗崎、八重切、日向、岡穂谷、

    社宮司、 越瀬、高谷戸、大茅、八ッ牛、辛沢などがある。

 

      この中に大牛西区と東区の両区に同じ小字名が幾つも存在している。

    同誌には北山地区についての言及がない事から、北山は「古立」地区に包含されていたと思われる。また八木連にも同様の話が伝わっている。

     「大牛」とは変わった地名であり、大きい牛が沢山いたのかなどと思っていたが、「妙義の峻嶺」(後述)の著者は妙義の地名について

    次のように推敲している。

     「大牛村は小碓の尊のオウスか、岳村は武部のタケ、行田(おくなだ)村は童男のオグナではあるまいか」

    勿論妙義や碓氷峠に日本武尊の伝説があるところから論考したのである。

   この論調を拡大すると、碓氷峠の碓氷はオウスから来ているとも考えられる。

 

  その他の文献

 

   富岡市史民族編には六部さんの話が詳しく載っているが、妙義町に伝わる話とはちがうもので一般に流布しているものだ。

   いわゆる笑い話の類であり、東北地方や県内の月夜野町に伝わっているとしている。

   富岡市史には昔話や伝説が採録されているが、妙義町の六部さんの話は載っていない。

   もっとも市町村合併前の編纂のようであるから当然なのかもしれない。

 

    「群馬のむかし話」には「秋畑の山んばのばけたおよめさん」の話が載るが、六部さんについての記事はない。

    近隣では他に南牧の話として「信玄堂のお地蔵さま」「ばかむこどん」の二話が掲載されている。

   「群馬の民話」には、富岡市小野での採話として、「六部を殺した村」の話がごく簡単に掲載されている。

 

     「妙義町の民俗」には、土地の信仰や民話が詳しく載っているが、妙義や大牛や北山にはあまり調査の時間を割かなかったのか、採話に

   来なかったのか、

    調査員や話を伝える古老が少なかったものか記事が少ない。

     古い集落であったらしい菅原や諸戸や高田の記事が多いように見える。

     同誌には口頭伝承として六部さんにやや似た話で、「一山(いっさん)和尚」が収載されているので後半の頁で紹介しよう。

 

  




 


 歴史の交差点 
今 昔余話




里の風
小柏氏800年
の軌跡







 小柏氏系譜と戦 国 武将





 小柏氏系図と小幡大膳亮




 城和泉守と小柏氏






 御荷鉾山のつむじ 風神サマ常次郎





 羊太夫伝説と多胡碑の謎




 赤穂義士と性神信仰







 新編 古事記 高天原の侵略






 八咫烏のくりごと





 あまのじゃくの羅針盤




 YTC .S・S スィート スポット
 テニス教の鹿鳴館




 吉野ケ里遺跡と徐福伝説




 「古代日本史正史」考




 妙義山麓ばな史



  


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狐の嫁入り


 榛名山麓みのわの里(箕郷町)では狐の嫁入り祭りが盛大に行われている。この祭りは昭和30年代まで行われていた嫁入りの儀式を、
 
狐の扮装をした男女が長い行列を作って練り歩くものだ。

 「狐の嫁入り」を見たことがある、と言うと人はびっくりするようで、逆にこちらがびっくりする。普通にある現象で珍しくもないものと思っていた

ので、これまで誰にも話したことがなかった。

 その時は、3~4人で誰かを何かを待っていた。(それ以上の記憶はない)

夏の妙義の里の分かれ道に夕闇が迫っていた。

会話などは途切れていた。

 ふと里山の方を見ると丸い灯がともっていた。

  あれっと思って何気なく見入っていると、淡く光った提灯のような赤く丸い灯が三つになり、更に四つになり五つくらいに増えて山の

中腹を右の方向にゆっくりと進み始めた。

  いま、県道から見ている南の方向には畑や田んぼが広がっている。その先に小川があり、その川の向こう岸から里山が広がっている。

小さな山なので名前などはなく、村人は単に前山と呼んでいた。

  北に山があれば「北山」のごとくである。いまその前山は黒いシルエットになりつつあった。提灯行列のように見えた前山の中腹には

道はおろか人家などは一切なかった。

 そんなところに人が居るはずもなかった。

 「あっ、あれっ何?」

 と筆者が提灯を指さして聞いた。

すると近くにいた叔母が言った。

 「狐の嫁入だ」

 

          この場所に居て狐の嫁入を見た

 

 

  何の感慨も持たない日常の話し方だった。

 その言葉以外には何も話さず、また何の説明もなかった。

(ふ~ん、そうなんだ、なるほど行列が動いていていかにもそんな雰囲気)

 短い会話はそこで途切れたままだった。

  その当時の筆者は5~6歳くらいだったと思う。

まだ小学校には行っていなかった筈だ。

 そばには更に年下の子供が2人あるいは1人いた記憶がある。

 私より少し年下の子供もなんにも言わなかった。

  前山のちょうど中段くらいの高さの所を右方向に水平に、ゆらゆらするような形で提灯?は動いていた。

だ~れも驚いていなかった。誰も怪しい光の行列について言葉を発しなかった。場所は大牛の里、六部さんを右に見る細い道を

少し下り県道に合流する所だった。静かに暮れる妙義の里は初夏だったのか、晩夏の頃であったのか。

 

 

噂話

 

筆者が子供の頃、松井田駅の北側にある碓井川にかかる中瀬大橋について、「人柱を使って完成した」とのまことしやかな噂があった。

全面的に信じていた訳でもなかったろうが、子供心にあの橋げたはコンクリートの中に人間を埋め込んで出来たのか。という思いがあった。

 

 
 
 

妙義神社の権威

 

 古くは妙義神社の権威は絶大であったらしく、その差配する神社地はかなりの広さであり、妙義集落をほぼ包み込んでいた。先の本田氏に

よれば、妙義町と松井田行田との境界に黒門があり、大牛集落との境界には白門があり、諸戸集落との境には赤門があった。この「黒門」は

今も旅館玉屋の近くに建っている。

 たとへ犯罪者といえどもこの何れかの門を入った者は役人でも捕まえられなかったという。

  北が黒門であり、南が赤門、東が白門で西は白雲山が鎮座している。東門の白色は、もともとは西を意味する色で、東から訪れる参拝者

には西への出口となり、白門をくぐる参拝者は西方浄土に出たことになるという。これは神仏習合による仏教思想で、当時、妙義町が極楽浄土

であることを表していたと思われる。

 

県道から神社へ向かう参道入り口には一の鳥居がある。T字路になっていて、左側にはひしや旅館、右側には萩原土産物店がある。この鳥居をくぐり坂を上って行くと妙義神社の総門がある。この一の鳥居から総門までの間の家は数軒しかないが、「神主町」と呼ばれ格が高かったという。

 

 この三門で囲まれた地域が妙義神社の神領として認められていたのだろう。現在の神社の神主家は川島家だが、近世において二度ほど

神主家の交代があった。神主になりその職を維持するのには氏子に認められなければならないという。

              

 

 

        上野国妙義山真景 明治30年作成 銅板

 

 

「妙義町の民族」によると、総代会は八人で妙義三人、古立、上十二、中里、大牛西、大牛東が各一人と決まっていたという。

 妙義神社は上野東叡山の格式を得て参拝者が急増したと言われる。

 この当時(江戸中期から明治期)は妙義集落は中山道の裏街道として繁栄を極めていた。厳しい制限のある碓井関所を通らず妙義から

下仁田へ抜けて信州へ行く細い街道があったのだ。南牧の不動寺の裏山の岩だらけの険しい登山道を行く者もあった。

 この他妙義には女郎屋もあり、碓氷峠を越える前に立ち寄って休憩がてら遊んで行く者も少なからずいたのである。最盛期には妙義の

宿場は「妙義千軒」と呼ばれるほど民家や旅籠が列をなしていた。

 

 筆者も郷土史関連の文献を調べていた時に、妙義千軒の家並みが書かれている絵図を見たことがある。

この時の調査の主目的は別の処にあり、迷った挙句コピーを取らなかった。その後、各地の図書館などに、問合せしたり探してもらったり

したが、どんなに探してもこの絵図を見つけられない。残念な限りである。

本田氏に聞くと妙義集落には2軒の女郎屋があったという。そのうちの一軒は大牛との境のT字路の処にある鶴巻家である。同氏は

小さいころ、その家を見せて貰った事がある。

2階に上がる階段には鎖がつけられていて、井戸の鶴瓶のように鎖をグルグル引いて階段を上げ下げするとのことである。私が警察対策

かなと言うと、いや客に逃げられなくするためではないか、と言った。時には金を払わないで逃げてしまう客もあったらしいのだ。

妙義神社は嘉永年間に火災に見舞われており、その際に宝蔵や古文書が焼失してしまい由緒などの詳細は不明になった。また明治の

神仏分離令の際にも文献類の散逸があったという。

「上野国風土記」に「妙義大権現社記」があり、これによると宣化天皇二年537)に鎮座、とあるほか、一書に宝亀年中770180年)

草創とあり実は波己曽神社なるを・・・と記されている。主祭神は日本武尊。(妙義町誌下)537年鎮座が正しいとすれば、1480年ほどの長い

歴史を有することとなる。

 

 また波己曽神社が妙義神社の前身であり、妙義の地主神と伝えられ現在でもそう変わりはないように思われる。

平安時代の「上野国交替実録帳」には、波己曽神社は美豆垣、荒垣、外垣と垣が三重にめぐらしてあったと記される。

 この頃までは社殿はなかったといわれ、波己曽神社と社務所の間にある大岩・影向岩が磐座として信仰の対象で祭祀場であったとされる。

 この方式は日本最古の神社ともいわれる奈良の大神神社と似ている。大神神社は三輪山そのものをご神体として社殿を持たないが山上に

は三つの磐座が存在する。

 

 
   
石塔寺

 

   妙義山は古来より信仰の対象であり、様々の場所に神々が祀られていた。険しい岩稜が続き、ところどころに難所もあり山岳信仰や修験道の

  山伏などの修行場としての性格を有していた。

  仏教が入ってくると、やがて神仏習合がだんだんと進み、白雲山に石塔寺が建立され、「妙義大権現」と称された。入り口付近には普及媒介と

 なる「妙義御師」の坊舎が立ち並んでいた。

    一説では、白雲山高顕院石塔寺が波己曽社の別当寺院として成立した後に、鎮守社として妙義権現が勧請されたという。

  江戸初期の文書によると石塔寺の所在は、上州甘楽郡小幡嶽村と記されている。

   石塔寺は新田義貞で有名な新田郡の長楽寺の末寺となり、後に上野東叡山寛永寺の管轄するところとなった。これにより、世間に広く知られる

  ことになり、山門も大いに賑わうことになった。

 

   石塔寺は、戦国末期に小田原攻めで東上した秀吉の軍勢によって焼き払われてしまい、この時に多くの貴重な古文書が焼失したという。

  「白雲山妙義大権現由来」によれば、天正十八年二月に関白秀吉が来て上州、武州、相州を攻め落とした際に、石塔寺も炎上し堂社、仏閣は

  一堂も残らず焼き払われた、と記している。

  この戦の際に、北条氏に属していた松井田城の大道寺氏は前田利家、長尾景勝(上杉氏)の軍勢によって亡びることとなった。なお、

 「白雲山妙義大権現由来」では白雲山は日本七峰の随一であるとして、他の六峰を大峯山、羽黒山、伯耆大仙山、下野日光山、相州大山、

  筑波山としている。

 

 火災消失の後、高田小次郎の母によって茅葺のお宮が建てられ、東叡山元光院の長清が拝殿、神楽殿、護摩堂、神門などを建立し再建が

  なった。

   石塔寺の権威はかなりのもので、末寺二寺、寺中三寺、門徒七寺があり諸戸の随應寺、菅原の菅應寺(廃寺)は石塔寺の末寺に連なっていた。

  白雲山妙義大権現由来によれば、菅應寺では小児天神(菅原道真の子?)が出生したとされる。他に道真が太宰府下向の際か、子を伴って菅原

  を訪れたともいわれる。

 

   史料は見つかっていないが、恐らくは菅應寺の旧跡が現在の菅原神社ではないかと推測できる。(明治の神仏分離令が関係しているか?)

  「白雲山妙義大権現由来」は1702年に成立し、これを1822年に奥邑外記が筆写したものが現在残されている。妙義中興の長清法印が寛永

 十二年に石塔寺を拝領し、来村した頃には門前には六軒の家しかなかったが、その後徐々に増えて数百軒になり人口は八百人ほどにも

 なったという。

  やがて明治の時代になり、神仏分離令が発されるに至り石塔寺は廃されて、本堂や庫裏は神社の社務所に変わった。白雲山の名の由来は

 「白雲が腰を巻いている」ことによるとされ、この文言は幾つかの文献に散見される。

  「上野国妙義山旧記」には、寛弘3年(1006年)に3歳の児童が現れ「吾はこの山門の座主尊であり、仏法を守護するためにこの山に住む、

 今後妙義権現と呼ぶように」と神託を下した、とある。

 

 さらに欽明天皇の御宇に妙形和尚が来朝して日本中の霊峰を訪ねて回り、七峰の随一として「白雲衣山」と号した。石塔寺の古跡は袈裟石の上に現然と立ち給ふ、白雲衣山の地主破古曾三社大名神也、としている。

 信じ難いようなところもあるが、文脈文言は「白雲山妙義大権現由来」と同様な部分があるので、共通の原史料があったのかもしれない。

  尚、同旧記では、この山の来歴は推古天皇の勅願により来目太子(皇子)草創なり、善無畏三蔵が来朝して畏盧の大塔を建立し遮那の密厳を

  安置したまえり。 と述べて長文の由来を記載している。
  上野国風土記では比叡山座主法性坊尊意大僧正を勧請すという。天竺の三蔵法師が妙義山に来て密教を安置し給う、との伝承は俄には
  信じ難いものがある。

 ちなみに妙義山は鎌倉時代までは、波己曽山と呼ばれていた。

 

 
   
妙義千軒

 

   妙義千軒をしのぶ資料に「妙義町並図」がある。本図は妙義神社総門まえの山口治壽氏所蔵の文書を元に、高田の横尾義之氏が原図を
  作成し岡部高喜氏が現在の図に仕上げたものである。

   江戸時代の門前町の様相がよく分かる図面になっている。町家千軒とまではないが、約百五十件ほどの町家がひしめいて建っていたことが
  
   分かる。本図は総門横のひしや旅館に保管されていたものを、ご厚意により筆者がコピーさせてもらった。

 

                         妙義町並図

  

 

 同旅館に妙義千軒の絵図があるかどうか問合せをさせて貰った時に「妙義町並図」というものならある、という事で伺ってお借りしたものである。

  ひしや旅館は以前(江戸時代)はずっと北の黒門の傍にあったという。

 「妙義町並図」を見ると、黒門から数えて四軒目(道路の東側)に「茶屋岡部菱屋幸右衛門」との記載が見える。黒門横にも「菱屋幸右衛門明地」

  と書いてあるが、ここは「妙義町並図」原資料作成の時点で空地になっていたようだ。

 

  土産物店・萩原芳泉堂のご主人にも話を聞いた。同店は昔(江戸時代)からこの場所で営業していたとのことである。

  江戸時代から代々「権左衛門」を名乗っていたという。これは屋号みたいなものと言うが、「妙義町並図」には「泊り屋名主萩原権左衛門」と

  記載されている。

  1847年には旅籠屋が六軒あった。組頭と名主が連名で役所に提出した「奉差上商売取極書覚」には、旅籠屋渡世、権左衛門と萩原家の

  先祖の名前がみられる。また同書を見ると茶屋渡世が四軒見られる。

 これら茶屋が女郎屋を兼ねていたと思われるが、木賃宿も兼ねている店が多かった。商店としては菓子屋、饅頭屋、豆腐屋、薬屋、草鞋煙草屋、

  小間物屋、あらもの屋などがあった。また茶屋は居酒屋も兼ねていたようだ。

 町名としては現在の総門の上の方の参道が「竪町」で総門から下の白門(大牛との境、今はない)までが「大門町」と呼ばれていた。

 

  神社に行く参道を左に折れて中の岳に向かい赤門(再建されたもの)までが、神職が住んでいたところらしく、禰宜町と呼ばれ、参道を右に

  折れて北へ向かう(旧街道)ところが「横町」と呼ばれていた。

  この禰宜町が後に「神主町」と呼ばれるようになったと思われる。本田氏によれば妙義はみんな屋号を持っていたという。ちなみに同氏の家の

  屋号は「清水屋」で、現在四代目だが、初代は新潟の寺泊から出てきた。水がよいので現在の場所でトコロテンを作って売っていたという。

  (萩原家は羊羹を作って売っていた、財産家であちこちに土地を持っていたという。)

  芳泉堂では復刻「諸国道中商人鑑」を見せて貰ったが、同書には、芳泉堂は妙義山笠町角、御宿泊萩原権左衛門、とあり店構えと街角の

  旅人の絵が描かれている。同書は㈱郷土出版社が限定八百部として和綴じにて出版したもので各部に番号が振ってある。

           
                       諸国道中商人鑑

 

     諸国道中商人鑑 金声丹

 

 

                    諸国道中商人鑑 版元

 

            

 

                黒門坂

 

           

    黒門坂に残る石碑

 

           

 

 

             黒門

 

 

 

                   黒門を入った旧道

 

  

 

 

 

            

  現在の地図(ゼンリン)

 

 

 

  現在の地図を見ると、右下の広い道路は新道でその右側の細い道路が江戸時代の旧道であり、松井田町の境に「黒門」の表記がある。

  「江戸時代文化年間の妙義町並図」にある「辛沢橋」は現在の「妙義橋」であろう。

  並図には、黒門から辛沢橋の間に西側に17軒ほどの家があったように記され、道路の東側には14軒ほどの家が記されている。
  
  この文化年間の家の名前は、現在の地図には殆ど見られないが、唯一、岡部家の名前が両地図上のほぼ同じ場所に見えている。

 ちなみに松井田から来て旧道に入り、黒門坂を登り切った所に標識があり、ここを右に行くと裏妙義へと続く旧道になる。
 
  この道をたどると横川駅へ行きつく。

 

   江戸後期から明治中期くらいまで、妙義千軒といわれ繫栄していた妙義も明治中期には次第に衰えを見せるようになった。

  明治34年発行の「東西南北探涼案内」は次のように記している。

   「妙義町は往時やや殷盛にして、戸数亦百に満ち、旅店の外に娼楼あり。――中略――近年は乃ち人戸大に減じ僅かに三十戸計りに残せり。

  旅店も只二戸を留め、娼戸も四五年前に於て廃せり。旅店は菱屋神戸屋の二戸にして神戸屋は殆ど荒廃に近く――」  

 

 

 

 

            裏妙義旧道案内板

 

  

 

 
   
妙義詣

 

  「妙義講」は関東、甲信越、福島などかなり広い範囲で結成され、妙義神社に参詣しお札を貰った。参詣できない人のために代参の人も多くを

  数えた。殆どの「講」では積立金を利用し泊りがけで来ていた。

  主に火防、開運、商売繁盛、作神信仰などが目的とされ、神社には毎日、太々神楽が奉納された。

  松井田から左に折れ、妙義を通過して下仁田を経由する街道は中山道の脇往還と呼ばれていた。

   下仁田から佐久や軽井沢に抜ける信州街道(姫海道)に西牧関所があり、幕府の管轄であったが関所役人は地元の人が務めた。

 

  妙義町誌によると西牧関所を通る人は商人よりも妙義詣での人が多く、寺社詣での内の56%を占めていた。

  次いで多いのが秩父札所巡り、善光寺参り、貫前神社の順である。当然ながら信州街道よりも、中山道からくる参拝客の方が多かった。

   観光案内書として「妙義詣」が全国版として発行されていた。

  妙義町の繁栄は妙義千軒と詠われるほどになり、参詣者目当ての旅籠、木賃宿、土産屋、酒屋、豆腐屋などが軒を連ねて商売に余念が

  なかった。

  江戸時代の「妙義詣」(妙義町誌上)では初めて妙義山を目にした感動・感激を次のように記述している。

  「見渡す風景、岩石峨々とそばだち青苔碧にして尖く。古松老杉は空を閉じ、峰の白雲ひれふして岫(くき)を出る、見ぬ唐土(中国)

 摩天嶺蛾嵋山の崢(そうこう)たるも、いかでかこれに優るへき。

  抑々上野国甘楽郡妙義大権現の道場は白雲衣山石塔寺又高顕院と称す」

 

妙義参の言葉は今もなお、東京に残されている。亀戸天満宮の境内に妙義社があり、毎月卯の日には縁日が開かれ、この日にお参りをする

習わしがあった。ここにお参りすると妙義神社にお参りしたことになるといわれる。「亀戸妙義参」は俳句の季語にもなっている。

  先祖が石塔寺の役人であった山口氏の所蔵する「白雲山妙義大権現由来」によると、門前町の家数は当初二十四軒で人口は百二十四人で

  あったが、中興の長清法院の頃に隆盛を極め、家数は数百軒になり、人口も八百人ほどに激増したとされる。

  尚、同家には数百年まえの古文書が所蔵されている。

 

  妙義町誌には明治10年頃の妙義町妙義の人口は13035戸)と記されている。

  弘化41847の史料には、25軒ほどの商家があったと見えており、旅籠6軒を筆頭に木賃宿3軒、あらもの屋3軒、他に茶屋、たばこ、草鞋、

  菓子店などが軒を連ね門前町を形成していた様子が窺われる。

 史料(奉差上商売取極書覚)からは組頭は旅籠、名主は茶屋をやっていたように見て取れる。変わった風景として「西遊行抄」には、石段の

  前に釜八箇並べ常に御火を焚き、巫女数十人並居て、湯花ということをして、参詣の人にご託宣を聞き給え、とやっていたと記している。

 

江戸時代の妙義町は幾つかの領地に分割され支配されていた。

妙義は妙義神社領、岳村と大牛村は上野東叡山の寺領、菅原村、上諸戸村、中里村、八木連村、十二村、下高田村は小幡藩領、行沢村と

 古立村が旗本領になっていた。

   ちなみに行田(おくなだ)の人が書いて大正年間に発行された「妙義の峻嶺」には、維新前には妓楼が十数戸もあったと記されている。
  同書では他に旅館十戸、戸口二百有余あって、松井田から妙義を経て岩村田に抜ける裏街道は女街道と呼ばれていたとしている。

  善光寺参りの人が多く通ったようだ。

  また同書では、上野国神名帳に碓氷郡中に波己曾明神ありと書かれていたところから諸戸村は往時は碓氷郡に属していたとみている。

 

 
   

 無縁墓地

 

  妙義神社の門前町として栄えていた頃からの名残であろうか、妙義地区の共同墓地には、300基以上とみられる無縁墓碑が残されている。

 「江戸時代文化年間の妙義町並図」にも記されている大茅共同墓地がそれである。

  この墓地は県道から細い道を徒歩でダラダラと下った場所にあり、全く目立たない静かな所で緩い東傾斜面に繋がってゆく。

 筆者も本田氏の案内で現地を訪れてお参りさせてもらった。

 これら沢山の逆U字形の無縁墓碑は整然と西向きに並んでいて、正面には近所の人が手向けた花が献じてあった。

  これらの墓碑群は一見してかなり古いものと思われる。

 

   居並ぶ墓碑の周囲には雑草などは見られず、定期的に手入れがされいる様子が窺われる。本田氏の父親が地区の区長をしていた時にも

  整備したという。門前町には近県からの奉公人も来ていたので、中には故郷に帰れず共同墓地石碑の下に眠っているかっての奉公人もあると

  思われる。 

  無縁墓地を過ぎて少し行くと左右に妙義の共同墓地が広がっている。

  その広さ、墓碑の多さは妙義の世帯数よりも遥かに多いように見受けられる

 

               無縁墓地

                                   

 

 
   
黒滝山潮音禅師

 

 妙義山には古今さまざまな著名人が訪れて、感想や和歌などの著述文献を残している。江戸時代の著名な僧侶・潮音禅師は南牧村に

  黄檗宗黒滝派を起こした。

 潮音禅師は寛永五年に白雲山に登り、次の漢詩(七言絶句)を残している。

 延宝七巳未年登白雲山 黄檗潮音

 一山高聳白雲裡

 妙義廟宮在此間

    神徳日新霊感顕

   珍財喜捨更無樫

    延宝七つちのとひつじの年白雲山に登る 黄檗潮音

一山高くそびゆ白雲のうち

    妙義の廟宮はこの間にあり

    神徳日に新たに霊感顕わる

    珍宝を喜捨してさらにおしむことなし

 

 下仁田南牧村の黒滝山の近くには絶壁の連なる九十九谷がある。標高800メートルほどの観音岩には、三十三体の観音石仏様が祀られている。その他、山の
  
  神の石祠や御嶽大神の石宮などもあり、山岳信仰が色濃く感じられるエリアである。

  この一帯は自然探勝路となっているが、かっては修験の回峰行道であったと思われる。

  周囲は岩山や岸壁をめぐる道が極めて荒々しく修行の場にはふさわしい地形で、回峰の場所とされ、聖地ともされていたものに違いない。

 

 不動寺上の山岳縦走路は難路であるが、信じられないことに古代には幹線道路とされ、松井田から信州望月へ抜ける「古代大道」であり、

  不動寺はその中間点に位置していた。周辺には幾つもの朝廷直営の牧があり、上野九牧の駿馬の献上は碓氷峠の他に大道を通って望月の

  牧に送られた。大道が「駒牽きの道」とも呼ばれる所以である。

 不動寺も岸壁に囲まれて秘刹の雰囲気が漂っており、江戸時代から黄檗宗の中心道場とされてきた。不動寺には不動明王が祀られているが、

  この黒滝不動の山の主は昔から天狗だとされてきた。

 昔、この山(九十九谷)の谷の一つに魔人が住みついていて、村里に現れては農作物を荒らしたり災難をふりかけていた。

 そこで山の主の天狗一族は、魔人の住む谷を霊力で隠してしまった。村人は喜び、感謝を込めて大天狗小天狗の碑を頂上に建てた。

 

 それ以来、百あった谷を九十九谷と呼ぶようになったという。今でも黒滝山や九十九谷の頂上に立って耳をすますと、どこからか天狗の

  鳴らす太鼓や笛の音が聞こえてくるのだそうだ。不動寺では開運厄除けのお守りとして天狗の面を売っている。 

  不動寺への参道でもある黒滝道(くろたきみち)周辺の路辺には、道祖神、庚申塔、馬頭尊、脱衣婆その他の石仏・石塔の類が多く見られ、

  信仰の地であったことが窺われる。

        
                    毎日洗心

 

 

  潮音禅師は臨済宗第33世隠元禅師の直弟子であり、全国に二十数寺を開基し、弟子も六十人以上居て将軍徳川綱吉も帰依していた。

  館林に居た時に上日野の小柏重高が草庵を建てて招聘し、上日野に11年程いたが後に不動寺の開山となり黒滝山に移った。

  甘楽町史にも、重高が潮音を迎え草庵におらしめていたが、希望により、親戚の砥沢の市川氏と共に開基となって黒滝山に一宇(不動寺)

  建立した、と記されている。

 

 尚、重高夫妻とその子の吉重の木造が今も不動寺の開山堂に鎮座している。

 他にも潮音禅師の事績は「名跡史」「国志」「後上野志」「大日本名跡図誌」などにも記載されている。

潮音禅師の遺骨は不動堂裏の石室に収められている。ここの岸壁には滝が落ちていて岩窟がある。昔は岩窟に金軀不動明王が祀られ

  修行僧たちが行場にしていた所とされている。今は元禄元年の石像弁財天が祀られ、窟は「天女窟」と呼ばれている。

  岩窟脇の岸壁には、弘法大師が爪で彫ったと伝えられる摩崖仏「爪彫り不動」が鎮座しているが摩耗が進んでいる。

  他に如意輪観音、十一面観音、千手観音、帝釈天、四天王などのすぐれた石仏が祀られている。

  この山に狭岩という所があり、そこから西には梓が生えない。承和年間834-848に弘法大師が行脚してこの地に来たとき、葛藤が

  手足にまといついてしばしば転び、また梓の木が目を刺した。そこで大師はこの一木一草を封じ生えないようにしたのである。


 
   

六部を殺した村

 

 ずっとむかし、ある人里離れた山ん中に、お金持ちばかりが住んでいる不思議な村があった。この村に行くには、いくつもの山を越え谷を越え
 
  て行かなければならなかった。

  そのため、めったに人は行かなかったし、村から出てくる人もなかった。冬のある寒い日、この村に一人の旅の六部が道に迷ってやっとたど
  
  り着いた。

  日はとっくに暮れて、冷たい風がビユービユー吹いている中を、六部は遠くでチラチラとまたたく明かりを頼りに、最後の力をふりしぼるように

  して歩いていた。 すると、山の中にはめずらしい立派な家に辿りついた。

 

 六部は戸を叩きながら呼んだ。

 「私は旅の六部です。道に迷って困っています。今夜一晩だけ泊めてください」

 すると奥からその家の主人らしい人が出てきて、

 「それはそれは大変でしたね。さあどうぞ遠慮しないで入って下さい」

 と言って家の中に入れてくれた。六部はほっとして座敷に上がると、

 「本当に助かりました。何日も何日も山ん中を歩き回って、やっとこの村に着いたのです。もう人のいる所には出られないものと思っていました。

 お礼はいくらでもしますから、よろしくお願いいたします」

  と頭を下げた。

 「さあ、お疲れでしょう。お風呂に入って体を休めてください。すぐにご飯の仕度をさせますから」

 

  主人に言われるままに六部はお風呂に入って、用意してあった夕ご飯を食べると、すぐに床についた。あったかいふとんの中に落ち着いた

  六部は、まるで夢の中にいるようだった。

  何も食べずに寒い山の中を何日もさまよい続けて、今こうしていられるのが不思議でならなかった。

  「この家の人はこんな山ん中でどうしてこんなにいい暮らしをしているのかな」

  六部は眠りながらいろいろ考えたけれど、旅の疲れですぐ眠ってしまった。

  真夜中のこと、突然六部の寝ていたふとんがガタンと床ごとひっくり返り、あっと言うまに六部はそのまま暗い穴の中に閉じ込められてしまった。

 

   暗い穴の中に閉じ込められてしまった六部は何日も何日も水も食べ物も与えられずに、ひとりお経を唱えながら死んでいった。

   この村の人たちは、道に迷った旅人を親切に泊めては、落とし穴に落として、お金や着物をはぎ取っては村中で山分けして暮らしていた。

 だが、殺されたたくさんの人のたたりで、いつしかこの村の人はみんな気がふれて死に絶えてしまった。

 

 
   

 東京大学の妙義山遠足

 

 俳人、正岡子規は高浜虚子と並んで俳句の大家であり、両氏によって現代俳句の基礎が作られたといっても過言ではなかろう。

 その正岡子規による第六回文化大学遠足会の手記(明治25年)によれば、当時の妙義山麓の町の家数は3~40軒ほどであった。

  実際の記録でも明治20年頃で家数30軒人口176人とあるのでさほどの差異は生じていない。 

 

  さて子規が宿泊した際の記事であるが、妙義へ来たのは11月5日のことで目的は紅葉狩りだという。この遠足は文化大学(後の東京大学)

  年中行事としてのもので一行は50人もの団体だった。上野から汽車に乗ったのはよいが、当時松井田駅はなかったとみえて磯部駅からは徒歩

  になり、闇の中を二里ほど歩いて妙義山が見え菱屋に辿りついた。

 菱屋では、あるじの女房、はしため(端女)なんどの門に佇みて、

 「オ早ウオツキサマ」「オ労レデゴザマシヤウ」

 「オ早ウサマ」「「オ労レサマ」「オ早ウ」「オ労レ」

 と異口同音にいふ。

 と、菱屋では一行を迎えたという。ここから主人夫婦の他に5人程の女中さんが居たようにみえる。

  ちなみに暖房は火鉢のみであった。大きな団体の為か布団は美しいものが少なく、取り合いのようになり、きれいな布団をゲットした者は

  トイレに行くときも小脇に抱えたりして離さなかったという。 

  多くの布団には肩の部分に赤いきぬが縫い付けられていて、これを訝しみ問えば、さだめし隣の妓楼から借りてきたものだろうという。

  子規が街道でもないのに色をひさぐ家があるのは如何に。と問えばその妓楼は今は店を閉じたが、昨日までここに通ったものは近郷近在の

  ものにて、中には山一つ向こうから夜半に一人越えてくる者も多かったと聞く、との答えあり。

 

  ここで「長き夜やたがうつり香の薄布団」「傾城のぬけがらに寝る夜寒かな」の二句が詠まれたが、子規は学生の句のように記しており、

  誰が詠んだものかはっきりしないが、状況が瞼に浮かび上がって来るような秀句といえようか。

  そもそも、この大学生の団体なるものは、文意から読み取るに子規の俳句指導を受けている生徒の集まりと思われる。

  この頃の言い伝えには、「そもそも妙義の山は昔より名だたる霊山にて、いやしくも身に不浄ある者がここに登れば、鼻高き神につかまれ

  八つ裂きにして谷底に投げ落とすよし申し伝えたれば、夏に至れば道者など斎戒沐浴して参りけるとなん」

   と伝わっていたという。

  しかしこの集団の主な登山装備は草鞋に脚絆、手に力杖というものだった。この明治中期頃には妙義三山を踏破するのには、四~五日も

   かかると言われていた。従って勢い込んでいた一行も金洞山だけを登ることになった。

  子規は、

  「白雲山屹立してその懸崖の高さ幾百丈といふことを知らず」

 と記して次の句を詠んでいる。 

 白雲や三千丈の蔦紅葉

  榛名春赤城夏妙義は秋の姿かな

  他には、

   鱆置いたやうな山あり秋のくれ

   紅葉狩鬼すむ方を見つけたり 

   紅葉せぬいはほも山もなかりけり

   菊植る丈の畑あり山のおく 

   足もとは眼ちらつく秋の雲

   秋の山信濃の国はおそろしき 

   ゆく秋やぼんやりしたる影法師 

  などの句が記されている。
 
   やがて山を降りた一行は旅館で昼食をとり、磯部駅まで徒歩で行き夜行の汽車に乗って帰京した。

  ちなみに、この登山旅行には夏目金之助(漱石)も一行の一人であった。

 

  多くの文人墨客が妙義山を訪れたが、小林一茶は寛政三年に妙義に泊まり次の句を残している。

   神祭卯月の花に逢ふ日哉

   山下て桜見る気に成にけり

   五月雨や夜も隠れぬ山の穴

  小林一茶は麓の村々で句会を行ったが、他の流派でも句会が催された。

  この他、頼山陽は奇岩に見ほれて、耶馬渓よりもはるかに雄大であり、その雄姿は他に比類ないと激賞した。

  また幸田露伴も妙義登山を行っている。若山牧水は明治と大正と二度も妙義登山をしている。

  芥川龍之介も妙義を訪れているし、群馬が生んだ俳人・村上鬼城も訪れて次の句を詠んだ。

   凩や妙義が嶽にうすづく日

   桑枯れて日毎に光る妙義かな

  峰寒く十三夜の月明りかな

  行秋や夕焼け空の妙義山

 

  文人墨客ではないが、日本アルプスの父と言われるウエストンが、こよなく妙義山を愛したことはあまりにも有名である。

  ウエストンは一見しただけでとても登れそうにはない、中空に突き立つ金鶏山の筆頭岩にも登っている。

  この登山は地元のガイドで、長くウエストンのパートナーを務めた根本清蔵とロープで結びあう近代登山の技術を使って登った。

  一人が登っているときに、もう一人が、相手が落ちないよう確保をしたのであろう。


 
   

 妙義神社 

 

   妙義神社の創建は諸説あるが、宣化天皇2年537、又は欽明天皇ご御代539571に波己曾大神の分霊が勧請されたのが始まりと

  伝えられている。

   妙義神社略記には、「宣化天皇の二年に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽の大神と称し、後に妙義と改められた、と記される。

  続けて略記をもう少し紹介する。

   「そもそも妙義という所以は、後醍醐天皇に仕え奉りし権大納言長親卿、此の地に住み給いて明々(ママ)々たる山の奇勝をめで、明魂と

 名づけしものを後妙義と改めたと思われる。江戸時代は歴代将軍を始め、加賀の前田候外諸大名の崇敬篤く、上野東叡山の宮、

 御代々御兼帯御親祭の神社となり、其の御宿坊を宮様御殿または単に御殿とも称した」

 

   寛永14年1637に長清法印が中興すると、上野東叡山寛永寺の本末寺、御兼帯、座主輪王寺宮の隠居所となり、歴代将軍や皇室に崇敬、

  擁護され最盛期には末寺2カ寺、専中3カ寺、門徒7カ寺を擁していた。

   明治28年に内務省に提出された「妙義神社調書」によると、祭神は日本武尊を中心として、石長姫命、菅原神、大納言長親卿、丹生神を

  配祀している。伝承によると日本武尊がこの白雲山に社を建てて波己曽神としたとある。

 

   妙義町は四神相応の地として四方にそれぞれ門があった。妙義神社の東、菱屋旅館の近くには大門(白門)があり、付近を大門町といった。

  北には黒門があり、黒門坂を登るのが表参道であった。この黒門は少将の格があるところから「少将の門」とも言った。

   この門を潜ると宮様領に入ったことになり、宮様の許しがなければ罪人も捕まえられない、という治外法権があり、この門を潜るときは従四位、

  少将以下の者は籠を降りるか下馬したものであるという。江戸期には日光に下る例幣使も常にここ妙義神社に立ち寄った。

  加賀候は最も崇敬されたと言われる。

 七日市藩の旧藩主が加賀候の出であり、その前田家の祖が菅原道真であって、当社が道真を祭神の一に加えているところから特に崇敬していた。

 

波己曾社(県指定重要文化財)

 

  以前は本殿・幣殿・拝殿からなり、本殿は波己曾社、拝殿は神楽殿になっていた。かつて、妙義神社は、山岳信仰の場として栄え「波己曾神」と

  いわれていた。

  「明々魏々たる山」から、室町時代の頃に妙魏(妙儀、妙義)の名が興り、後に妙義神社となったと伝えられる。

  なお、妙義山周辺には「七波己曾」が存在したといわれ、現在も数ヵ所残っている。「七波己曾」の中心は、妙義神社の波己曾社だったと考えられる。

 「妙義町の民族」によると、神社の位置は波古曽社を拝むと白雲山を拝むような向きに作られていたという。

 

  本社・唐門(国指定重要文化財)

 

  本殿・幣殿・拝殿からなり、権現造り。

   日光東照宮を仕上げた宮職人等がこぞって妙義の地に移り建築し、東照宮と比べても遜色のない建造物となっている。

  社伝によると社殿は徳川家康の建立で寛文年間及び宝暦年間の改修と伝えている。

 

  銅鳥居群馬県指定重要文化財)

 

  銅製の大鳥居。高さ6.13m、柱間5.4m、柱の径50 ㎝、柱根本にそれぞれ三頭の獣頭(狛犬)が取り付いている。

 

  銅燈籠(富岡市指定重要文化財)

 

 一対の青銅製の燈籠で、高さ4.35m、元治元年1864に養蚕や生糸生産の繁栄を願って建てられた。

 

  総門(国指定重要文化財)

 

  高さ12m、三間二間で、銅板葺切妻造りの八脚門で、壮大な構えを誇っている。総朱塗。三棟造りの古式な構造ですが、もとは白雲山石塔寺

  の仁王門だった。その後、神仏分離令によって妙義神社の総門となった。

 

  黒門 赤門

 

  妙義神社の門前町として栄えた妙義町では、近世になると方向を示す黒・白・赤に塗られた門が町の入り口に立てられた。

  黒門は北、白門は東、赤門は南に町の入口としてつくられた。

  現在は残っていない東門の白色は、もともとは西を意味する色である。

   妙義町にとっては東門だが、東から訪れる参拝者には西への出口となり、白門をくぐる参拝者は西方浄土に出たことになる。

  これは当時、妙義町が極楽浄土であることを表していたと思われる。

 また、黒門のある場所は昔の碓氷郡と甘楽郡の郡境にあたる。群馬県が設置した案内板によると、黒門は石塔寺の表門といわれる、という。

            

 

 

 黒 門(内側)

 

                           

 黒門説明板

 

 

赤門(再建)

 

 

             

赤門説明板

   

 

 
   

 波己曽神社

 

   妙義神社の前身は石塔寺であり、そのまた前身が波己曽神社であろう。波己曽神社は白雲山にあり、妙義山の信仰は金洞山や金鶏山よりも

  白雲山を中心に信仰を集めていた。

 

   妙義神社には、元々波己曽神が主祭神として祀られていたが、神仏習合により妙義大権現が主祭神となり、現在では日本武尊となっている。

  そして今では、波己曽神社は境内摂社に格落ちした形になった。

 

  波己曽神社の信仰は古来よりのもので社殿は建立されていなかった。「波己曽」の由来は「いわこそ」であり、長い間に「い」が失われて

  「はこそ」になったものと考えられている。

  「いわ」は岩であり大昔は大岩が自然崇拝・信仰の対象になっていた。

   波己曽神社のご神体は、現在の妙義神社社殿北東の奥の院への登り口にある「影向岩」(えいごういわ)であったと推測される。

   奥の院は「大の字岩」の奥の岩窟であり、幅は約六メートル、奥行き約十メートル、高さ十メートルという大きなものである。

  大黒天や観音の石仏が祭られて山岳信仰の岩窟に似つかわしいものである。影向岩には注連縄が張られ、毎年十二月の「すすはらい」の

  ときは未婚の男子が身支度をして清掃している。

 

   一説には、この大岩は天から降ってきたと伝えられている。物凄い音を立てて降ってきたが、ここが居心地が良いというので納まったまま

  苔むしたという。波己曽神は、往昔、そびえ立つ岩石を真下に立って仰ぎ眺めた先住人たちが、今にも倒れ落ちて自分の頭上に押しかぶさって

  くるのではないかと恐怖を感じたので、山の神信仰のように危難を免れるために祈願して祭ったものと言い伝えられている。

 

  「上野国交代実録帳」に記された三重の垣を廻らした波己曽神は、古代信仰によるものであったから社殿を必要としていなかった。

  三重の垣とは、美豆垣壱廻、荒垣壱廻、外垣壱廻と表現されている。

  鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、

  諸戸
(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、

  特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。

  この中で行沢の波己曽神社、諸戸の波己曽神社(吾嬬者耶神社)は現存している。

 
 ちなみに諸戸の波己曽神社は「上野名跡志」に、「――今ハ額ニ正一位破胡蘇大明神ト見ユ、イツノ頃文字ヲ書カヘケルニカ――」

  と記されている。

  妙義の波己曽神は「三代実録」貞観元年(859年)三月廿六日の条には次のように記されている。

 「廿六日壬午授上野国正六位上波己曽神従五位下」

  このあと、神位は正5位下まで昇格して、更に正一位に進み妙義神社と改められた。

 

    元禄年間の「妙義大権現由来書」には、寛弘三年1006年)にこの山に悪魔降伏のために妙義権現と名付け、千手観音をまつり「ア」という

  梵字をうつして火難除け・国土安楽を祈った、とある。

   ア字は大日如来の種子であり、元来はこの神の本地は大日如来であったが、後に千手観音が祀られたことから千手観音とされたという。

  かっては奥の院にも大日如来が祀られていたという。

 

  近藤義雄氏は、波己曽明神が妙義大権現へと信仰の中心が移ったとき、恐らくこの山も妙義山と呼ばれるようになった、と言う。

  また「大の字」の「大」は大日如来の「大」ではなかろうか。とも言っているがこの説はどうであろうか。

   妙義山は中世以来修験道の山として崇敬され、波己曽神と並んで妙義神が祀られるようになり、近世の妙義講の普及とともに信仰は広まった。

 妙義神社は中山道を往来する大名・公家からも崇敬され、加賀の前田家は江戸との往来の都度参詣したという。

   明治期の神仏分離令により、石塔寺は廃寺となり、本地堂は養蚕社と変わり、仁王門は総門、本堂や庫裡は社務所となった。

 

 
   

 妙義神社の男根石

 

   小板橋靖正氏によれば、妙義山は榛名山と同様に性神の信仰に深く結びついているという。
  
  妙義神社から右に折れて石段を降りた所、大の字の登り口の左側に高さ1メートルくらいの男根石がある。

   杉木立に蔽われて鎮座しているこの男根石こそが、もっとも古い性信仰の原形を留めているという。
  
  多くの所で現在祀られている人格神は権力者や宗教と結びついて祭祀されているが、大昔の信仰は自然崇拝であった。

   この男根石は取り締まりが厳しくなった時代に、若干の手を加えて塔に見せかける細工を施した形跡が見られる。

  地元の人はこれをゴモットモ様と言いコンセイサマとも呼んでいる。

 

 
   

 妙義神社の山王猿

 

   神社の本殿に向かって右側、妙義信仰の原初の祭祀場である影向石のすぐ傍に本殿の方向を向いて並んで祭祀されている境内神がある。

  昔は小さいながら、素晴らしい彫刻を施した立派な長屋風の神社であった。

   その一室に他の神々と並べて祭祀されているのが山王日枝神社である。昔はこの山王祠の中には高さ50センチばかりの二匹の山王猿が

  いて、雄猿は白い金太郎風の腹掛けをかけ、雌猿は赤い同形の腹掛けをかけ、両猿ともに、局部を丸出しにして鎮座ましましていた。

   しかし秘神であったからやたらに拝顔は出来なかった。両猿は縁結びの神であり、子授けの神であり、下の病気の神であったから多くの人に

  信仰されていた。

  この山王猿は木彫りに彩色が施され、雌猿の陰裂には真っ赤な朱が塗られている。

  妙義霊山の守護神として山王権現が勧請され、その使い神である山王猿に性神としての任務を付与して、民済に当たらせたものであろう。


 
   

 妙義神社の女陰杉

 

   妙義神社の仁王門をくぐると、左手に古来より大杉と呼ばれるご神木がある。残念なことに戦後の台風によって倒れてしまった。

  この大杉は妙義神社の七本杉の一つで、安産の神として信仰されてきた。

  この杉の前後には大きな裂け目があり。この裂け目が女陰に似ていることから、昔から女杉とも言われていた。

   その裂け目がだんだん成長するに伴って、その前に祭祀されていた稲荷社の石宮を裂け目の中に自然に咥えこんでしまい、

  倒れる前までは、裂け目の間からこの石宮を覘くことができた。

   現在は根の周囲に柵がめぐらされ、天然記念物と記された石碑が建っている。

 

 
   

 妙義山の「大」の字

 

   妙義山は榛名山、赤城山と並んで上毛三山と呼ばれている。九州の耶馬渓とも比較され共に日本三代奇勝とされている。

 妙義山塊の白雲山の麓に妙義神社があり、そこから頂上に向かって小一時間も登ったところに白く大きな「大」の文字がある。

    この通称「大の字」は、大きな岩の上に据えられた「大」をかたどった木製で遠くからも見えるように白く塗られている。

  この「大」は妙義大権現の「大」とする説が一番しっくりするようだ。

  一説には妙義大権現に参拝できない遠くの人がこの「大の字」を遥拝すれば参拝したことになるとされていた。

 

   妙義神社には南北朝時代の公家で、華山院近衛大将だった藤原長親が合祀されている。

 彼は白雲山の麓に移り住み、波己曽神を信仰して祭祀に努め社殿を修理した。彼は和漢の才にすぐれあざなを明魏と号していた。

   この明魏から妙義となったともいう。他に菅原道真が大宰府に配流された時に、丹生村へ来て実相寺を開き、ついで妙義山を開いた。

  このときに仏教の魔訶迦葉を語訳すると妙喜になるところから、妙義になったという。

   また山塊が空に聳ている景色が明明魏魏としているところから妙義になったとする説もある。

 

 
   

 松葉屋のお多福

 

   妙義神社は里見八犬伝にも登場する。大略すると「妙魏神社に参詣し四犬士この霊場を遊覧す」と記されている。

  幕末より明治の中期にかけて、妙義の社家町は安中宿と同じように、女郎屋が軒を連ねていた。

   旅館ひし屋を左に見て参道を登っていくと、神社の石段にかかる直前に「妙義神社」と刻んだ石碑がある。

  その石碑の前を左折すると中の岳神社に至る。この左折する角に茶屋松葉屋があった。

   ここには店先の椅子に腰かけた等身大の着物姿のお多福さんが居た。お多福さんは高価な着物を着て右手には鈴を持ち、

  左手に茶碗を持ち、生きているように思えた。松葉屋はお多福のおかげで代々繁盛したという。

 

  松葉屋は観光ホテルを作って事業の拡大を図ったが失敗し、ついに手放さざるを得なくなった。

  先祖伝来のお多福さんはしばらくは物置で埃をかぶっていた。

  ところが毎晩、元の主人の夢枕に立つようになり、別宅の床の間へと移したという。

  立派な着物を着て、おっぱいなんかも生きている人間と同じにできているし、下の方もどっからどこまで生きている人間と同じように

  できているという。

  手なんかを傷つけると、その人は必ず手の病気を病むそうだ。

  よく若い衆などは、お股などに手を入れて触ったりすると、一晩中うなされて眠れないそうです。若衆たちは、代々お多福さんの陰部にそっと

  触ることを自慢の種にしていた。

 またお多福さんは三年に一度づつ京都から着物を取り寄せて着せる、ご飯も毎日三度三度あげて、まるで生きている人間と同じ扱い、と言われた。

 

 
   

  ひし屋のごもっとも様

 

    妙義神社の参道入り口に赤い大鳥居が聳えている。その参道に向かって左の角地にあるのが、創業文化元年1804年)

  という
「ひしや旅館」である。
   
  ひしやの南側に土蔵造りで高さ2メートルくらいの小祠が建っている。

   その格子戸を開くと中央に「ごもっともさま」と称する高さ70センチ直径25センチもある巨大な木製の男根が鎮座している。

  木質は極めてきめの細かい杉で作られている。

    昔、節分の日には旅館の部屋々へ豆を撒いて歩き、その時、番頭さんがごもっとも様を抱いて来て、高く差し上げて「ごもっともさん!

  ごもっともさん」と掛け声を掛けながら上下させた。

    ごもっともさんを持ち上げるのは、一番年の若い番頭さんで年寄りの人は駄目なんだという。

    社家町の古老は次のように言う。

 

[この付近は女郎屋がいっぱいあって特に明治10年から20年頃が盛んだった。森田、木全、角屋、神戸屋など、絶えずお女郎が10人

 くらいいた。
 だからどの家もお稲荷さんの隣には必ずといっていいくれえ、ごもっともさんが祭られていたねえ。

石製のものもあった。節分の日には、どこの家でもごもっともさんを抱き出してごもっともさんごもっともさん、と掛け声を出して上下して歩い

 たもんだあね。

    わしの家も女郎屋をしていたんで、あったねえ。先祖は昔、長清僧正に随行して来た鶴巻八左衛門だっちゅうことですよ。

 明治初年に石塔寺の役人が廃止になり、仕事がなくなって女郎屋を始めた。お女郎さんは名古屋の方の人が多く、辛抱強くてお客さんには

 うけたらしいやねえ]

 

  妙義の社家町が色街として、参詣人や旅人たちの憩いの町であったあったことが分かる話である。

  たくさんのお女郎衆が、脂粉の香りを漂わせながら、格子戸の陰から客を引く姿が見られたわけである。

    幕末頃には女郎衆ではなく食売女(飯盛女)が見られたようだ。飯盛女は旅客の給仕をするのが表面の任務であったが、その枕辺に

  侍り一夜の旅情を慰める行為をしていた。

    妙義のごもっともさんは、道祖神と金精明神と習合した性神と思われ、節分に室々を回って上下する行事は、その動作においては性行為の

 動作をあらわしたものであり、そこからほとばしる精気により、子孫繁栄と商売繁盛という幸福をもたらす。

 

 
   

 菅根堂(中里)菊女伝説

 

 間口5間、奥行3 間の建物で、沿革について次のように伝えられている。

  「堂内の古記録の写と伝えられるものに、『開祖は不明、寛文10 年1670建立明和2年1765改築嘉永3 年1850改造明治20年1887

 
屋根替』とあり、昭和52年に屋根が銅板葺になり、内部須彌檀が作りかえられている」

 

 毎年10 月16日にお十夜の行事が中里地区の人々によって行われている。

  なお、宗派、本寺は不詳で、本尊は阿弥陀如来(石仏)

   この辺りの字名「菅根」は、平安時代末期に立荘された菅野荘に由来すると考えられる。

  妙義町一帯は中世には菅野荘と言われていた。

 戦国時代末期には高田荘と呼ばれ、近世に入ると菅根荘○○村と呼んでいたことが古文書に見られることから、「菅根」は「菅野」が変化した

 ものとみられます。

   「菊女伝説」にでてくる菅根正治(庄司)の兄弟の子孫が「田屋の家」と呼ばれる藤井家とのことで、屋号の田屋は荘園の荘官を指す語という。

 

 菊女の墓所(市指定重要文化財)

 砂岩製の五輪塔

            

 中里のお菊墓碑

   

 

  「菊女伝説」については幾つかの説がある。大筋は小幡国峰城主の小幡信貞(信実・信真・信定)の寵愛を受けた菊女は、同輩・夫人から

  嫉妬され、殿様の食膳に針を混ぜたとして捕らえられ罪をきせられた。

そして、櫃に入れられ蛇責めにあった菊女は苦悶のうちに死に、小幡家や讒言した者に崇りをなしたので、母や姉妹などとともに小幡宝積寺に

  まつられた。

 

 宝積寺では、菊女が亡くなったのは19 歳で天正14 15869 月と伝えている。菊女の生まれについては、中里村生まれの百姓亦右衛門娘、

 中里村菅根正治の娘、中里村茶屋の娘、神川村
(現神流町)の名主新井右近の娘とする諸説がある。

  菅根正治の娘の説は、信州松代藩士で小幡氏の子孫である小幡龍蟄が安政6 年(1859)に著した『上毛中里菊婦之伝』(藤井侃家蔵)による。

  なお、小幡龍蟄が祖先の旧領地を訪れ、菊女の出所を尋ね墓碑を拝した折に、添碑を建立している。

 

 
   
菅原城

 

  麓からの比高差は約90 メートル、細長く伸びた尾根の先端にある中世の城である。

  馬の背中のような尾根を複数の「堀切」でたちわり、あるいは平坦に地ならしした「郭」をつくっている。

  これらは敵と戦う時の防御が考えられて配置され、一方で攻め込む敵に対しての攻撃も考えられているようだ。

  菅原城は高田氏の城といわれている。

  最近の研究では、高田氏は永禄4年(1561)以降に高田城から菅原城に移ったという見解がある。


 
   

 菅原神社(市指定重要文化財)

 

  かつての菅原村の村社の一つで、天暦4年(950)の創建と伝えられる。

  祭神は菅原道真公で、25 歳の時に自ら彫ったとされる木像が伝えられている。

  「上州の史話と伝説」では、その足跡のついた足跡石も伝わっているとして、3月25日と10月25日の祭日は子供連れでにぎわっていた、という。

  足跡石は縦50センチ、横40センチ、高さ20センチほどの石に童子の両足の跡が堀りくぼめてある。

  この石に墨をつけて紙に刷った護符を、子供の疱瘡除けや雷除けのお守りとして配布したという。

 

  通称は「天神様」で子供の神、学問の神で近在の人々は頭が良くなるように願掛けに参拝した。

  2月24日に行う村の天神講の行事には、子供たちが当番の家に集まり「奉納天満宮中宿子供一同」などと筆写した紙を笹につけ、

  翌25日の午前一時に菅原神社にお参りして拝殿の扉に刺して来たという。

 

  一説に菅原道真が九州左遷のおり、幼子の滋植が道真の陪臣菅根乙彦に伴われて、菅原村に来て自らその像を刻ませ、これに

  道真の霊を併せ祀り、ここに菅原神社がなったという。

  「北甘楽郡史」には菅原道真が25歳の時に、現在の自分像と七歳の頃の像を刻み、前者を河内の道明寺に納め、後者を

  上野国天沼の里
(菅原)に送り、今の神体童子になったという。そして天沼の里を菅根の庄菅原村と名付けたとしている。

  また南蛇井の實相寺縁起では、道真の師である法性坊尊意僧正が上野国に来て妙義山を開き、道真の七歳の像、三歳の像を刻み

  菅原村に祭り菅根神社と称した、としている。

 本殿の構造は三間社流造りの形式で、屋根は身舎(もや)に千鳥破風、向背軒唐破風が付き、現在は銅版葺で、もとは茅葺であったといわれている。

  また、身舎と向背は海老紅梁で繋がれています。本殿の建物は寛政8年(1796)に落雷のために焼失し、その後、領主松平氏により再建された。

  内部に架けられている錦旗には、文政5年
(1822)の墨書銘があり、建物の細部の様式からもその頃の建立と考えられる。

  尚、同社には道真公幼少時代の足形といわれる「御足石」という石が残されている。

  千鳥破風鬼板の鬼面彫刻は、類例の少ない珍しいもの。

  鬼板の背面には、延享4年
(1747)の銘があることから、焼失前の鬼板を再利用したと考えられる。

  また、外部板壁の彫刻は「波間に扇」で、妙義神社本殿の影響を受けていると見られ、類似建築としての価値がある。

  彫刻や細工がしっかりしており、江戸後期の神社建築様式をよく表している貴重な文化財です。

 

 上野国風土記も次のように記す。

菅原天神 旧記にいう、江戸亀井戸の妙義縁記に由縁事詳かにありという。

   推古天皇の御世にこの山に七歳の童子一人仮現して民家に養育て古代より

霊を崇め奉り上野天神と申すなり。

 

  菅原すがわら神社の大ヒノキ (県指定天然記念物)

 

  樹齢は推定で800~900年で、樹高約35m、樹幹約22m、目通り5.75m、樹勢旺盛。

  県下最大で、ヒノキとしては唯一の群馬県指定。古来より、天神様が降臨し、神の宿る木といわれ、天神様のご神木として長寿祈願の

  信仰を受けている。

 

  十一面観音菩薩穂碑(市指定重要文化財)

 

   菅原の波己曾神社跡地にある。高さ117センチ。鎌倉末期から室町初期の特色あり。

 

   女神像碑(市指定重要文化財)

 

    菅原の波己曾神社跡地にある。高さ77センチ。

  南北朝時代の永徳(北朝)2年1382年)銘あり。

 

 
   

 菅原の石仏

 

   菅原にはこのほか、県道沿いに庚申塔、馬頭観音、道祖神、青面金剛などの石仏が六基ほど並んで佇んでいる。

  青面金剛は仏教の守護神で主として怒った形相をしているが、菅原のものは文字だけで下部は埋もれており、元文5年
1740年)の銘がある

 

                        石仏群

  

                                         

  この石仏群について「ふるさと歴史ウオーク」(文化財保護課)には概略次のように記されている。

 

 

 

  庚申塔

 

  庚申とは干支であり、こうしん又はかのえさる、と読む。

  60日に一度巡ってくる庚申の日の夜に眠ると、体から「三尸」という虫が飛び出して天帝にその人の悪事を告げると信じられていた。

  そこでこの夜には三尸が体から出ないように、皆で集まり飲食しながら徹夜するということが行われていた。

 この行事を記念して庚申塔が建てられた。

 

 

 青面金剛

 

 青い体に手が2本~6本あり、三つの赤い目を持ち髪の毛が逆立つ容姿の仏教の守護神で怒った形相をしている。

  庚申信仰の仏教的な本尊として信仰されていた。

  
(神道的な主尊は猿田彦)石仏としての青面金剛は姿形を表現したものの他に文字だけの文字塔も多く作られた。

 

   道祖神

 

  悪い「こと」や「もの」が村に入ってこないように村境などに建てられた。

  交通安全や道路を守る意味も加わったようだ。姿形を表現したものでは、2体が並ぶ双体道祖神がある。また文字だけの文字塔もある。

 

   馬頭観音

 

  菅原の馬頭観音は寛政4年(1792年)の建立。頭に馬の顔があり、怒った形相の観音菩薩である。

  顔が一つで手が2本の姿や、顔が三つで手が6本の姿が多い。文字だけの文字塔もあり、道しるべを兼ねていた。

  馬頭観音は馬と人の道中を守るとされていたことから道しるべと結びついた、という考えがある。

 

  その昔、菅原には石塔寺の末寺の菅應寺が存在していた。菅應寺は小児天神(菅原道真の子息か)が出生したという伝承を持っていた。

    菅原に残る伝承では、菅原神社に天神様七歳の時の足跡のある石がある、妙義に硯水というところがあり、天神様がその水を使って

   勉強した、天神様の叔父さんを祀ったと言われる小さな森のオジガ様へ獅子を奉納した、などの話がある。

 

   薮塚喜声造氏によれば「右大臣菅原道真は延喜元年に九州へ流された際に家族は散りじりに都を逃れた。

  そのおり菅根庄から道真に仕えていた若者が、道真五人目の滋丸三歳を背負って比叡山に逃げ込んで、何名かの僧兵に守られ菅根庄に

  落ち延びて来た。このような歴史があるので、妙義山に菅原道真の伝説が今残っている訳である」

   「菅根庄で立派に成長した滋丸は都に上り、朝廷に仕えて立派な学者になったという――中略――父道真に勝る学者なので天皇は常に彼を

  可愛がった」と述べている。

    今では菅應寺の存在について知る者は居ないようだが、筆者は密かに同寺は菅原神社の辺りにあったのではと考えている。

   

 
   

 川後石

 

  地名の由来ともなった川後石は、県道が妙義町の北山から下仁田町との境となる杉の木峠へ向かう菅原の宿から、緩やかな坂を上り

  城山
(菅原城)を大きく迂回する東側の高田川右岸にある。

  菅原と大桁山とを区切る所にあり、七日市の前田藩と菅原神社領との境界ともいう。地名の由来となった川後石は天神様がお駕篭に

  乗ってきて休んだので篭石、また天神様が子供の頃に石の上へ籠を置き遊んだので籠石といい、のちに川後石となったとの伝承がある。

   「妙義の民族」によれば、天神様には二十五人の子供があり、七歳の童子が島流しになって菅原に来た。

  菅原神社に七歳の時の足跡のある石が残っている。菅原神社のご神体は道真公の七歳の時の少年姿であるという。

  川後石は昔天神様が子供の頃休んだ石という。また妙義に「硯水」という所があり、天神様はその水を使って勉強したという。

 

  菅原神社元宮司の中沢成年氏によれば、「子供の頃に川後石の上で遊んだ。

  両脇に夫婦松と呼ばれた巨木があったが虫枯れにより切り倒された。川後石は神が降臨する磐座で夫婦松に注連縄が張られ、禊
(みそぎ)など

  の神事が行われたのであろう」とのこと。

  荒れた杉林の中を丁寧に歩いてみると、川岸の近くに上面が平らで縦約2m、横約1.4m、厚さ70 ㎝以上、やや斜めに傾いた川後石とも思わ

  れる大きな石があり、その北側に朽ち果てた大木の切り株がみられる。

 

  川後石は神が籠もる神(ごも)り石が転訛したともいわれ、菅原天神を祭る菅原神社やその西北方にそびえ立つ金鶏山との関わりが考えられる。

   一説では、祭りの時に村人がここの小川で心身を清めて西方に聳える金鶏山から、この石の上に天つ神を迎え降ろして祭式を営んだ磐座で

   あったという。

  天神の降臨を迎えた石が後に天神の乗り物を置いたカゴ石という伝説に変化したものと推敲している

 

 
   

 磨墨神社(下高田)

 

   源頼朝の愛馬「磨墨」を祀った神社で大正時代に伏見神社に合祀された。磨墨は大桁山の生まれであるが、頼朝の愛馬として有名になった。

  戦いで敗れた後、故郷に帰ろうとした磨墨は、高田川まで来てついに力尽き山の方を向いて死んだ。

   高田川には、その土手にかけて磨墨が足をかけたという馬蹄形の割れ目をした磨墨石が転がっている。

  この原石は菅原ダムの下から水が出たときに下流に流されたものである。

  ここは磨墨が飛び上がって嘶いた後に死んだ場所なので「嘶」という地名になり、磨墨の墓も高田にある。ちなみに高田を拠点とした高田氏は

  史書吾妻鏡にもその名が表れている名族である。

  下仁田町馬居沢から登った所に駒形神社の奥の院がある。

  小さな石宮が大岩の上に祭られているが、この大岩に名馬磨墨の足跡があると伝えられている。

  馬居沢の農家の人が山へ草刈りに行き、野馬が一頭現れた。真っ黒な毛並みの良い素晴らしい馬なので夢中になって追いかけた。

  一日中追いかけたが馬は身軽く跳ねて山を越え、谷を越え川を渡って大桁山の麓まで駆けていき見失った。

  探し続けて翌々日に大桁山に行くと、名馬と思った高田村の人が大勢で探して追い回しているところだった。

 

  大勢での追跡に馬は、ついに中小坂の馬落としという所で捕らえられた。この馬は馬山の黒内村で生まれたもので、親にはぐれて山また

  山を越えて、馬居沢に辿りつき、大岩の上で母馬恋しさに鳴いていたものらしい。

  高田村の人々に飼われていたが、名馬として評判になり源氏の身内の者が聞いて源頼朝にも伝わり鎌倉へ送られた。

  磨墨は合戦の際などに活躍していたが、年取ってからは故郷が恋しくなり、大桁山に向かって逃げ出した。

 

  鎌倉からの知らせで村人たちは何とか磨墨を引き留めようと待ち構えていた。このとき、磨墨が飛び越えたところを「駒寄」という。

  磨墨は更に中里の方へ走り、古立に通じる坂道まで来て深い淵に突き当たった。

  磨墨は疲労のあまりか大桁山に向かって悲しくいなないた。

  そこを「いななき淵」と呼んでいる。馬首をめぐらして高田村の真福寺まで走った所で、磨墨は前足を静かに折り大桁山の方を向いて息絶えた。

  村人はねんごろに埋葬してそこを磨墨神社として祭った。
  

 

   上州は馬の産地でもあったことからか、妙義神社の宝物に銅製の馬二頭があり、その年々によってどちらかが仁王門の次の神札所の奥に

  安置される習慣になっている。平穏無事な年には白い馬、そうでない年には青い馬が出るという。

   その年々の神社の守りと使者の役目を果たすと伝えられている。この神馬は威勢よく片足を上げて飛び出す姿勢になっている

 

 
   

 弘法の井戸八木連)

 

   弘法大師が大久保に来られた時に、村人が水に苦しんでいるのを見て、持っていた杖を突いて井戸のありかを教え、こんこんと湧き出した

  水源に金の独鈷を埋めたところ枯れることのない井戸になった。

   昭和26年に水道を作ったが、水源は弘法井戸とした。

  この時、水源を掘ってみたところ、石櫃が埋められその中に独鈷
(金ではなかった)が納められていた。

   弘法井戸に並んで弘法池がある。弘法池の鯉は片目だという。

 

  ツキヌキ沢(行沢)

   弘法様が来て大桁山に千谷あれば高野山を移そうとした。○○ババアが隠したので千谷は分からなかった。

  弘法様が確かに千谷あるはずだと杖を突いたら水が湧き出した。良い水がでるので水道の水源地になっている。



 
   

   鳴沢不動尊(上丹生)

 

   大桁山には千谷あって、弘法大師がここに高野山を作ろうとしてやって来て、谷数を数えたとき、妙義山の天狗がそれは困ると言って

  一谷隠してしまった。

   それで不動さんが怒ったので、、それじゃあ何にでもなれと言ったら「ナルサ」と言って鳴沢不動尊になったと言う。

   これによく似た話は沼田市にも伝わっている。 

  やはり弘法大師が、寺を作ろうと思って来た際に、千谷あった谷を一つ隠してしまう話である。そこは隠し谷と言われるようになった。

 

 

  天狗の作ったお道具(大桁山)

 

   弘法様は寺を作る土地を探しに来られ、大桁山を候補にしていた。

  これを聞いた妙義に長く住んでいる天狗たちは、昔からの遊び場がなくなってしまう、と集まって相談し一谷を埋めようとしたが、犠牲が出る

  などしてうまくいかなかった。

  再び相談した結果、坊さんは女性を避けるというので、女のお道具を作って置くことにした。

   天狗たちは女のお道具を七つ作って山に並べて置いた。やって来た弘法様は驚いて一谷数えなかった。

  あきらめて帰った弘法様は高野山を開かれた。天狗たちはお祝いして盃を投げた。大桁山の三俣のところにある盃石がそれである。

  女のお道具は「大桁山のサネ石」と言い、今も三つが残っているという。

 

 

 
   

 古立の由来(古立)

 

  古立は古館で景行天皇の御代に、坂上田村麿が来て館を築いたところという。村には田村姓が多く二十八軒もある。

  本家田村秀一宅には当時からの系図がある。

 

 

二つ岩(行沢)

 

  行沢の高田川に大きな岩の深い淵があり、一ッ岩、二ッ岩という。二ッ岩から鳥居を流したら小坂の「クモが渕」に浮いたという。

  また鶏を向うから流したら三日目にこっちに浮いたという。

   筆者が昔聞いた話では、二ツ岩の穴に鶏を追い込んだところ、松井田の碓井川の天沼の辺りから件の鶏が出てきた、となっていた。

    また別の伝承では鰻が出てくる次のようなものである。

 ある時、村の若衆が水を汲みだしたところ、掌くらいの耳の巨大な鰻が岩の根から飛び出し、堰を破って岩の下に姿を消した。

 翌朝早くこの岩に一本の紐をつけた一羽の鶏が止まっていて、前日鰻が飛び出した岩の根につながっていた。

      調べてみると小坂村蜘蛛が淵近くの百姓が、そこの蜘蛛に食わせようと紐をつけて淵に投げ込んだものと分かった。

 二ツ岩と蜘蛛が淵は繋がっているのである。そして蜘蛛が淵の主は蜘蛛で、二ツ岩の主は鰻というようになった。

    (中小坂の蜘蛛が淵は瓢箪形で深さは十数メートルもある)

 

 
   

  八城の八塔石紅地蔵

 

    元禄12年(1699)9月、八城村の名主藤右衛門をはじめ小幡領14ヶ村の代表8名が出府し、藩主織田越前の悪政に苦しむ農民を救うため、

   直訴を強行した。直訴は目的を達し、農民は救われたが、8人の代表は「所追放」となり帰らぬ人となった。

    そこで村人達は、この義人の恩に報い、その霊を慰めようと八塔石地蔵尊を建立した。元禄15年9月のことである。

  ある時、村の女人が地蔵尊に紅粉をつけて(紅絶ち)病気平癒を祈願したところ、たちまち全快した。

  それ以後「紅絶ちの祈願」をするものが後をたたず、ついに全身紅粉に染まり、紅地蔵と呼ばれるようになったという。

  今も霊験あらたかである。

                                                 

   元禄12年1699年)、小幡藩上郷村々のうち、甘楽郡菅原村や碓氷郡八城村など14ヶ村の代表者8人が、幕府老中に駕籠訴をした。

  その内容を要約すると、菅原村など14ヶ村6200石余の村々を、小幡藩領から幕府直轄領に変更してほしいということであった。

  小幡藩は2万石の小藩であるのに、藩主織田氏が名門であることを理由に、城持大名の格式が許されていたので、藩の諸経費は年毎に

  増加し、元禄以前から財政破綻の状態に陥っていた。

  この状況から抜け出そうとした藩は、農民の負担を一層強める政策を執り、その一つとして年貢の増徴を行った。

  例えば領内の甘楽郡轟村の畑年貢を見ると、寛永17年
(1640)から元禄15年(1702)の約60年間に著しく増加し、上畑の

  永
(年貢高を永楽銭に換算した表示のこと)205文取りが元禄15年には永300文取り、中畑の190文取りが270文取りとなっている。

  これを直轄領の山中領楢原村と比較してみると、同じ元禄期に上畑が200文取り前後であったことから、その差はかなり大きいといえる。

  それに加えて藩は、田畑年貢のほかに真綿・大豆・萱・苧殻・薪・紙・小麦などに掛物と称して税を賦課し、さらに高1000石につき何人という

  夫役、いわゆる千石夫を農民に押し付けていた。

  これらの点から14ヶ村農民は、小幡藩から離れて直轄領にしてほしいと願い出たのである。

 

  また、このような状況下にある14ヶ村に碓氷郡坂本宿への大助郷が、元禄7年(1694)に命じられたことも要因の一つである。

  村々は、この義務を忠実に果たしてきたが、年々増加する年貢や諸掛物などのため、ついに負担が限界に達し越訴に踏み切ったのであった。

 

             八城八塔石紅地蔵

 

  農民の強い願望を担って出府した菅原村の十右衛門たち8人の代表者は、小幡藩の苛政を直接訴えないで、坂本宿の助郷免除を理由と

  して領地替えを願い出た。それは、万一越訴に失敗しても代表者の処分が軽くなると予想したからであろう。


   新田 岩松 薮塚史によると、八人の代表者は夜に十二村の正国谷寺に集まって相談したという。

  4月25日、鹿島参りに行くと称して、十右衛門と甘楽郡諸戸村の紋右衛門、十二村の八郎右衛門の3人が江戸へ向かった。

  それに続いて残りの5人も次々と出府した。そして幕府の道中奉行へ訴え出たが、訴状の受け取りを断られたので最後の手段として老中に

  駕籠訴したのである。

  その結果、老中が国元での審議を命じたので、農民は小幡藩と交渉することになった。

  その後両者の間では、何回かの交渉が繰り返された。そして、田畑年貢は一割引で定免とすること、救助金を藩から農民に貸与すること、

  掛物は3ヵ年免除することなどで妥結した。

  しかし領地替えは実現しなかった。この時8人の代表者は、幕府から小幡藩預けとなったが、妙義山ろくに幽閉されてそこで生涯を終えたと

  いわれており、彼らの献身的な行動に感動した人々は、元禄15年9月に八城村の吉祥寺境内に一体の地蔵を造立した。

  
新田 岩松 薮塚史によれば、小幡藩内では死罪を予定していたが石塔寺の大僧正が藩主との交渉に乗り出し、領外追放の刑に減刑されたという。

 

              境内

  

 

   後年、重い病気に掛かった村の娘がこの地蔵に病気平癒の願いを掛けたところ、たちどころに直ったので、お礼として地蔵に赤い化粧を

  したという。以後この地蔵は「紅地蔵」と呼ばれるようになり、人々の信仰を集めた。

  さらに紅地蔵のかたわらに安政3年(1856)10月建立の御神燈があり、またその前に手洗いのたらいがおかれ、「八塔水」と刻まれている。

   八塔は「発頭」、或いは「八頭」の意味を持ち、8人の代表者を意味するという伝承も残されている。

  これら8人の代表者の業績をひそかに、そして末長く伝えようとした農民たちの苦心の作であった。

  このような領主の悪政を訴える代表越訴で成功した例として、宝永6年1709年)5月の総社領農民の闘争を挙げることができる。

  いわゆる総社騒動である。そのほか上州の各地に代表越訴の事例が、数多く残されている。                       

 

 
   

  中の岳神社の仙人

 

  奇岩の連なる妙義山には天狗の伝説がある。山中に住む天狗は峰から峰へと渡り歩き、時には人里へ降りてきて子供をさらって行くと語ら

 れていた。天狗は赤ら顔で高い鼻をして羽うちわを持ち、山上にいて七里も先のにおいを嗅ぎ分け、たちまち飛来して子供をさらう神通力を持って

 いるという。

  一本歯の下駄をはいた天狗は、子供を食べてしまうと言い伝えられ、子供達は大人達から、「言う事を聞かないと妙義のお天狗さんが来るぞ」

  という一声に泣き止んでおとなしくなってしまったという。

 

  金洞山の麓にある中の岳神社の真上に聳えたつのが朝日岳で、近くには中の岳の開山と言われる長清坊のこもり岩という岩窟がある。

  長清坊の俗名は加藤長清といい小田原の北条氏に仕え軍師として活躍した武士であった。

  殺害された父の仇を討とうとしたが、敵が強すぎて討つことは叶わなかった。そこで彼は中の岳の岩窟にこもり剣術の修行に努め、ついに

  剣術の奥義をきわめることが出来た。

 

  こうして仇を討つことに成功して望を達した後、仏教に帰依して世の人を救おうと決心した。

   そして岩窟に戻り朝に夕に経を読んで修行を積んだ。

   外に出るときは鉄の杖をついて、鉄の下駄を履いて、険しい山を登り、深い谷を渡るのが平地を行くようであった。

  その伝わってくるイメージは天狗の姿と重なる。やがて長清坊は中の岳神社の中興の祖となり、148歳の長寿を保ってこの岩窟で往生した

  という。現在も墓碑が立っており、鉄下駄も神社に残っている。

   長野県臼田町には彼の子孫もいるという。

 

  長清坊は一頭の牛を飼っていて、衣食が不足するとその牛を使いに出して松井田から材料を求めた。

  牛は角に竹筒を下げており、村人は牛が来ると竹筒の中の書付を読み不足している物を牛の背中に括り付けて神社に帰したという。

  尚、これによく似た牛の話は宝積寺にも伝わっている。

  松井田横川にも長清坊の活躍が伝わっている。碓氷定光が竜駒山に乗り捨てた馬が、昼夜出没して作物や人畜に害を与えた。

  このとき金洞山巌光寺の長清坊法印がこの馬を法力で絶壁に封じ込めた。そこでこの山は竜駒山となった。

 

 
   

 天狗堂の大草鞋

 

     白雲山の、右肩の部分に相当する突出した岩石の下の、山麓の杉木立に囲まれた大沢山の頂に「天狗堂」と呼ばれるお堂がある。

  ここは海抜五百メートル位の高さであるが、その下を流れる大沢といわれる谷川一帯には蝮が住んでおり、人が殆ど近寄らない場所である。

     付近一帯には数千貫もある大岩がゴロゴロと散在し、真っ黒に焼けた巨岩が不気味な感じを抱かせる。

  そこの一番高い岩山の上にある天狗堂は、全くその名にふさわしい環境である。こんな状態だから天狗堂を訪う人は皆無といってよい程で、

  全く忘れ去られた存在である。

  このうす暗い堂内にはびっくりする程の大きな「わらじ」がぶら下げてあり、それが堂の本尊様である。

 

    高さは約三メートル、巾約一メートルもあり、麓の里人達が供えたものと伝えられている。

  これは昔々、妙義の天狗が毎夜山中を舞い歩き、里にも時々現れるが、ある時、この岩石の遊び場で、大小様々な天狗供が大会をやって、

  明け方近くになったとき、この巨岩の頂上で一休みしていたものを除いて、殆どが山中に引き上げていったのに、どうした訳か、その一羽の

   天狗だけが遊び疲れて一眠りしてしまい、遂に日の出を山麓で迎えて、肝心な下駄を他のいたずらな天狗達に持ち去られたために踏切って

   飛び上がることもできず、羽(ばた)きの「うちわ」も失って困っていた。

     丁度その時、山仕事に出た働き者の山男がそばを通りかかって、話に聞いてはいたが見たこともないお天狗様を見て、ビックリ仰天、

  あわてて逃げ出したところ、天狗の強い鼻に押さえられて、履いていた「わらじ」を取り上げられ青くなってふるえていた山男に、

   「お前の履物をもらうぞ、その代わり命はかんべんしてやるから、この後はこんなに小さい物でなく大きな履物を供えておけ

 

      と言い残してバタバタと空高く舞い上がって行ったので、山男は早速何日も何日もかかって巨大な「わらじ」を作りお堂を建てて、その中に

  奉納して天狗の難をのがれるように祈願した。

    その後、何回かその「わらじ」が失くなったので、その度毎に大きなものに作り変えて遂に前記のようなものにしたら、それ以後は失くならず

    に供えたままになったが、里の人々の難もなくなったといわれている。

   その頃は毎夜のように、この天狗の遊び場で羽搏く音や、天狗供の叫ぶ声が聞かれ、一種いいようのない気分が漂っていたという。

 

 
   

  大黒さんの滝

 

   この滝はぶどう園から中の岳に登る途中にあるが、元々妙義山はその山の性状から水の多いのが特色で、この面で観光的にも大きな

  マイナスになっている。そうした中でこの小さな滝は珍しい存在であるが、これに大黒滝と名のついたのには訳がある。

   小坂村の神社として、祭られた中の岳神社の祭神といわれる大黒さんと俗にいう神様が、昔々信州荒船方面から来られた時、妙義山には

  水がないために人々が苦しんでいることを知り、人々の幸せを願って山に向かって祈ったところ、急に雨が降り出して大雨となり、遂に滝となって

  滴り落ち、それ以来涸れる事なく細々ながら水流を作ったといわれている。

    人々はその有難さを忘れず、大黒様を祭ったというが勿論真偽の程はわからない。

  水田用水の不足に悩む人々が大黒様の恵みで、水を与えて下さるように祈願しての事と思われるが、表妙義では珍しい滝である。

 

 

 中の岳の一本杉

 

      中の岳の見晴台に見事な一本杉がある。相当高い所に杉が育ったのは珍しいことで、十五キロ以上も遠くから山上の空に浮かび上がって

    見えるほどである。

    その昔、大道寺駿河守が、小田原北条氏の一翼として碓氷峠の押さえに松井田城を守っていた時、豊臣秀吉の命を受けた上杉、前田、

    真田等の甲信越軍勢が小田原攻略の本陣の別動隊として、松井田城攻撃に当たった。

   その時、守備隊の見張り役をした者達が、この一本杉の所で碓氷峠の裏街道といわれる和美峠越えの敵軍の到着を知らせるために、

     のろしを上げたといい伝えられている。

 

     勿論松井田城は大軍の前に陥落して、この一本杉の所でもこぜり合いがあったとも伝えられているが、真偽の程は明らかでなく伝説として

    残っているに過ぎない。

   然しここは見晴らしが良く「のろし」を上げるには適した所であり、ここに腰かけて往時を思いながら涼風に吹かれていると懐かしい感慨に

    耽ることができる。

 

 
   

 大牛の大通竜さま

 

     大牛部落のバス通りから南に200メートルほど入った桑畑(当時)の中に、直径8メートル高さ5メートルほどの巨大な岩石がある。

  大きな牡牛がうずくまっているような形をして跪坐している。

     この巨岩の頂上に高さ約1メートルの石殿が建立されている。

   そのすぐ傍には笠と火袋を失った石塔龍が、ピサの斜塔のように傾いて建っている。両者とも摩滅がひどく刻まれた文字の判読はできない。

    付近に住む人の話は次のようなものだ。

 

       この大石のある桑畑の地主さんは、松井田町で洋裁学校を経営している児玉先生ですよ。

 同じ組だからいまでも行き来はしていますがね、大通龍さまが何の神様だか、全然知らねえやね。

 うちの爺さんが生きていりゃあ、いろいろ知っていたんだが、わしも余りよく聞いてなかったもんで…。

      大通龍さまは、この辺の人々は「大通」さまと呼んでるようですが、松井田の小日向や大久保、安中の下磯部にも祭られていて、

 どこでも「大通龍さま」と呼ばれていますよ。ご神体は男根で、子授け、安産、下の病とされているんですよ。

     おがんしょ果たし(解願?)には、木製や石製の男根や、紅白の旗をあげるところがありますよ。

      そういやあ、わしがまだ小さい頃、赤いふんどしが幾つもあの石宮の廻りに縛り付けて奉納されていたのを覚えていますよ。

 

   古老の伝えによると、子供の欲しい婦人は、大通龍さまに願をかけてから、この巨石の突起に女性自身をこすりつけることにより、

  子宝が授かるという。

      明治の初年の頃までは、オガンショバタシに奉納されたたくさんの男根が供えられていたというが、その頃出された太政官の布告により

  処分されたに相違ない。その後、奉納するものは男根から赤や白のふんどしに変化したものと思える。

     しかし、時は流れそのふんどしさえ忘れ去られ、大通龍さまとは何の神か、その神の性格霊験さえも忘れ去られよとしている。

 

     多分「大牛(オーシ)」の地名の起源は、大牛ではなく、巨石信仰からきた大石であることに間違いなかろう。

  大久保清の先祖の出生地は、榛名町大字上室田大石
(オーシ)で現在ここに巨石がありその傍に大石神社が祭祀されている。

     北甘楽郡史は「小牛は小ウスで、日本武尊の小碓命からとったオウスではなかろうか」という。

     また一説に、妙義神社や菅原は天神様との縁が深く、天神様の使いとされる牛とは切り離せない間柄にある、それ故、大牛の文字を当てた。

     しかしこの両説ともに後の附会でありオーシ(大牛)はあくまで大石の転化である。

 

 
   
小日向の大通龍さま

 

  この大通龍様には、よく似た話が松井田の小日向と土塩にも伝承されている。

  小日向
(おびなた)の伝承を尋ねると大通龍様の名前の由来が浮かび上がってくる。

  小日向は松井田の東北裏にあたり、松井田バイパスの陸橋際より、湯の川温泉前の県道を北に下り、旧九十九村の国衙の十字路を

  右折し、姥堂橋を渡った所である。

      ここの村社、日枝神社の境内の北端に間口一間、奥行一間半の小祠があり、これが性神大通龍大権現さまである。

  鞘堂の格子戸から中を覗けば、石製の巨根がずらりと並んで厨子を囲んで立っている。

  元は小字上野の部落に祭られていたが、明治初年の神社統合によって、現在地に移された。

  安中マラソンで有名な安中藩主、板倉勝明が編纂した「安中志」にも「大通龍権現 祭神不分明 除地森 農民喜兵衛持云々」と記されている。

      安中藩主をはじめとして安中、松井田、妙義、阪本、板鼻からも、下の病の信者がひきもきらず参拝に訪れた。

 特に商売柄か女郎衆や飯盛女たちの信仰を一身に集めていた。その伝説をかいつまんで記せば次のようなものである。

 

     この地、上野を訪れた旅人に、巨大な男根を持つが故に嫁をとれないお金持ちがいた。

  彼は自分の男根を納めてくれる、巨大な女陰を持つ女性を探して諸国巡礼の旅をしていた。

 上野部落に来た彼は一夜の宿を借りた農家で、その悩みを打ち明けた。農家の老母は嫁に秘策を授けてそそのかした、旅人に同情もして

   いたその家の嫁が、秘策
(桧葉の葉を煎じた湯につかり)を用いて巨大な男根を受け入れることに成功した。

 この家の主人は伊勢参りに出かけていて留守だった。

 

     旅人は感激して翌年また上野村を訪ねて来た。そこで真相を知った嫁の主人に詰られた嫁は首をくくって自殺してしまった。

  それを聞かされたお金持ちの旅人は一家の幸福を破壊してしまったことを深く悲しみ、「わてを神に祭ってくれれば、腰から下の病や

  不具に苦しむいかなる患者も癒してしんぜよう」といい残し、後追い自殺をしてしまった。

  哀れに思った村人たちは、この大阪の商人と妻女の霊を神に祭って小祠を建てた。

  龍のように巨大な一物と、それを楽々と通した女陰にちなんで、大通龍さまと称して、信仰を怠らなかった。

  願掛けをして病気が治ると解願
(ガンバタシ)には木や石で男根を作り奉納した。

 

 
   
下大久保の大通龍さま

 

     松井田の土塩といえば、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」のロケ地になり、渋沢栄一の生家としてのセットが建設され、見学者も沢山訪れた

 場所である。その土塩の下大久保にも大通龍さまが祭られている。

      旧細野村の中央にある幼稚園の、向かい側の道路端に山の神の小祠が建っている。

  昔は大きな神社であったというが、道路の改修により二度も移転され、そのたびに小さくなった。

  この山の神の右側に絹傘様と並んで大通龍さまと称する自然石のリンガが建立されている。

     本体は高さ90センチ、直径は40センチの巨大な逸物である。大通龍さまは腰から下の病をよく治してくれるし、子供のない人には子供を

  授けてくれる、願が叶えば白いサラシの褌を納めるという。

      大通龍さまの霊験と、産婆の名人とのお蔭でこの村ではお産で死ぬ人は一人もいなかったという。

  ここから4キロほど離れた下増田の、上野山の山の神さまのご神体は石のリンガである。同様に上増田の落合にも大麻良さまがある。

     こうしたことから、下大久保の山の神神社のご神体は男根であったのではないかと思われる。


 
   

  諸戸の吾妻屋さん

 

       諸戸部落の中央近くに入り、右手に随應寺を見ながら行くと左手に妙義小学校がある。

  小学校を過ぎて少し行った所に「大杉」と呼ばれている杉の大木がある。この大杉の奥に、子授け・安産子育ての神「吾妻屋さん」の社祠がある。

       昔はこの神社は波古曽神社で、祭神は日本武尊であったが、老朽して倒壊してしまった。

  この為、金鶏山の中腹、紅葉ラインの直下にあった吾妻屋神社を合祀して社名を吾妻屋神社とした。

      吾妻屋神社の祭神は弟橘姫命である。北甘楽郡史には次のように記される。

 

      里人は吾妻神社と呼んでいるが、鳥居には「吾妻屋神社」とあり、元は吾嬬者耶神社と言うべきを訛り来りてかく呼ぶものと断定できる。

社殿の建築は敢えて壮麗ではないものの、村社としては決して他に劣るものではない。その奥宮は、尚登ること数町なる一峯のうえにあり。

       一小石祠を建つ。刻するに「文化五年六月十五日石宮再建、松井田講中」とある。

東南は武相連山より常陸の筑波山を望み、東北は下野・越後の諸峯を一望にす。

 「吾嬬者耶」の社名とこの展望は、祭神の弟橘姫の名を思い合わすとき、日本武尊の御足跡は、或いは此の峯頭に印されたのではなかったか。

 後人よく研究せんことを望む。

 

      このアズマヤサンのご神体は逆ハート型の板に円形の穴を穿ったもので、女性の性器、或いは産道を表徴しているものと思われる。

 吾嬬者耶神社のご神体は、自然崇拝にして、その大元は中の岳の石門そのものがご神体であったといわれる。

  妙義山の石門は四つあるが、即ち玉門、陰門などと言われる女性器を現わしているものであり、古代の性器崇拝・性神崇拝の源流を留めている。

   
  アズマヤサンのご神体もその石門をかたどったものであり、その霊験は子授け・安産子育てにある。

 

 特に虫切りには効験があったという。この神社から虫切用の鎌を借りて帰り、虫が切れると鎌を倍にしてお返しをするという。

 また命綱を借りて帰り、子が丈夫に育てば、命綱を倍にして返す風習も残されている。

 性神崇拝も後には日本武尊を人格神として配し、その結果として波古曽神は本来の信仰の意味は失われ、火伏の神として信仰されるようになった。

 二歳になると囲炉裏に落ちて火傷をしないよう波古曽神社にお参りをする。

現在ではハコソサンとアズマヤサンが合併したため、両者の信仰が混じりあっているものと思われる。神社入り口のご神木の大杉の樹齢は五六百年はたっているものと思われるが、右側の大杉は台風で倒れてしまった。

 

 この御神木は女陰杉であり、根元に大きな陰裂を持ち、中にオッカドで作られた棒(男根を模した?)を差し込んであった。この杉も安産の信仰を持ち、願掛け

 する人があったというが今その風習は絶えている。

  左の大杉も残念ながら老朽化している為に切り倒す予定という。

  神社総代の人は、昔はこの杉の木から神社まで市がたって、屋台や神輿も出て盛大で賑やかだったという。

 

 
   

  菅原の道祖神ねり

 

    妙義山周辺は地形的に見ても、穴居時代から人が住んでいたようでそれは発見された遺跡や遺物からも容易に想像できる。

  それだけに原始的な信仰の遺風や習俗が数々残されているのは当然といえよう。

      菅原には菅原道真公を祭神とする菅原神社がある。菅原神社の創建は950年といわれ、御神体は菅原道真が自ら刻んだ25歳の時の現像と7歳の時の像を

 前者は河内の道明寺に収め、後者を上野国天沼の里
(菅原)に送った。現存する童子天神がそれであると伝えられている。

 

     これに似た話は南蛇井にも伝わっている。同所の実相寺の縁起によれば、道真の師である法性坊尊意僧正が、訳あって上野国に来て南蛇井の実相寺を開き、

  次いで妙義山を開いたという。

      その時、尊意は道真の7歳の像と3歳の像を刻み、前者を菅原村に祭って菅原神社とし、後者を実相寺の境内に祭って天神社として崇めたという。

     また一説に道真の幼児滋植を随臣の菅根乙彦が、密かに伴って菅原村に隠れ住んだ。その時、自らの像を刻ませて、これに道真の霊を併せ祭ったものである

  という。

     或いは、滋植が流されてこの地に来たものを土地の人、菅根乙彦がよく援助した。

 その後許されて京へ帰ってから、肖像を刻ませてこれを御神体として、道真の霊を祭り菅原神社を創建したともいう。

 

     その名が現れてから千余年の歳月を醸した菅原の小字・宿に「道祖神ねり」の奇習が代々受け継がれてきたのである。宿(しゅく)の古老二人はいう。

 

       道祖神ねりは、昔は毎年やったんだが、この頃はしねえねえ。

  道祖神ねりがある日は、正月15日のどんどん焼のあとするんだあね。

  祝い事のあった家じゃあ、朝早くから高崎まで汽車に乗って、うんと刺身を買ってくるんですよ。

       多い年は25~26軒もあったから、練り歩くんも大変だったよ。

       道祖神ねりというのは、世話人の中からシントウさん(夫)と嫁さん(妻)の一組が道祖神さまで、他に提灯持ちを選び、丸屋の家で仕度をしたあね。

   シントウさんは神主と同じ仕度をしてゴヘイを持ち、嫁さんは赤い長襦袢を着て、アネサンかぶりをして、でっかいオタカラ(男根)を持ち、提灯を先頭に、

  シントウさん、嫁さんの順に列を作って、その後ろから世話人や若い衆や見物人が、ゾロゾロついて……

 

        その年の道祖神祭りまで一年間に祝い事があった家を一軒一軒ねって歩いて、道祖神のお礼を配りますよ。

 オタカラを腰に当てて、おかしな恰好をして歩くひともいたね。

お神酒を一杯呑んでいるから、それは賑やかでした。

       そのオタカラを新しく来た嫁さんに抱かせるんですよ….わしが嫁に来た時かね

        抱けなかったね。恥ずかしいもの、わしは逃げましたよ。嫁をとった家ばかりではなく、家を新築したり、婿をとったり、子供が生まれたり、なんでも祝い事の

 あった家ですよ。

        商売繁盛、家内安全、子孫繁栄のお祭りですね。オタカラは三尺も四尺もありましたよ。

 杉の木を削って作ったもんで昔からあったのは、ひびが入って割れて作り替えたけど、今はどこの家にあるか……

         昭和19年にやったのが最後だったかねえ。触るといい子ができるというんでオタカラに触らせようとするんだけど、たいげえの嫁さんは逃げたようだね。

 その後、座敷へ上がってご馳走になるんですよ。

  

      やがて戦争が始まり物資もなく、道祖神ねりの男衆もみんな兵隊にとられて中止になった。

  そしてこれ等の民俗行事は、戦後の人心の一変で復活することもなく、長い伝統を持つ「道祖神ねり」は完全に失われようとしている。


 
   

   一山和尚

 

     江戸時代明和年間に、一山和尚という行者が、不動様をしょっていずこからともなく妙義へ来た。白雲山の石倉にいて妙義山を開発して五百羅漢を立てようとした。  村人が山へ馬草刈に行って出会い、何か食べたい物をいえば、ぼたもちでもまんじゅうでも出してくれた。

 

     人々がたまげて、どうも不思議だ、追い払えというので、名主佐藤庄右衛門が追い払った。

   行者は恨みを持って名主の家の前を通る時、この家を黒土にしてくれると呪って、持っていた錫杖で石橋を突いたら、石に穴があいたという。

     その後、名主の家は系図が絶えて、神宮家から養子が来て継いだ。行者は江戸へ出て、浅草に五百羅漢を立てたので、そこが繁華街になって栄えたという。

   彼がしょっていた不動様が随応寺山門にあるという。(日向)

 

   以上は日向集落で採話した昔ばなしと思われる。随応寺は天台宗の寺で諸戸に所在している。

  この話は名主の家が真っ黒になったり、凄い不幸に見舞われたという事にはなっていないので、やや現実的な話のようにも見える。

  

 

 行人塚 

 

 これは大牛の六部さんによく似た話である。

    爪引き地蔵の前にある法印の碑は、昔、あるときここへ来た法印が、ここへ生きたまま埋めてもらい、カネの音がしなくなったら往生したと思え、といってこもって

  入定したところという。(八木連)

 

 
   

 弘法様の酒買い

 

    むかし、一軒の酒屋があったとさ。

   ある日のばんがた、みすぼらしいおじいさんが、酒を買いにきたと。

   「これに少し酒を売ってくれ」

   こういってみそこし(味噌をこすための小さなザル)をさしだしたもんだから、酒屋のおやじさんはたまげた。

   「このみそこしに酒をいれるんかい」

   「あゝすこしでいい」

   「こんなザルじゃァ、酒がもっちまうよ」

   「いや、心配いらん」

   「うちには、ザルにいれるような酒はないよ。ここにあるのはみんなただの水だ」

   おやじさんはあきれはてて、うそをいったとさ。

   「水でもいいから売ってくれ」

   おじいさんがそういうので、酒屋のおやじさんはみそこしの中に酒をいれてやったと。すると不思議なことに、みそこしから酒はひとったれももらないんだとさ。

 

 おじいさんはなにがしかの銭をおくと、どこともなく去っていったと。

    この様子をものかげからすっかり見ていた酒屋の人たちは、

   「みそこしを持って酒買いにくるやつなんかいねぇなァ」

   「だけど、みそこしからは酒はいってきもこぼれなかったぞ」

   「不思議なことがあるもんだ」

   「水だっていったのに、それでもいいからって買っていった。あの水何にするんだべぇ」

   「おかしなじいさんだ」

   と、ひとしきり笑いあったとさ。

    そしたら、その酒屋の酒がみんな水になってしまっていて、売りごとにならなかったんだと。

    あとで聞いたら、そのおじいさんは弘法様で、うそをいった罰に酒を水にかえてしまったんだとさ。だから、うそをいうもんではないんだと。(妙義)

   「弘法様の酒買い」の話は妙義町妙義集落での採話らしい。

 

 
   

 弘法様の清水

 

   弘法大師の井戸の伝説は甘楽町の秋畑にもあるが、同様の伝説が大桁山にある。

  弘法大師がみすぼらしい恰好をして大桁山から大久保に降りてきた。喉が渇いた大師は大きな家を見つけて水を頼んだ。

    その家の娘は旅僧の汚れた身なりを見て、水はないと断ってしまった。

  大師はしかたなく、今にも倒れそうな家を見つけて水を頼んだ。そこの嫁は大師を待たせておいて、1時間もたってからきれいな水を汲んできた。

    大師はたいそう感謝して時間のかかった理由を尋ねた。

  嫁はこの辺には良い水がないので丹生まで汲みに行ってきたと答えた。

  大師はその真心に感じて、持っていた杖で山の際をつくと、そこからきれいな泉がわき出した。

    それからその家は水に不自由しなくなったが水を断った家では本当に水が出なくなってしまったという。

    この話は蘇民将来の話と酷似しているようだ。


 
   

 お菊と小幡の殿様

 

     むかし、小幡の殿様が領地を見回りながら、妙義の中里という村まで来ると、きれいな娘が畑仕事をしていたと。
  
   娘を見た殿様は一目で娘が気に入ってしまったと。

     家来を呼ぶと、「あの娘の名前を聞いてまいれ」といいつけた。

    家来はすぐに娘のそばにやって来ると、

    「これ娘お前の名前はなんという。殿様がお聞きだ」といった。

   娘はびっくりして、「はい、お菊といいます」と答えた。すると家来は

   「殿様が名前をお聞きになったからには、後でお城へ呼ばれるであろう」

    と言って、急いで殿様の馬のあとについて行ってしまった。

    家に帰ったお菊はこのことをおっかさんに話したと。すると、おっかさんは、

   「お城へ呼ばれて行けばいい暮らしはできるだろうが、もう家にけえることはできねえよ」といって、心配そうな顔をしたと。

 

     それからいくにちかたったある日のこと、お菊の家の前に立派なお籠がついて、お城からお菊を迎えにやってきたと。

    きれいな着物に着替えたお菊は前にもまして美しい娘となり、お籠に乗せられてお城に行った。

   お城では、お菊はたいそう殿様にかわいがられて、毎日を幸せに暮らしていたと。

    だが、そのうちにあまりにも殿様がお菊ばかりをかわいがるので、他の侍女たちがお菊をねたむようになったと。

     ある日、悪がしこい侍女が殿様のごはんの中に針をいれたと。そんなこととは知らないお菊はいつものように殿様にごはんをすすめたって。

   すると、殿様のごはんの中から針がでてきたので、殿様は、

    「わしの命をねらうとはふとどきな奴め」

    とかんかんに怒ってお菊を責めた。いくら私ではありませんといっても、殿様の怒りはおさまらなかったと。

   あまりにもひどいできごとに、お菊はお城をこっそり抜け出すと、暗い夜道を妙義の方に向かって逃げ出したって。

 

     しばらく行くと、宝積寺というお寺があったので、お菊は必死で門をたたいたと。「追われています。どうぞ門をあけてください」

    お菊はすがるように何度も何度も頼んだけれど、お寺ではとうとう門をあけてくれなかったと。

     やがて追っ手に捕まってしまったお菊は、石のかろうと(註)に入れられて、宝積寺に埋められてしまったと。

   お菊がお城から逃げ出したと知った殿様はやがて哀れに思い、そっと家来の八郎次を呼ぶと、

    「お菊が無事に家に戻れたか見届けてまいれ」といいつけた。

    八郎次はお菊の家をたずねたが、お菊はもどっていないという。必死になって探し回っていると、追っ手に捕まったお菊は宝積寺に埋められているという。

    八郎次はお菊を助けに宝積寺にかけつけたが、かわいそうにお菊は石のかろうとの中でヘビやムカデに食い殺されていた。

 

    宝積寺でお菊が殺されたと知ったおっかさんは、

    「お菊がそんなことをするはずがない。お菊よ無実だったら、この炒りごまから芽をだしておくれ」

   といって、おっかさんは炒ったごまを畑に蒔いたという。

  するとふしぎなことに、ごまは何本も芽をだしたと。それで村の人たちもお菊の無実を信じて悲しみにくれたと。

   すると、そのうち、宝積寺の山門は火の気がないのに燃えてしまったと。お寺ではすぐに建て直したが、またすぐに燃えてしまった。

  それから宝積寺の山門は何回建てても燃えてしまったと。

 

註 「かろうと」(原文は「からうと」)とは、墓碑の下の遺骨を収納するスペースのことをいう。この話の場合、石棺のような物ということだろう。

 

 
   

 菊女観世音菩薩

 

   上述の「お菊と小幡の殿様」は「ふるさとの民話・富岡編」に載っている民話を紹介したもので、舞台は甘楽町の小幡と妙義町であり、お話は子供向けに大きく

   縮小簡略化されている。少し違う部分もあるが、事実らしいところもある。

   「家来の八郎次」という箇所がそれである。

 

   小幡氏に属していた小柏氏は長い歴史の中の一時期、代々の当主が「八郎」を名乗っていた。

   「ふじおかふるさと伝説」には、小柏八郎右衛門が峠に名刀むかで丸を忘れた話など、八郎右衛門の名前の伝説が幾つか紹介されている。

   また小柏氏の代々の歴史や事績は「藤岡市史」にも詳述されている。

 

   宝積寺の裏山の池でお菊を助けた小柏源六定重の父・高政の妻は小幡重貞の姪である。

   (宝積寺史では小幡顕高の娘)詳しいお菊伝説は「宝積寺史」や「小柏氏800年の軌跡」に詳細に記述されている。

 

     妙義町誌に載る「きく女一代記」は上州皿屋敷元本として、お菊伝説を会話に至るまで微に入り細に入り記述した長編の読み物となっている。

   事実の事柄を織り込んではいるものの、詳細に記しすぎていて却って物語を形成する結果になっている。

    末尾には「昔より言い伝えたることのみにて、他のことは載せず」と書かれているが、この書は明らかに物語・小説であろうとの解釈が成り立つ。

 

   また「奥方と妾おべんがお菊を妬み非道なる行いをせし」としており、小幡信定をかばうような表現となっていることにも留意する必要があろう。

   同根と思われる「菊女由来伝」も同様。

 

宝積寺のお菊母娘の墓地


              

  宝積寺の菊女観世音菩薩

 

 

   他に薮塚喜声造氏は「新田岩松薮塚史」で、お菊を虐待したのは小幡藩士の小幡長右衛門で幕末の頃の話として、そのストーリーを簡単に構成し披歴している。

   同氏は中里の菊女墓碑を訪ねたり、古老に話を聞くなどの調査を行ったものの、小幡龍蟄が著した「幡氏旧領弁録」や「上毛菊婦伝」や「宝積寺史」などは、調査

   した形跡がないこともあり受け入れがたい。

 

    小幡氏が信州に移住した時期や、小柏源六(源助)の時代も大きな誤差を生じてしまっている。

   現に宝積寺や小幡氏は大きな菊女観音を作って、長年に亘って懇ろに菊女の供養を行っている。

    ちなみに、中里地区周辺に伝承されているお菊の伝記を基に、お菊の伝説を歌詞化した、「八木節お菊一代記」が妙義町誌に掲載されている。

   非常に長い物語に構成されているが、その内容は幡氏旧領弁禄や宝積寺史と同様のものになっている。

 

 
   

 百合若大臣

 

    むかし、妙義山のふもとの村に百合若大臣というたいそう体の大きな力持ちがいた。百合若大臣は、ありあまる自分の力をいつももてあましていた。

   妙義山に入って、大木を根元から抜いてみたり、大きな岩を持ち上げてみたりしていた。

   それでもまだ力を全部出しきることができないので、どうにかして、ありったけの力を出してみたいものだと思っていた。

 

     ある時、百合若大臣は自分の家からじいっと妙義山をながめて、おもしろい形の峰が連なっている中から、ひときわ目立つ大きな岩を見つけたと。

   「あの岩は何ともでっかい岩だ。まるで天をつくような形をしている」

    百合若大臣はしばらく腕組みをしたまま、その大きな岩に見とれていたが、突然何か思い当たったように立ち上がった。

   「そうだ、あの岩に穴をあけてみよう」

 

   日頃の力だめしでは物足りなかった百合若大臣は、妙義山にそびえたっている大岩に穴をあけるといいだした。

    いくにちかがすぎた。百合若大臣は今までだれも見たこともないような大きな弓と矢を持ってきて、碓水川をひとまたぎした。

      片方の足を下横川の小山沢に、もう片方の足は五料の中木という所にふんばると、妙義山に向かって力いっぱい弓をひいた。

   満月のようにひきしぼった弓から一本の矢が、ビユーっとうなりをあげて飛んだ。

     矢は百合若大が狙いをつけていた岩に当たり、大きな穴をあけたという。

   その岩にあいた穴からは星が見えたというので、その後星穴といわれるようになり、百合若大臣が足をふんばった所は今でもくぼみがのこっているという。(下仁田)

 

    註 妙義山のどてっぱらに、風穴を開けたような大きな星穴は今も名所として残っている。くぼんだという中木は今ダム湖になっている。

    他の伝承では百合若大臣が矢を放つときに、踏ん張った足跡石が松井田の五料と横川にあるという。

   放った矢は妙義山の星穴岳を射抜いて直径二メートルもの大穴をあけ、さらに十キロも飛んで西牧村の矢川に落ちた。

   このとき使った長さ二メートルほどの鉄製の弓は、妙義神社の宝物として保存されているという。

    別説では合若大臣が射抜いた穴は妙義の第一石門だという。


 

 
   

  デーラン坊

 

     むかし、むかし、大むかし、そのまたむかしだった。上州の信州境にデーラン坊

    という大男がいた。デーラン坊は妙義山から浅間山まで一跨ぎにしてしまうほど大きかった。

   デーラン坊がクシャミをすると、百姓家が千戸も万戸も空へ跳ね飛ばされるほどのもの凄さだった。

     デーラン坊は、いつも浅間山の噴火口に大鍋をかけて、木でも草でも放り込んで煮ては食べていた。

   腹いっぱいになると、荒船山を枕にして足の裏を浅間の噴火口で炬燵のようにあぶりながら寝込んでしまう。

     その際の鼾の音は大雷が空いっぱいに暴れまわっているようで、上州と信州の百姓は少しも眠れなかった。

   あるとき、デーラン坊は寝返りを打って浅間の噴火口にかけてあった大鍋を蹴飛ばしてしまった。

 

     とたんにガアッと恐ろしい音がして、上州も信州も一面に灰をかぶってしまった。

   このときに浅間の灰は何尺と積もったという。おまけにザザッ、ドドッと鍋の中の汁と中身が恐ろしい勢いで信州側へ流れた。

    このため信州側では草も木も枯れはてて、何百年も生えてこなかった。

   いま信州の塩つぼ温泉などが塩っぱいのは、このときの汁が土の中にしみ込んで今でも出てくるからだという。

   妙義には、百合若大臣や弘法様の酒買い、デーラン坊の話の他に「頭の桜の木」

    「いっぺえ にへえ さんべえ」などの民話が「ふるさとの民話」に載っている。

 

 
   

逆立ち岩(ひげそり岩)

  

     明治の頃、有名な轟木大尉が中の岳に登山した際、この岩の頂上で逆立ちをして周りをめぐったと言い伝えられている。

  中の岳神社の裏に百メートル以上の高さで物凄く切り立ったようにそびえ立つ巨大な細長い岩で、その頂上は数坪の広さはあるが、その頂上に立ち、下を見下ろ

  すだけでもぞっとする程怖い岩である。

 

    普通の人は落ちないようにするだけで腰が引けてしまう。

  そんな岩の上でとても逆立ちなど出来るものではないが、轟木大尉は武勇の人であるからエイッとばかりに逆立ちして歩いたという。

  この岩に登るには鉄梯子や鉄鎖につかまって殆ど垂直に近い登り方をしなければ登れない。

    最上部の鉄梯子を登るときは、岩石の間が狭くてひげをそる程だと言うので一名を「ひげそり岩」と言う。地元の人の間では「轟岩」の名称がなじんでいる。

 

 
   

 領主高田氏

 

    妙義には中世から戦国時代にかけて活躍した高田(タカタ)氏が深い足跡を残している。

  古くは高田から菅原にかけての一帯は「菅野庄」と呼ばれ、高田氏の領地であった。

    高田氏は「吾妻鑑」や「日本戰史」にも記載されている名族であり、始祖は清和天皇に繋がる貞純親王に始まるという。

   親王は二州の太守で弓馬の術に長けていて自ら武家となったとされる。

   高田氏は妙義にあって初代の盛員から十二代の直政まで十二代、約三百年に渡って甘羅郡菅野庄を拠点としていた。

  盛員が菅野庄に移ってきて、初めて高田姓を名乗りこれより高田氏が連綿と続いていくことになった。

 

    五代の義遠は新田義貞に属し、討幕の時の十六人の勇士の一人であったという。この頃には、楠正成追討軍や足利尊氏追討軍にも加わっている。

  十代憲頼は上杉憲政に属し憲の字を賜った。憲政が越後に遁れた後は多くの西上州の武将と行を共にして武田信玄に従い、その先手として奮迅し領地を増やした。

    十一代信頼は信玄から信の字を賜った。十代の時に安中氏と、十一代の時に小幡氏とそれぞれ縁戚関係を結んでいる。

     小幡憲重が菅原神社に寄進した鰐口には、信龍斎全堅、信真、高政(小柏氏)信直(高田氏)の三氏の名前が記載されている。

   この鰐口は一族の安全、子孫繁盛、武運長久を祈願したもので、他に妙義神社と近戸明神(小坂)にも寄進された。

    高田氏の系図は古幡家所蔵系図、寛政重修諸家系図、陽雲寺の系図があるが、ともに異同がないことから信憑性が高いものといえる。

    今は殆どの部分がゴルフ場になっているが、下高田(菅野庄高田郷)の丘陵に高田城があった。

  他に高田城の北西に高田西城、更に陽雲寺の南の山(通称城山)に山城として菅原城を擁していた。菅原城は16世紀頃の築城とみられる。

  地元の人は今でも「城山」と呼んでいるようだ。

  行沢城と諸戸城も高田氏勢力のものとみられる。陽雲寺は居館としていたという。

   陽雲寺は二十代の憲頼(小次郎)が開基・建立したと伝わっている。妙義町誌などによれば、初めて高田に城を築き後に菅原に移ったようだ。

  そこで高田の地名をとって高田氏を称したのであろう。

   武将などによく見られる改名のパターンである。高田と菅原に城を構えていたところから、その領地は下高田、上高田、中里、北山、古立、行沢、諸戸、菅原が

  必然的に含まれることとなろう。除かれている大牛・岳や妙義は神社領であったものか、後には上野東叡山領、天領、小幡藩領、旗本領と変遷している。

 

  小田原城が落城し北条氏が滅びると、高田氏十二代の直政は縁戚を頼って信州小縣郡に移り、同じ頃小幡氏も信州松代に真田氏を頼って移った。

   高田氏はこの後、九州へ移って行ったと聞くが信州には今も末裔の方が居住している。

   陽雲寺には高田氏の累代の墓碑や過去帳(一種の系図)が所蔵されている。

    系図によれば、高田氏の祖、盛員の石塔は以前は菅応寺にあったが、後に陽雲寺に移された。

  次の十二代正行も同様に陽雲寺に移された。十四代重員の石塔は陽雲寺にありとして、菅応寺から移されたとは記されていない。
   (系図は江戸期の作成とみられる)これらから十三代頼春の頃から遠くない時期に菅応寺が廃された?とみる事も可能になる。

 

     白雲山大権現由来によれば、菅応寺は菅原にあったと記されているが現在は同寺は見当たらない。

   「上野国寺明細帳」には行沢の東光寺は載っているが菅応寺は記載がない。神仏分離令により菅原神社に衣替えしたと推敲される。

 

 高田家墓地

 


     高田氏を弔う石塔は当初、菅原の菅応寺に設置されていたが後に陽雲寺に移された。

    白雲山大権現由来によれば、この辺りは寛弘(平安時代)の頃には「伏見之里」と呼ばれていたという。

   「新田 岩松 薮塚史」には、高田頼員(55)は長森原で上杉顕定の矢面に立って戦い討ち死にした、と記されているが頼員の名前は系図中にみえない。

   勝政のことであろうか。古幡家所蔵の系図や寛永諸家系図など、他の系図に見えている累代当主の事績を確認すると、長森原で討ち死にしたという当主の記述は

  見られない。長森原の戦いのあった永正七年に死去した当主もいない。

 

   また同書には高田頼慶は平井城で政務の職にあり、その子小次郎は箕輪城で文武の修業をしていた、小次郎は菅野憲頼と改名し管領からとして小幡城主の

  播磨守の嫡男尾張守に高田と小坂の領地を与えた、と記されている。

 

 
   

 陽雲寺

 

    曹洞宗の陽雲寺は茨城県の金竜寺を本寺として末寺には七寺を有する。金竜寺の住職が高田氏に請われて陽雲寺へ来たという。

  一説にこの住職は新田義貞の孫、貞国の三男とされている。

  陽雲寺の開創時期については1457年説や1487年説、1506年説などの諸説が伝わっている。開基は高田氏七代の頼慶や十代の憲頼説がある。

  系図には歴代当主の項に「石塔は陽雲寺にあり」と記載されているものの、開基になったとは記されていない。

  江戸時代初期には修行僧の数は二十名を下らなかったという。現住職で歴代37代を数える。

    新田 岩松 薮塚史によれば「高田頼員は菅原の陽雲院に両親を埋葬し、高田氏の菩提寺にして、供養のために寺を再建して陽雲寺とした」とあり、別頁には

  「菅野憲頼は、所領は菅原だけになり、金鶏山の山続きに館を建てて、ここから娘を志賀城主の小笠原新三郎に嫁がせた」とある。

 

    同書によると陽雲寺を再興したのが頼員で、後に同所に館を建てたのは憲頼となる。
  
  同書から系譜を読み取ると、頼重―頼敏(光敏)―○○―○○―○○―光圓―光員(頼員)―頼慶―小次郎(菅野憲頼)(終り)、となる。

   (光員の表記は、続く文章中では光貞の表記に変わっている)

 

    古幡家所蔵系図と寛永諸家系図及び寛政重修諸家系図では、勝政―頼慶―政賢―遠春―憲頼(第二十代)となっており、三系図は一致している。

  また陽雲寺に伝わっている巻物系図も古幡家所蔵の系図と異同はないが、新田 岩松 薮塚史にある高田頼員の名前は見えない。

  陽雲寺の系図にある初代盛員のことであろうかとも思うが前後の当主の名前が一致しない。

    陽雲寺伝の一説に「当寺開基、高田大和守憲頼が、先祖である盛員より以降を弔う為、一寺を建立し、憲頼卒するにあたり戒名、陽雲寺殿笑山正誾大居士の

  諱をとって陽雲寺と名付けた」とある。

   

 
   

金鶏山の伝説

 

    昔、菅原村では村の鶏が泣き出す前に、金の鈴を振るような美しい声で暁を告げる子鶏の声がしていた。

  その声に促されて村の鶏が一斉に鳴き出すが、真っ先に鳴き出す鶏の声は西の山の頂上の方から聞こえるようだと言われた。

    村人が気を付けていると、美しい鶏の声はどうも峰の頂上から聞こえるようだと同調する者もいて、中には山頂で暁の光を受けて金色の鶏が鳴くのを見たと

  いう者も出てきた。

   こうして峰の名前は金鶏山と呼ばれるようになった。

    一説には山の頂上付近が、鶏の頭に似ているから金鶏山と呼ばれるようになったという。

  また他の説に、新羅の王朝の始祖伝説に金櫃始林樹枝の下に白鶏が鳴いたとする伝承があり、金鶏山の名もそこからきたという。

   また金鶏山には金穴が二つあり、それぞれ長さは百メートルにも及ぶという。

  これは幕末期に、小栗上野介が黄金を隠した山だという伝説を信じた名古屋や九州の人が来て堀り抜いた穴である。

   近代にも富山県から金を堀りに来た人がいたが、いずれも成功しなかった。

    

 

 

  あとがき

 

   六部さんの話は本当のことなのかと本田氏に聞いてみた。

  「本当のことだ、おふくろが小さいときに実際に見たといっていた」

  「大正の初め頃に赤痢が流行っていた、そこへ来た六部さんが、俺がこの村を救ってやる、と言って地中に埋められた」

   この六部さんのことを知っている人が何人いるだろうか。もしかしたら数人かもしれない。

  小さな民話の類だけれど、知っている誰かが記録しておいた方がよいのではないか。そう思って少し調べてみた。

 

    大正期に妙義町に赤痢が流行した事実があったのか。群馬県史通史編にはそれらしい記事は見当たらなかった。

   群馬県史資料編27には明治25年頃にコレラ(虎列刺)の隔離病棟を作ったことなどが記されている他に、赤痢など伝染病の資料は記されていない。

 

    妙義町誌にも疱瘡の記述はあるが赤痢の記事は載っていない。ただ昭和20年代に赤痢が出たという噂はあった。

   本文では六部さんに、幟を出している人を中島家としたが、もしかしたら渡辺家であったかもしれない。本田氏の母親は大正初めの頃の出生と思われ、子供の時は

  六部さんの近くに住んでいたので、時代的にも合致しており実際に目撃した可能性は否めない。

   また母親の実家がその渡辺家であり、同家は六部さんの東100m程の所に炭焼き釜を持っていて炭を焼いていた。

  これ等のことから関連性が窺える所以である。

   本田氏によると他に、旧観光ホテルの裏の井戸の水が芳泉堂の裏辺りに湧き出る、辛沢川の水が安中辺りに湧き出る、などの妙義の七不思議がある

  との事だった。


 
   

  参考文献

    上州の伝説  都丸十九一 他 ㈱角川書店

     上州路6     あさを社

上州の史話 

上州の民話  小野忠孝

上州の民話第2集 酒井正保

上州の史話と伝説  上毛新聞社

西上州山地・人間との境をゆく 松尾翔 青娥書房

群馬県の民話  偕成社

群馬県史通史編4

群馬県史資料編27

群馬県歴史散歩 群馬県歴史散歩の会

群馬の昔ばなし 株式会社日本標準

群馬の民話    みやま文庫

日本の民話⑧  未来社

    甘楽郡史 (旧北甘楽郡史)

    甘楽町史

富岡市史民俗編 

富岡市史近世資料編

富岡市ホームページ

    富岡佐藤家文書2 

    富岡市内文化財めぐり抜粋 富岡市文化財保護課

    ふるさと歴史ウオーク 富岡市教育委員会文化財保護課 

ふるさとの民話富岡  監修木暮正夫 あかぎ出版 

上毛及上毛人140  上毛郷土史研究會

妙義町の民俗    1983年教育委員会編

妙義町誌上

妙義町誌下

妙義町並図   山口治壽 横尾義之 岡部高喜

妙義神社ホームページ

妙義の峻嶺   寺島平三郎編 妙義の峻嶺社

妙義山麓の性神風土記 小板橋靖正 あさを社 

奇岩の山妙義  編集者代表 相場伸 みやま文庫

八城掲示板   松井田町教育委員会

    上野国風土記

    復刻諸国道中商人鑑  ㈱郷土出版社

    住宅地図  ゼンリン

     新田 岩松 薮塚史  薮塚喜声造 薮塚勝巳

    小柏氏800年の軌跡 

    陽雲寺報No.95

 

 
   
    編著