【備考】1970年代後半〜80年代前半に於ける
初代海王丸と日本丸の外観上の主な相違点(1/3)


 初代海王丸と日本丸は元々基本設計が同一の姉妹船として建造されましたが、五十余年の船歴の中で改修工事を重ね、特に日本丸の現役引退と代船建造が具体化した1970年代後半〜80年代前半に掛けては、上部構造物や細部の装備品などにかなりの相違が見られるようになりました。両船の相違点に関しては断片的なものは各種書籍にも記述がありますが、旧海軍艦艇のような徹底したものは私が見聞きした範囲ではなく、市販されている各種組立模型でも、海王丸に関しては厳密に再現されているとは言い難いのが現状です。また、市販書籍の中には両船の写真が特に注記もなく混在しているものもあります。

 そのため、模型の製作に当たっては両船の外観上の相違点を洗い出す必要がありました。ここでは現在市販されている模型の多くの設定時期である1970年代後半から、日本丸が引退する80年代前半に絞って、両船の外観上の主な相違点を判る範囲でまとめる事にします。

1.船首楼甲板中央の大型キャプスタンの形状(82年春〜)

 海王丸は電動式、日本丸は手動及びウインドラス(錨の巻き上げ機)連動式。海王丸は1982年春の入渠工事の際に電動式のものに換装されました。
海王丸 日本丸

2.フォアマストトップのレーダー保護フェンス及び基部の形状

 1983年夏までの海王丸のレーダー保護フェンスは日本丸に比べて背が高く、基部の形状にも若干の違いがあります。レーダー装備は日本丸が1959年春、海王丸は60年秋に行われ、61年の太平洋練習帆船レースの写真を見る限りでは、両船共にレーダースキャナの背が80年代のそれよりも高く見えます。そのため、元々高いスキャナに合わせて作られた保護フェンスが、海王丸は低いものに換装された後もそのまま仕様が継承され、これに対して日本丸はレーダー換装の際に新調したために高さの差が出たのではないかと考えますが、詳しい理由はわかりません。基部形状に関しては、別冊一億人の昭和史・昭和船舶史(毎日新聞社刊)p18に掲載されている1960年代頃と思われる写真から、設置当初から両船で仕様が異なっていた可能性があります。
 なお、海王丸は1983年秋の改装でレーダースキャナが2基に増設され、保護フェンスの形状も変更されています。
海王丸 日本丸
1960年秋

1983年夏
1983年秋

3.フォアブリッジ操舵室の幅
4.フォアブリッジ張り出しの天蓋の有無(共に58年春〜)
5.フォアブリッジ下部船室正面の窓の数(78-79年頃〜)

 フォアブリッジ(前部航海船橋)の操舵室は海王丸の方が窓2枚分幅広で、張り出しの天蓋はなく、また操舵室へのラッタルの位置と出入りの方法も異なります。建造当時は同一形状で天蓋は全く無く、また戦後は操舵室が現在よりも大きく、張り出しの部分まで天蓋と窓で被われていました。現在の形状になったのは日本丸が1957年春、海王丸が58年春の改装工事で、この際に設計が変更されたようですが、詳しい理由はわかりません。

 それと、フォアブリッジ下部船室の正面の窓(赤矢印)も海王丸は2枚であるのに対し日本丸は3枚と違いが見られます。これも元々は3枚だったものが、海王丸は1978〜79年頃に2枚に改装されたようです。この場所は現役当時は倉庫または操舵員室として用いられていたようですが、窓を改装した理由は全くわかりません。
海王丸 日本丸

6.フォアブリッジ後端の位置
7.長船尾楼甲板上の2番倉口の大きさ(共に75年秋〜)

 海王丸のフォアブリッジの後端は日本丸に比べて2フレーム分(約1m20cm)短く、それに伴い長船尾楼甲板上の2番倉口の大きさには倍の違いがあります。建造当初は両船共に海王丸の大きさでしたが、日本丸はフォアブリッジ右舷側の1番救命艇のボートダビッドを重力式に換装した1975年秋の改装で、翌年に開催された米建国200周年記念帆船パレード参加に伴う要員増加のために船橋後端を延長し、その代わりに倉口を半分に縮小する工事を行った事に依るものです(日本丸元船長の橋本進氏に依れば、この時期は既に日本丸のデリックやウインチを用いた倉口からの搬入は行われておらず、物資は人力で搬入していたとの事です)。なお、直下のウェルデッキの倉口は両船共に海王丸と同じ大きさのようです。
(下の写真は倉口の大きさと、船橋後端や向こう側の1番救命艇のボードダビッドとの「位置関係」に注意して下さい)
海王丸 日本丸

8.救命筏コンテナの装備位置

 海王丸は長船尾楼甲板前端とアフターブリッジの船首寄りの両脇に片舷当たり各1基、日本丸はフォアブリッジ張り出しの天蓋上に片舷当たり2基、それぞれ装備されていました。
海王丸 日本丸



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