『原発ホワイトアウト』を読んで
若杉冽 著<講談社>


 先ごろシン・ゴジラを観て、危機管理的なところでの政府機関の有り様や仕組みをリアルに捉えていた様子が非常に面白かったので、三年前の刊行時に話題になった覆面現役官僚によるところの「現実(ニッポン)対虚構(関東電力)。」を読んだのだが、奇しくも本書で「第7章 嵌められた知事」「第10章 謎の新聞記事」「第11章 総理と検事総長」「第16章 知事逮捕」と序章終章併せて全20章中5分の1に当たる4章を割いて取り上げている伊豆田新崎県知事の失脚工作をいやがうえにでも想起させる泉田新潟県知事の知事選立候補の突然撤回を報じる記事が飛び込んできて、大いに驚かされた。撤回の理由として泉田知事が語ったという地元紙・新潟日報の報道姿勢というものに関して、本作で綴られていたような電力会社の影を思わずにはいられなかった。

 第17章の章題となっている「再稼働」は、本書刊行から二年経たないうちに新崎原発とは場所の異なる川内原発が行なったが、原発利権に群がる原発ムラの住人やその関係者によって骨抜きにされた新しい規制基準(P258~P261)の公表に合わせて、電力会社から再稼働の申請が原子力規制委員会に提出された。第一弾は、仙内一・二号機、戸鞠一・二・三号機、高花三・四号機、大井三・四号機、井形三号機であった(P261)と記されているとおりのものとなったわけだ。高浜原発も伊方原発も再稼働を始めてしまっている。数年前の計画停電騒ぎはもう風化していた……「電力不足だから原発を動かします」という再稼働を目論む当初のロジックは破綻していたが、再稼働に対する国民のアレルギーも、同時に風化していた。 ワイドショーが一通り騒ぎはしたが、「世界最高水準の規制基準に適合した安全なものは動かす」「電気料金の値上げも困る」ということで、一年半前の大井原発の再稼働ほどの騒ぎにはならなかった。(P265)と記されたとおりの事態になっている。

 作中の日本電力連盟原子力部長の発言として出てくるだいたい原子力規制庁で審査を担当している役人たちは、電力会社や重電メーカーに入れなかった原子力学科の落ちこぼれですよ。原子力安全・保安院ができたころに中途採用された、他に行き場のない屑のような連中です。最新の技術についてわかるわけがありません。全部私たちが書類の記載の意味を教えてやってんですよ。 日本では審査ってのはフィクションなんです。国のお墨付きを得た、っていう儀式です。フクシマの事故は天災ですから、フクシマがあろうがなかろうが、原子力安全・保安院から原子力規制庁に同じ連中が移っただけで、メンバーはそのママなんだから、審査だって変わるわけないでしょ。連中が何十週間書類とにらめっこしたって同じですよ、結論は。(P266~P267)というふうに見られているものが機能するわけないのだ。審査結果に対して臆面もなく堂々と「安全だと言っているわけではありません。基準に合格しているという審査結果を述べているだけのことです」と公言する有り様なのだが、さすがに小説では、現実のほうの“あり得べからざる弁明”は想定外だったようで、予言し得ていなかった。

 小説の構造自体は、本作自体に保守系のテレビ局は、一九七一年の沖縄返還協定にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した「毎日新聞」政治部の西山太吉記者らが国家公務員法違反で有罪となった、「外務省機密漏洩事件」の現代版として大々的に報じた(P279)と引用している事件と映画化作品で観た天空の蜂を併せたような作品だった。だが、その巧拙を越えて細部におけるリアリティが半端なく、『シン・ゴジラ』を観て感心した関係機関の有り様や仕組みのリアリティ以上のものがあったように思う。「第3章 フクシマの死」に記されている電力会社が、総括原価方式によってもたらされる超過利潤(レント)によって、政治家を献金やパーティ券で買収し、安全性に疑義のある原発が稼働し、再び事故が起こるということ(P43)が現実のものになるのではないかという懸念がますます強くなった。

 生々しい描出に何とも遣り切れなくなったのは「第4章 落選議員回り」だ。国政復帰の可能性がある落選議員に絞って、生かさぬよう殺さぬようにしながら、一番苦しいときにそっと手をさしのべるのだ(P68)そうだ。先生、日々の生活のほうはどうされるんですか?…肩書は客員教授になります(P54~P55)と手懐けるわけだ。その原資となるのが上記のレントということらしい。総括原価方式といって、事業にかかる経費に一定の報酬率を乗じた額を消費者から自動的に回収できる仕組みとなっている。 ただ、事業にかかる経費自体、電力ビジネスの実態を知らない政府によって非常に甘く査定されているし、経費を浪費したら浪費しただけ報酬が増えるため、電力会社としても、より多くの経費を使うインセンティブが内在している。そのため、結果として、電力会社から発注される資材の調達、燃料の購入、工事の発注、検針・集金業務の委託、施設の整備や清掃業務等は、世間の相場と比較して、二割程度割高になっているのだ。…購入する金額が常に二割高であるため、取引先にとってみれば、電力会社は非常にありがたい「お得意様」となる。電力会社が取引先から「大名扱い」される謂れでもあった。…この超過利潤である二割のうち、一割五分を引き続き発注先の取り分とする一方、残り五分については、電力会社を頂点とする取引先の繁栄を維持するための預託金としてリザーブすること(P62~P63)にしたうえ、それ以外に、燃料購入でも、商社を通じてカネがプールされた。産油国の王家への接待や政治工作のための裏金が、スイスやケイマン諸島の銀行口座にプールされていった。…さらに、業界全体の繁栄を維持するための共通の預託金として、各団体に預託されているカネのうち二割が、日本電力連盟に再預託されることになった。 ――驚くべきことに、日本電力連盟自体も、法人格を取得していない任意団体であった。…理由は何か? それは…外部の介入を過度に警戒しているからである。 公益法人という法人格を取得したとなれば、主務官庁による検査や帳簿閲覧といった監督権が法律上及ぶことになる。実際には、よほどのことがなければ、主務官庁が実質的に公益法人の経営に介入してくることはないが、念には念を入れて、公益法人化を避けているのだ。 電力会社が決して国の補助金を受け取らないのも同じ理由だ。会計検査院の検査が入り、電力会社の秘部に外部の目が届くことを忌避している。国の補助金を受け取ると、政治資金規正法上、政治献金ができなくなることも、電力会社のそうした行動を正当化していた。(P62~P65)という代物のようだ。

 この集金・献金システムを構築したことで、日本の政治社会を支配するモンスターとして、独自の生命を得たように活動をし始め…関東電力は、国の政策に関して拒否権を持つに至ったともいえる(P66)状況になったうえで、このモンスターシステムは、もはや関東電力の手を離れ、独自の生命体として、その鼓動を強め始めた。多くの政治家が、この集金・献金システムの稼働を前提に活動し始めたのである。…政党交付金が表の法律上のシステムとすれば、総括原価方式の下で生み出される電力料金のレント、すなわち超過利潤は、裏の集金・献金システムとして、日本の政治に組み込まれることになったのだ……。(P67)ということになっているらしい。本作の一番の要の部分はここにあるような気がする。

 小説形式というフィクションを借りてこのことを訴えようと覆面作家という形で本書を上梓した作者の想いは、作中人物の玉川京子の口を借りて述べられている今まで原子力行政とは関係のなかった人畜無害な職員をフクシマに送り込んで、本当に悪い奴、資源エネルギー庁で原子力を進めてきた奴らや、原子力安全を飯の種にしてきた原子力安全・保安院から原子力規制庁に移ってきた奴らが、フクシマの実情を見ようともしない。そして、事故前と同じように、まるでフクシマの事故がなかったかのように、原発を再稼働しようとしている……こんなこと許されるはずがない(第6章 ハニートラップ P95)との弁にあるような気がした。

 そして、現在の政治システムが電力会社のレント、すなわち超過利潤に依存している以上は、覚醒剤の中毒患者が覚醒剤を欲するように政治家も地域社会も、電力会社のレントを必ず求めてくる。 参院選後三年間は国政選挙がない。となると、世論の動向を注意深く読んで政権を慎重運転するインセンティブも、官邸には少なくなる。 さすがに、一〇電力体制の維持、あるいは地域独占の継続までは揺り戻されないだろうが、「電力システム改革はやりました」と保守党政権が胸を張りつつ、細かい穴がいくつもあって、実際には競争は進展しない状態、というのが現実の落とし所だろう。(第5章 官僚と大衆 P83)と述べていたが、まさしくそのとおりに推移している気がする。原発事故直後は、「停電か、再稼働か」という二者択一を迫ったが、図らずも国民の節電意識が浸透し、原発が動かなくても電気は足りることが立証されてしまった……この手が使えないとなると、次は「値上げ」で大衆を脅すしかない(同 P80)と記したことがまんまと通用しているわけだ。

 第4章には、それとともに、videonews.com のニュース・コメンタリーで司会のジャーナリスト神保哲生と社会学者の宮台真司が論じていた民進党は政策論争をしている場合なのかにおいて問題にしていた民主党(民進党)不信の根本原因について記していたが、その部分に大いに共感を覚えた。

 その原因として挙げられるのは、第一に、議員の資質である。 政官財の癒着の打破という理想に燃えて、あえて保守党ではなく民自党からの出馬を選択したという例外的な議員もいるにはいた。しかし民自党議員の多くは、ただ単に政治家になりたいが保守党からは出馬が叶わない、といった類の者たちだった。 松永経済政治塾で塾生としての経験を積んだが現実の組織を動かしたことのない奴、官庁や大手民間企業に入ったが組織のなかでチームプレイに徹することができずに飛びだした目立ちたがり屋、果ては、就職氷河期にまともな就職ができずにフリーターをしていた奴らだった。 政権交代後に、こういう連中に、手練手管に長けた官僚がご進講に伺ったり、パーティー券の購入という鼻薬を業界団体が利かせたりする……すると、たちどころに、既得権擁護の先兵に変身し、マニフェストの実現阻止に動いていった。…党失速の第二の原因は、政党としてのガバナンスの欠如である。…もともと組織人的な立ち居振る舞いができない民自党の議員たちである。内閣と党とが一体化した部門別会議の決定に従うはずもなく、重要な政策の決定過程においては、「ガス抜き」と称し、何日もダラダラと党政調での放談会が続いた。彼ら彼女らには、いつまでに何かをやるというスケジュール管理のノウハウも意思決定のルールもなかったのである。(P49~P50)と綴られている。そして、民自党ではなく保守党の一年生議員の顔ぶれを見ても、以前との比較において、議員の資質の低下は明らかだ。周辺が政治家にしたいと思うような人物が立候補をためらい、闇雲なリスクテイクを厭わない野心家や冒険家が候補者となっている。(P51)とのことだ。

 本作はプロローグの後「第1章 選挙の深奥部」から始まっているのだが、最初に出てくるのが関東電力総務部長を経て日本電力連盟に出向した常務理事小島巌の「ようやく秩序が回復される」という呟きだ。秩序とは、単に衆参ねじれの解消という政局の話だけではない。一〇電力会社による地域独占、原発の推進、そして、それによってもたらされる政界と財界と官界の結びつき……そうした一連の秩序がようやく復元される。 すべての混乱の始まりは、六年前に保守党が参議院議員選挙で敗北し、衆参ねじれといわれる状態が出現したことだった。衆参ねじれが生んだ政治的混乱は、政権交代選挙と銘打たれた衆議院選挙を経て、保守党から民自党への政権交代をもたらした。 官僚主導から政治主導へ、との掛け声で始まった民自党政権は、…いたずらに原子力の再稼働を妨害し、あやうく日本の電力供給に支障をきたしかねない事態となった。…衆参とも保守党が過半数をとることで、国民のヒステリックな感情に右往左往する政治、官界と財界が統一戦線の形をとれない政治から、ようやく解放されるのだ(P18~P19)というものだった。そして、再稼働を期し、決起集会や地区ごとの対話集会にまで、電力会社の幹部が手分けして顔を出す。面識のある電力会社の幹部が「こんなところまで足を運んで来てくれたんだ」と候補者に思わせることが重要なのである(P10)と動き出すことから始まる。

 本来、官僚は国益の実現のために働き、マスコミ記者は社会正義の実現のために働く。こうした大義を背負う尊い職業であるにもかかわらず、現実には、自らの省益や社の利権、挙句の果てには、上司の私腹を肥やす手助けや、幹部の快楽のために、国益や社会正義がなおざりにされる(P86)と綴っている「第6章 ハニートラップ」において、こうした理不尽さに不満を重ねる官僚や記者たちがいる。そうした不満のガスの圧力が高まり、その職を賭して爆発する者も一部にはいる(P86)として経済産業省大臣官房付で退官した古賀茂明という実名が突然現われたことには、少々驚いた。著者自身を含めて“実在”することをよほど強く訴えたかったのだろう。

 泉田新潟県知事を伊豆田新崎県知事と替え、山本太郎参院議員を山下次郎と替えて登場させている本作では、関東電力が東京電力であり、保守党が自民党で民自党が民主党であることが明々白々なため、却って実名が出てくることに戸惑ったのだ。このほかに実名が出てくるのは、経済産業省資源エネルギー庁次長の日村直史の東大法学部のゼミでの同窓だった友人との法務省刑事局付検事の話のなかで名の挙がる厚生労働省の村木厚子外務事務官だった佐藤優、元参議院議員の平野貞夫の著書『小沢一郎 完全無罪――「特高検事」が犯した7つの大罪』からの引用として出てくる大阪高等検察庁公安部長だった三井環大阪高検次席検事の加納駿亮森山真弓法相参議院のドンと呼ばれ、小泉の政敵となっていた村上正邦小泉の政敵である鈴木宗男衆議院議員外務省を引っかき回して小泉改革のガンとなった田中眞紀子自民党の最大派閥であった橋本派の村岡兼造、さらには鈴木宗男の著書『汚名――検察に人生を奪われた男の告白』からの公設第一秘書、宮野明小泉政権の官房長官だった福田康夫(第11章 総理と検事総長 P182)といったところだ。敢えて自民党を保守党と言い換えてフィクションとして展開している小説のなかで、実際に刊行された著作を引いて自民党と記す破調に著者が気づかないはずはなく、本作の小説としての体裁は破綻するのだけれども、著者にとって“虚構の小説”というものは元々“エクスキューズ”に過ぎないことを自ら明言しているようなものだ。つまりは、そうしてまで、この「第11章 総理と検事総長」の末文となっている政権と検察は、一心同体なのである――。(P191)ということを強調しておきたかったのだろう。

 関東電力総務部長を経て日本電力連盟に出向した小島常務理事の語る早く再稼働させて態勢を立て直さなければ、本当に世の中がめちゃくちゃになりますもんね(P177)との弁は、直接利権が絡む位置にいるとは到底思えない再稼働止む無し派の者が訳知り顔で語る際にもよく聞かれたフレーズだが、小島の言う世の中がめちゃめちゃになる、とは、電力会社のレントという甘い蜜に群がることができなくなる、ということと同義であった。政治家はパーティ券が捌けず、官僚は天下りや付け回しができず、電力会社は地域独占という温室のなかでの大名扱いがなくなる、ということだ(P176)と実に明快だ。しかし、これが正直、コネとは関係ない、実力で採用される幹部候補予定の自由競争採用枠は、全体の一割程度、約三〇名に過ぎない。女性枠、政治家斡旋案件枠、経産省を始めとする官庁斡旋枠、内部の幹部斡旋枠とならんで、この地域対策枠が用意されている(P118)と記された関東電力すなわち東京電力の精鋭幹部職員に共通した真実本当の想いなのだろうか。あまりに個が消失している気がして遣り切れない。他方、商工族のドンとされる政治家のほうが本当に改革を貫徹して、電力が競争産業となってしまうと、政治献金やパーティー券購入するだけの余裕が、電力会社にはなくなってしまう。自分を囲む二〇人程度の議員の勉強会メンバーを物心両面から面倒を見てやり、さらなる権力の階段を上るためには、「金の鵞鳥」を殺すようなことは、どうしても避けたい(第8章 商工族のドン P126)と考えるのは、いかにもありそうな気がした。

 第11章の日本電力連盟広報部に書かれた新聞にいくら書かれようと、仮にそれがステイタスのある「朝経新聞」の一面だったとしても、社会的な影響力はそれほど大きくはない。所詮、反応するのは、文字を読むインテリと反原発論者だ。 しかし、テレビは違う。国会議員から一般大衆まで見ている。いくら批判の直接的な矛先が原子力規制庁の役人だとしても、それと道連れに、日本原発だけでなく電力会社全体が、「原子力ムラ」の癒着の構図の主役と受け止められるだろう(P202~P203)との記述にしても、(日本電力連盟)広報部は、部長、副部長以下六名の体制。勤務時間中はひたすら、新聞、雑誌、テレビを六名で手分けをしてチェックし、原子力発電や電力会社に対して批判的な言論をチェックする。問題があれば、プレッシャーをかける。 同じことを公権力がやれば憲法第二十一条第二項の検閲の禁止に抵触するが、民間の会社がつくる任意団体であれば、何をやっても憲法上の問題とはならない。私人の行為だからである。 フクシマの事故前であれば、電話一本で広報部長からクレームを入れれば、マスコミ各社とも程度の差はあれ、速やかに対応してくれた。各社にとって、電力会社は一大スポンサーだったからだ。 地域独占が認められている電力会社は他社との競争にさらされていないので、本来テレビや新聞で宣伝をする必要がない。にもかかわらず、トヨタ自動車並みに投入される広告宣伝費は、報道機関にとっては魅力であり、毒の果実であった。 だから、プロデューサーからの反省文、あるいは出演者本人からの謝罪を一度でもとりつければ、パブロフの犬のように、その後は反射的に、たいていは電力に対する批判的な言論を自粛するようになった。 まれに覚えの悪い識者もいたが、二度警告を発しても改善しない者はブラックリストに載せ、マスコミ各社に番組や記事に起用しないよう執拗に働きかけた。近年、テレビや新聞で見かけなくなった反原発の著名人の多くは、そうした日本電力連盟広報部の所業の結果である(P206)との記述にしても、訂正記事は、それ自体に意味があるだけじゃない。訂正を執拗に要求することで、『こんなこと書いたら電力から訂正を要求されちゃうな』と、現場の記者が常に意識する癖をつけさせることが大事なんだ(P208)との記述にしても、いかにもありそうだと思うとともに、一年余り前に記した全国映連第44回 映画大学 in 今治朝日新聞バッシングがなぜ今頃になって慰安婦問題を蒸し返す形で行われたかについて僕は、かねがね根っこは、朝日新聞がいつまでも「プロメテウスの罠」の調査報道を止めないことに苛立った原発利権勢力が、朝日叩きをしたくて仕掛けたことではないかと見ている。そして、朝日新聞を叩くという目的からすれば、かねてよりネトウヨたちがその姻戚関係などから執拗に攻撃していた植村記者をターゲットにすることがネタ的効用が高いとみて、彼が吉田証言に関する記事は書いていないのも承知の上で、慰安婦問題における誤報とからめて週刊誌に記事掲載をさせるように仕組んだように感じている。と書いたことを想起した。しかも最近ではそれどころか、在野の原発利権勢力ばかりか、ストレートに政権周辺が反原発問題に限らず政権批判に対してさえ、同じようなことが行なわれるようになってきていると感じるようになった。そして「多くの視聴者」とは、自らの職業を民間企業勤務と申告した、電力会社の本社広報部所在地からの電話によって生まれた「モンスター」であった(第18章 国家公務員法違反 P279)などと記されているのを嘆息しながら読んだ。

 それにしても、覆面とはいえ、現職の中央官僚が書いているとのことなのだ。第14章のエネルギー基本計画の罠には、保守党は長年、租税特別措置法によって、古い産業界の既得権を税制の活用という手段で擁護してきた。毎年、政府税調で、「優遇税制は原則廃止」といった厳しめの議論をさせて、産業界に対し「租税特別措置の恩典がなくなるかもしれない」と脅す。その後に続く保守党税調で、ギャラリーを前に、族議員が既得権の優遇税制の堅持を訴えて、政治的にそれを勝ち取り、産業界に恩を売る。そういう一種の政治ショーだった。(P215)との記述や、原子力業界を継続的にウォッチしていれば、業界が、常に明るい見通しを、素人相手に示すことが習い性であることに気がつく。そうしなければ、人材も、研究資金も、投資資金も回ってこない。原子力ムラ以外の素人の政治家や官僚、そして経験と勉強の浅い記者たちは、素直にこうしたキャンペーンの標語をそのまま飲み込んでしまう。 しかし、現実の数字を見れば、世界の原発の設備容量は、スリーマイル島原発の事故前に想定されていた一〇億キロワットには遠く及ばず、一九九〇年代以降は四億キロワットにも満たずに、ほぼ横ばいの状態が続いている。アジアでいくつか原発の立地が進んでいるが、欧州では廃炉が進んでいるからだ(P225)という状況でありながら(党の部会が)マスコミにオープンになっていれば、国民の目を気にして、ある程度の抑制が働くのだが、国民の監視から離れた密室の議論なので、そういう箍が外れているのだ。 各常任委員会の理事会が開催される九時五〇分近くまで、延々とサンドバッグのように資源エネルギー庁にパンチが打ち込まれた。行政の側には反論が認められていないので、対等で建設的な議論とはならない(P227)会議であることによって、新たな規制基準がテロ防止のために必要な、原発で働く下請け孫請け企業の社員の身元確認、その義務化も見送られた。フクシマ事故前から、放射線量の高い場所での危険な作業は、電力会社や重電メーカーの社員ではなく、下請けや孫請けの協力会社が担っている。しかし、四次下請け、五次下請けのレベルになると、暴力団が日雇い労働者を手配、斡旋するのが日常の姿だった。 そうして集められる労働者は、アル中や家庭内暴力で妻子と別れて独り身になった者、元ヤクザ、勤務先が倒産したりリストラされたりした者、非合法のギャンブルにはまり借金でがんじがらめになっている者、薬物中毒者、クレジットカードの借金が返済できない者、などである。生きるためには、身元確認や線量確認が導入されては困るのだ。 電力会社にとっても、線量の高い場所での作業を担う人員が確保できなくなることは大問題だし、四次下請け、五次下請けを通じ、暴力団に人件費をピンハネさせて、不法勢力と水面下でつながることに有形無形のメリットを感じているため、身元確認の義務化には反対姿勢を貫いた。(第17章 再稼働 P260)というようなものになっていることに暗然たる思いが湧いた。

 また、外務省機密漏洩事件を思わせる筋立てにしたうえで「何が秘密か」というのは、行政当局のさじ加減一つで決まる。当局が秘密と主張すれば、裁判所はそれを秘密と認めるであろう。それは容易に想像がついた。 自らの天下りと引き換えに報告案をこっそり見せる行為と、それをマスコミにリークする行為……後者のみが秘密というのは、いかにもバランスを欠いた話ではある。しかし、性交渉を通じて機密が漏洩されたという点にばかり世間の関心が集まるため、捜査の不当性を追求するメディアは少なかった(第18章 国家公務員法違反 P282)などとしている点については、本書が刊行の三か月後に成立した特定秘密保護法を意識していることが明らかで、大いに目を惹いた。

 刊行当時以上に、本当に再稼働が始まっている今読むほうが、より意義深いような気がした。
by ヤマ

'16. 9.10. 講談社



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