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『不良少女 野良猫の性春』['73] 『愛獣 惡の華』['81] 『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』['76] | |||||
監督 曾根中生 監督 加藤彰 監督 田中登 | |||||
青春プレイバックを標榜する定例の合評会のPartⅡたる邦画篇の50回記念は、にっかつロマンポルノ三本立てだ。いずれも未見作品のはずなのだが、先ずは三作のなかで最も古い片桐夕子の『不良少女 野良猫の性春』から視聴することにした。 のっけから「これぞロマポ!」というオープニングで、その後、示し合わせた駈け落ちをすっぽかされた鳩子(片桐夕子)が東京に出て来て思わぬ性遍歴を事も無げに辿っていく話だった。お茶もレーンに乗って回ってくる元禄寿司というのが確かにあったなと懐かしく観たが、当時は一皿70円で三つも載っていた。僕が高校一年生の時分だ。まだ風俗街にトルコというネオンサインが掛かっている時分のことでもあった。 ヤクザの兄貴分(髙橋明)に犯されながら「女の転落はヤクザに犯されるところから始まる」と鳩子が読んだ週刊誌の記事の受け売りで言っていたが、ヤクザ稼業といっても専ら借金取立てと風俗斡旋しか出て来ず、トルコ嬢にしても、ゴマメ(江角英明)が食事前の鳩子に繰り返し右手を洗うよう求めていたように、スペシャルと呼ばれた手技が主だったものとして描かれていたのは、ある種の配慮なのか、どこか長閑な風情が漂っていて、哀感よりも緩さが印象に残る。 何処かすっとぼけたアナーキーさという点では、公道でのトップレスダンスを繰り広げる女座長率いる紅團の芝居に石原莞爾を登場させてアングラ演劇を偲ばせてはいても、同じ片桐夕子=曾根中生のコンビだと前年作の『㊙ 女郎市場』['72]のほうが優っているように感じた。 ヤクザたちと関わって女が転落したように運ばれる物語だったが、観ようによっては、鳩子の屈託のなさに魅せられ、惚れてしまったヤクザの五郎(沢田情児)もゴマメも命を落としてしまうことになるファム・ファタール物語でもあった。彼ら「男の転落」は、どこから始まっていたのだろう。 翌日観た『愛獣 惡の華』は、悪ではなく敢えて「惡」と旧字体にしてボードレールを想起させたうえで、マノンときてナオミ(泉じゅん)かと、思わず笑ってしまった。男に弄ばれ、愛玩物にされる女の名をナオミとしているだけあって、主従転倒し、悪の華咲かせたナオミに男が翻弄され、転落して行く話だった。ちょうど『不良少女 野良猫の性春』にあった台詞「女の転落はヤクザに犯されるところから始まる」が利いてくる、「不良人妻 華咲く性夏」とも題して対照できる作品だったように思う。 組で若頭を張り、不死身を謳っていた強面の淵上(林ゆたか)がナオミに溺れて、形無しになっていく姿には確かに『マノン・レスコー』のデグリューを想起させるところがあったように思う。娼婦マリとなったナオミを淵上以上にカネに飽かせて囲い込んだ筋者社長が呆気にとられる女になっていったナオミの場合を、転落というのか、悪への昇華というのか。いずれにしても、本質的に男は女に敵わない存在でしかないことを、淵上の監禁調教によって超絶技巧を身に付け、「喉の奥にもう一つ舌のある女」となって男を虜にし、翻弄するナオミを描くことで示していた気がする。スプーンを使って口淫技巧のトレーニングに勤しむ場面は、他に類がなく目を惹いた。谷崎の『痴人の愛』は未読だけれど、増村による映画化作品の『痴人の愛』['67]と高林による『「痴人の愛」より ナオミ』['80]は観ている。ボードレールの『惡の華』も未読だ。原作既読のマノンの映画化作品のほうは、『情婦マノン』['49]と『恋のマノン』['68]を観ている。それらを踏まえて眺め渡すと妙味が増す設えになっていたように思う。 それはともかく、淵上にナオミを取り上げられた芝崎正(内藤剛志)の存在が今一つ活かせていなかった気がするけれども、付け馬に来て正の元に居ついたミツ子(山地美貴)との対照は利いていて、誰もがナオミになれるわけではないことを、その肢体ともども鮮やかに見せていたように思う。四作あるらしい泉じゅんの愛獣シリーズで観ているのは、次作の『愛獣 襲る!』だけなのだが、本作のほうが好いように思った。 だが、ナオミを拉致してきた最初の日の淵上の不慮の不能ネタは、ポンと百万円出してきた程の一目惚れによる気後れだとしても、物語にそぐわない気がした。悪の華を開花させたナオミによる主従転倒を際立たせるうえでは、最初から取って付けたような弱みを淵上に設えるのは逆効果になる気がする。場面エピソードに終り、作劇に貢献しているようには映らなかった。 最後に観た『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』は、前二作の狭間にある'76年作品だが、このところ続けて視聴しているテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」の天知茂による江戸川乱歩の美女シリーズと違って、原作当時の時代設定を再現しているところが目を惹いた。同時代作に翻案するのと違って遥かにコストが掛かりそうな設えを低予算のはずのロマンポルノでやっていて感心させられる。ラストに現れる関東大震災への強い拘りがさせたものなのだろう。映画化された「屋根裏の散歩者」はたくさんあるように思うが、僕が観ているのは十七年前に観た三原光尋監督作品だけだ。三原作品でもあるし、ロマンポルノのようにエロに力を入れていない造りだった印象が残っている。本作では、わざわざ“猟奇館”と謳っているように、元々は猟奇趣味以上に犯罪小説としての造りが濃いものだったように思う。 本作は、ポルノだけあって裸女はけっこう登場するし、片桐夕子や泉じゅんと比較しても艶技に一頭地抜きん出た宮下順子【奥様】がやはり大したものだと感心した。原作には出て来なかったように思うピエロ(夢村四郎)やら女流シュールレアリスト(渡辺とく子)、似非宗教家(八代康二)などが、どこか大正モダニズムを偲ばせるものとして登場する一方で、テレビ朝日系の美女シリーズとは対照的に、原作には登場する明智小五郎を出さずに『人間椅子』を盛り込み、奥様を配する趣向を凝らしていた。 生への退屈ないしは倦怠が犯意や非行への誘惑を促すのは、大正期に限らぬ普遍的な人の心性なのだろう。屋根裏の散歩者たる郷田(石橋蓮司)が奥様と暗黙の了解による共犯者になっていくのも、その心性が響き合ったところにあるような気がした。だが、それは震災後に汲み出されていた血溜まりの井戸水のように、湧いてきては不都合なものに違いないように思う。 ため息の如くもの悲しく奏でるヴィオロンの♪ツィゴイネルワイゼン♪と♪ゴンドラの唄♪に続いて、銀子(田島はるか)の歌う♪カチューシャの唄♪で終える本作が描いていたものは、乱歩猟奇館との標題とは掛け離れた普遍的な無常感だったような気がする。 メンバーが三人しか集まらなかった合評会では、てっきり三人とも分かれると思っていた支持作が、思い掛けなく三人とも『愛獣 惡の華』だったことに驚いた。不同意性交場面が頻出するロマンポルノは些かしんどいとの声が女性メンバーから出たが、ある意味、最も暴力的な性的虐待をナオミが強いられ、肛門裂傷の血を流す生々しい場面の出てくる『愛獣 惡の華』を何ゆえ選んだのか訊ねたところ、最後にナオミが淵上を轢き殺したことに留飲を下げたとのことだった。そう言えば、彼女が絶賛する『㊙色情めす市場』には、不同意性交場面は登場しなかったような気がする。 だが、それで言えば、同じ田中監督による『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』のほうにしなかったのは何故かと訊ねると、同作には、似非宗教家の遠藤による女中の銀子へのセクハラ場面が出てくるとのことだった。遠藤も淵上と同じく作中で始末されてしまうのだが、銀子が手を下してはいないから駄目だったのかもしれない。『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』のほうへの支持は、当日急遽欠席となったメンバーからの不在者投票の一票だったのだが、女性メンバーと欠席メンバーの二人が共に熱烈な『㊙色情めす市場』支持者だから、同様に二人が揃って『江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者』を支持するはずと見込んでいた僕の予想は、半分当たって半分外れた。 奇しくも支持が『愛獣 惡の華』に集中したことから、僕が違和感を覚えていた淵上のED設定の要否についての意見を求めると、女性メンバーから必須だと力説され、ちょうど『十八歳、海へ』でのロタ島エピソードの要否についての見解のときと、逆転が起きたようで面白かった。 不能者が百万円も払って女性を買おうとするのか?と質すと、彼女なら可能になるかもしれないとのインスピレーションが働いたのだと思うとのことだった。そこで、役に立つ状態なのか否かは自分で判るはずなのに、強面で調教に臨んでいた場面で不如意の股間にナオミの頭を抑えつけて押し付け、わざわざ笑われ、馬鹿にされるような場面を設える必要があったようには思えないが…と問うてみたところ、彼女としては、EDからの立ち直りを果たさせてくれたナオミだからこそ淵上が執着したわけで、EDは欠かせないのだとの見解だった。だが、執着理由として判りやすくなっても、場面に現れた唐突感と、不能回復が第一の理由だと性技の威力が後ろに退いてきてしまうので、僕としてはやはり、EDをかませずに、途中から自ら進んで口淫技巧を磨き始めたナオミの獲得した超絶技巧に蕩けたというほうが、その超絶を際立たせて効果的な気がしている。 | |||||
by ヤマ '25. 5. 6. DVD観賞 '25. 5. 7. DVD観賞 '25. 5.11. DVD観賞 | |||||
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