『ケイン号の叛乱』(The Caine Mutiny)['54]
監督 エドワード・ドミトリク

 これが『ケイン号の叛乱』かとの思いとともに観た。なるほどハンフリー・ボガートが思わぬ役処を演じて、偏執症で保身と小心に囚われたフィリップ・F・クイーグ艦長を見事に体現していて感心した。ドラマとしても非常に面白く、通信長のキーファー大尉(フレッド・マクマレイ)が事件の顛末を小説にして成功を収める企てをしたという部分と、軍事法廷の弁護人グリーンウォルド大尉(ホセ・ファーラー)が彼の悪巧みを暴き、クイーグ艦長を追い詰めた後味の悪さを吐露するとともに、艦上で艦長を窮地に追いやった士官たちの過ちを咎める部分が、果たして原作小説にもあったのか、大いに気になった。

 証拠として挙がっているものからすれば、いかにも勝訴は困難で既に八人が断っていたという案件の弁護をグリーンウォルド大尉が何ゆえ引き受けたのかは、おそらくは実際に会ってみて受けたマリック副長(ヴァン・ジョンソン)の真面目で篤実な人柄を観て取ったことと法律家としての自負、そして、何よりもクイーグ艦長への関心だったのだろう。

 もし、艦長がマリック副長やキース少尉(ロバート・フランシス)の言うようなパーソナリティ障害を抱えた人物なら窮地に追い込まれたら馬脚を現わすはずだとの確信もあったような気がする。法廷審理中、グリーンウォルド大尉の弁護に対してマリック副長の洩らす不服を抑えて、キーファー大尉への反対尋問も害になるだけだと行わないまま済ませたうえで、見事にクィーグ艦長の失態を引き出した場面でのボガートとファーラーに観応えがあった。

 序盤で真珠湾が出てきたので、太平洋戦争開戦時が舞台かと思ったら、'44年の終戦直前期を舞台にした'54年作品だった。過酷な戦闘経験を積んできているクイーグ艦長がそのPTSDとして負ったと思しき偏執症に対する想像力を欠いたままに士官たちが艦長を蔑ろにしたことをグリーンウォルド大尉が咎める場面には、'47年にハリウッドを追放された「ハリウッド・テン」の一人として禁固刑に処されたのち、転向を表明して権力に屈したエドワード・ドミトリクに対する映画の作り手たちの心遣いがあったような気がしてならなかった。原作小説に前述場面があったのか大いに気になった一番の理由だ。

 そこで早速、県立図書館で、'70年発行のH・ウォーク 新庄哲夫 訳<フジ出版社>版を借りてきた。すると、ピューリッツァー賞も受賞している'51年の原作小説にも、酔ったグリーンウォルドが勝訴の祝杯を挙げる士官たちのもとに現れ、長口舌を奮う場面がしっかりあって恐れ入った。しかも…ケイン号の人気作家が証言したときだけは、いちばん手ごわいように思われたね。ほとんど君をお陀仏にしかけたぜ、スティーブ。もちろん、彼が小説【『かまびすしきな、無数の民』(P539)】のほかにケイン号の叛乱の作者でもあるが、ぼかあ、彼がどんな人間なのかほんとはよくわからない。なんだか、彼は君やウィリーと同じ立場になって、自分こそいつもクイーグが危険な偏執狂であると主張していたと、率直に言明するような気がしてならなかった。いいかね、キーファを巻き添えにすれば、事態を悪化させるばかりだったろう……君だって百も承知していたじゃないか。キーファが君を踏台にしようとするかぎり、おれにできることはキーファにそうさせておくだけの話だったのさ……失敬、もうしゃべり終わったよキーファ君。…ほら、君に乾杯だ。君は完全試合をやってのけて勝った。クイーグを狙って撃ち落としたのだ。君は自分の服をよごさず、こじわさえつくらなかった。…君は海軍が鼻持ちならないってことを証明する小説を出版するだろう。百万ドルの財産をつくってヘディ・ラマールみたいな女と結婚するだろう。…ぼくがスティーブを弁護したのは、まちがった人間が裁判にかけられているのを知ったからだ。彼を弁護する唯一の道は、君のためにクイーグを沈めることだった。自分がそういうところへ追いやられたのが歯がゆかった。自分のやったことが恥ずかしかったし、だから、こんなにぼかあ酔っぱらっているのさ。クイーグはぼくの手にかかってかえってよかった。ぼくが彼に恩義を感じていることがわからんか。クイーグこそ、ヘルマン・ゲーリングがぼくのおふくろで、やつのぶよぶよしたお尻を洗うのを止めてくれたんだ。 だから、ミスター・キーファ、ぼくは君の夕飯を食わないし、君の酒も飲みたくない。ただ乾杯をして出てゆく。ほら、ケイン号の人気作家先生、これが乾杯だよ、君と君の小説にP543~P544)と述べてグリーンウォルドは、黄いろいワインをキーファの顔にぶっかけたP544)という、ほぼ映画と同じような場面になっていた。ただ、クイーグの偏執症に対する想像力を欠いたまま艦長を蔑ろにした士官たちの非を指摘する言葉はなく、やはり此処のところには、ドミトリクへの心遣いが働いていたのだろうと思った。




【追記】'24.9.7.
 H・ウォーク 著 新庄哲夫 訳による『ケイン号の叛乱』<フジ出版社>を読み終えた。ハンフリー・ボガート主演の映画化作品を観て触発され、読んでみたものだ。
 これほどの長編だと思わず驚いたが、それ以上に驚いたのが、この全七章の長編小説の最初と最後の章を除く大部分をほぼ漏れなく映画化していた脚本力だった。これを124分の映画にしているのだから、本当に大したものだ。昨今のやたらと冗長な映画との違いが改めて際立つ。
 本作の語り手とも言うべき中心人物ウィリー・キースの父親が息子に宛てた手紙に…聖書には、ユダヤ民族の戦役や儀式慣習など無味乾燥なことが多いのでいやになるかもしれないが、まちがっても旧約聖書だけは読み飛ばさないように。旧約はあらゆる宗教の心髄だと、わたしは思う。その中には、日常生活の指針がふんだんにある。…P81)と記している1951年の小説なのだが、第六章「軍法会議」でのクィーグ艦長の厚顔ぶりには、折しも兵庫県議会の百条委員会での県知事の答弁と重なってくるものがあって、人における因業の変わりなさに恐れ入るとともに、本作のクィーグ分析における捉え方がとても興味深く映ってきてタイムリーだった。
 また、冒頭の作者ノートにて…人物や事件は、すべて作者の想像の産物である。たまたま実在の人物や出来事と一致するところがあっても、それは偶然にすぎない。…実在する軍人、もしくは類似の人物をモデルにしたのではない。Pなし)とあって、確かに昔はこういうアナウンスのほうが一般的だったように思う。昨今やたらと実話に基づくとか実話を描いたとかいった売り方がされることとの対照ぶりが印象深かった。
 そして、非常に古い書籍で栞紐が千切れているのに、千切れたままきちんと挟み込まれて残っていることに感慨深いものがあった。こういう書を手にする人は、きっと本好きなのだろう。傷んでいても大事に扱う読者によって読み継がれている証だと思った。



参照テクスト『映画の戦後』を読んで
by ヤマ

'24. 7.20. BSプレミアムシアター録画



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