『熱い夜の疼き』(Clash By Night)['52]
『結婚協奏曲』(We're Not Married!)['52]
『ノックは無用』(Don't Bother to Knock)['52]
『モンキー・ビジネス』(Monkey Business)['52]
監督 フリッツ・ラング
監督 エドマンド・グールディング
監督 ロイ・ウォード・ベイカー
監督 ハワード・ホークス

 愛のビーナス・魅力作の集大成DVD10枚組との触れ込みの“永遠のマリリン・モンロー”から、'52年製作の四作品を続けて観賞した。

 バーバラ・スタンウィック、ポール・ダグラス、ロバート・ライアンに続く四番目にクレジットされた『熱い夜の疼き』のマリリン・モンローは、ふるさと物語の秘書役よりは重要度の増した役どころで、端役ながらもタイトルクレジットの出る前に画面に刻まれていた。彼女の演じたペギーが印象づける明るく屈託のない健康さは、ペギーの恋人ジョーの姉メイ・ドイル(バーバラ・スタンウィック)との対照を示していたし、激しく打ち寄せる波のショットで始まった本作に最初に登場する人物が、欠伸をしながら起き出すマリリンの姿だった。

 それにしても、実直な漁師ジェリー(ポール・ダグラス)と結婚し娘を儲けたメイの心の内に打ち寄せていたアール(ロバート・ライアン)に対する激しく抗いがたい想いの源泉は、いったい何だったのだろう。岩場に寄せて散る波を引き起こす自然の力に匹敵するような引力を持っているとはとても思えないアールの“不遜でだらしのない無責任な自惚れ男”ぶりに呆れ果てた。いかにも '50年代的マッチョと言ってしまえば、それまでなのだが、女を見下さない男は好きよとジェリーに言っていたメイが、アールを忌み嫌いながらも惹かれることの気が知れなかった。

 思えば、ペギーが私が許可しない限りキスしないでと窘めていた恋人のジョーも、アールほどではないにしても '50年代的マッチョに塗れていたように思うし、ジェリーが面倒を見ていた叔父のヴィンス(J・キャロル・ニッシュ)にしても、ろくでもない男だったような気がする。あまり愉快な映画ではなかった。


 翌日に観た『結婚協奏曲』は『熱い夜の疼き』の同年作で、マリリン・モンローは、同作と同じく、ジンジャー・ロジャース、フレッド・アレン、ヴィクター・ムーアに次ぐ四番手だった。

 婚姻手続きを司るメルビン判事(ヴィクター・ムーア)の手違いで、無効の婚姻をしていた五組の夫婦の二年半後を描くことで結婚の悲喜こもごもを炙り出す趣向は面白いものの、綴られたエピソードそのものは特異に過ぎて今一つだった。夫婦となったことでラジオの冠番組を得ておしどり夫婦として人気を博していたグラドウィン夫妻(スティーブ:フレッド・アレン、ラモーナ:ジンジャー・ロジャース)のわずか二年半での醒め様と冷たさがどうして最後の場面に繋がるのか御都合主義もいいところだと思ったが、'50年代的良識として取って付けたエンディングというところなのだろう。

 二組目のノリス夫妻におけるミスコンとミセスコンの話も、ミスコン流行りの当時、'50年代にして既にミセスコンテストが実際にあったのか訝しくも思えたが、カネの集まりやすいミスコンに妻アナベル(マリリン・モンロー)が転じたことで、コンテスト出場そのものに対する態度を変える夫のジェフ(デヴィッド・ウェイン)の可笑しさが、今一つピンと来なかった。

 それからすれば、僅か二年半で倦怠を迎えていた三組目のウッドラフ夫妻の夫(ポール・ダグラス)が矢庭に独身気分に浸り、夜な夜な相手を変えて過ごす“酒と薔薇の日々”を夢みたものの、請求書を思い浮かべて我に返る姿のほうが判り易く、他愛無くも可笑しかった。

 なかなか面白かったのは、四組目の夫婦である石油会社の社長メルローズ(ルイス・カルハーン)が見舞われていた災難だった。妻のイブ(ザ・ザ・ガボール)の企みはおそらく結婚時からの既定路線だったのだろう。財産分与法を盾に交渉に臨んでいた悪徳弁護士(ポール・スチュワート)こそが主犯格のような気がしたが、法を盾にとっていた弁護士が、婚姻生活の事実はありながらも法手続きの瑕疵による婚姻の無効によってしっぺ返しを食らう顚末がいかにも痛快だった。婚姻無効の通知を受けてメルローズ社長が変貌を見せ、余裕をかました態度の可笑しみによって、痛快さが増していたように思う。

 五組目のフィッシャー夫妻のエピソードには、ノリス夫妻と違って婚外子問題が重大な結果に繋がる可能性があるという前提が、朝鮮戦争当時のアメリカ事情を浮かび上がらせていたようにも思う。もし戦死すると、子供が婚外子の母親になってしまうことを恐れたウィリーことウィルソン・フィッシャー(エディ・ブラッケン)が、脱走兵の嫌疑を受けてまでパッツィーことパトリシア(ミッツィ・ゲイナー)との婚姻手続きを完了させることに執心していたわけだが、“事実よりも手続きがものをいう社会”と“手続きを複雑にすることで生業を得ている人々”の存在が浮き彫りになっていて、'50年代とは比較にならない数の手数料商売で稼ぐ人々が、士業の名の元に跋扈するようになっている現代を図らずも照射しているように感じた。

 むかしの映画を観ると、映画作品としての出来映え以上に、いろいろ示唆に富むものが宿っていて、とても興味深いと改めて思った。


 三日目に観た『ノックは無用』では、マリリン・モンローが四番手から繰り上がってリチャード・ウィドマークと並んでのトップクレジットになっていたことが目を惹いた。驚いたのは、恋人を飛行機事故で失って心を病んだ女性を演じて、思いのほか好演を果たしていたことだ。両手首にリストカットの痕の残る痛ましいネル(マリリン・モンロー)の哀れと不気味に、鬼気迫るものがあって恐れ入った。

 一緒にいると楽しい人だけれども、優しさや心遣いに欠ける性格が辛くて、あなたの他人に対するその態度や考え方が嫌なのと言ってジェッド(リチャード・ウィドマーク)に別れを告げていたクラブ歌手のリン・レスリー(アン・バンクラフト)が、思い掛けなくもネルへのジェッドの対し方を目の当たりにすることで、自分のほうが上辺だけで判断していたとの気付きを得て、復縁を決める顚末に少々取って付けたようなものを感じたけれども、思いのほか観応えがあった。

 精神科を退院しながらも、心に傷を負って妄想や願望と現実の見境が覚束なくなり、現実的な自制心をコントロールできなくなっているネルが、子守として雇われた先の主のドレスや宝飾品を身に着けることを我慢できなかったり、世話すべき幼子を己が恋路の邪魔をする“悪魔”呼ばわりする有様には、伯父エディ(エリシャ・クック・Jr)やジェッドがどのような眼差しを向けるかさえ思い及ばない始末が窺えたわけだが、虚ろな浮遊感と思い詰めた切迫感を漂わせた人物造形がなかなか見事なマリリン・モンローだったように思う。

 また、本作は奇跡の人が圧巻のアン・バンクロフトのデビュー作とのことだが、臈長けたリン・レスリーを演じて、これが二十歳過ぎのデビュー作だとはとても思えない貫録に恐れ入った。


 四日目に観た『モンキー・ビジネス』は、先に観た『熱い夜の疼き』『結婚協奏曲』同様にマリリン・モンローが四番手に戻っていた。ケーリー・グラント、ジンジャー・ロジャース、チャールズ・コバーン【オクスリー社長】に続く位置ながら、タイトル表示前のトップクレジットに刻まれていて、前年のふるさと物語と同じ秘書役となるローレルを演じていた。

 作品的にはコメディーなのだろうが、僕にはさっぱり響いて来ず、それこそタイトル通りの、猿が気儘に薬剤を混ぜ合わせたモンキー・ビジネス映画のように映ってきた。バーナビー・フルトン博士(ケーリー・グラント)の夫人エドウィナを演じたジンジャー・ロジャースの、七十年前だとさぞかし年齢不相応な軽快な動きに映ったであろう身のこなしにしても、今や中年どころか老年の域にあってもそれ以上の動きを見せる人が一般人においても珍しくなくなっているものだから、さして見映えがしない。バーナビーの人物造形が醸し出すはずの学者馬鹿ぶりも、もはや学者なる存在の権威自体が失墜しているから、可笑しさよりも只の馬鹿にしか映ってこなかった。

 とはいえ、マリリン自身の魅力は悪くない感じだった。バーナビー博士の開発した強靭な繊維で作ったストッキングについて褒めるのを口実にして脚線美で誘いをかけ、モンキービジネスによって偶発的にできた若返り薬で発奮した博士からドライブに誘われて有頂天になりつつも、既婚者と知らされ落胆する若い娘の溌溂をよく演じてたように思う。

 だが、肝心の本筋のほうが、プロローグで見せていたまだ始まらないよの繰り返しの他愛なさがまさに本編を象徴しているような作品だったような気がする。もしかすると黒澤の遺作『まあだだよ』のタイトルは、本作から来ているのかなと思ったりした。
by ヤマ

'24. 1. 1~4. DVD観賞



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