『ガーダ パレスチナの詩』['05]
『ぼくたちは見た-ガザ・サムニ家の子どもたち-』['11]
監督 古居みずえ

 '88年に四十歳にして報道写真家に目覚め、パレスチナに向かうことにしたという監督が'94年に出会った当時二十三歳だったパレスチナ人女性ガーダ・アギールさんを三十五歳まで追った十八年前の作品と、'08-'09年のガザ侵攻を受けて、一族の二十九人が一度に殺されたサムニ家の子どもたちを捉えた十二年前の作品だ。

 僕がパレスチナ映画を初めて観たのは、ちょうど三十年前に第五回高知アジア映画祭としてイスラエルとパレスチナの映画に加え、アラブ諸国の作品まで、八カ国十七本にもなるフィルムを一堂に会して四日連続上映するという、全国的にも例のない質量ともに充実した真の意味での中東映画祭を実施した際に上映したミシェル・クレイフィ監督による劇映画『ガリレアの婚礼』['87]と、『豊饒な記憶』['80]、『マアルール村はその破壊を祝う』['84]という二本のドキュメンタリー映画になる。いずれも第1次インティファーダ以前の作品だが、僕らが上映した時点では、インティファーダを経てオスロ合意が調印されたばかりだった。

 カンヌ映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した『ガリレアの婚礼』にも出てくるパレスチナの伝統的な結婚式。それは花嫁と花婿がお披露目の後一室に消え神聖な契りを交わす。その間、列席者は歌や踊りの宴で二人の前途を祝い、純白の夜具に染められる“夫婦の証”が届くのを待つという、独特の儀式である。と『ガリレアの婚礼』公開当時のチラシの解説にも記された婚礼の伝統に抗うガーダの姿を捉えた『ガーダ』では、英語も堪能で進歩的な女性であり、パレスチナ人の歴史や詩歌を聴き取って文筆家として継承していこうとする彼女の力強い生き方が描かれていたように思う。

 オスロ合意後の'96年に生まれた長女ガイダを「平和の子」と呼んで希望を寄せていたことが印象深かった。それなのに、その後の第二次インティファーダにおいても、投石に対して装甲車や銃撃で向かうイスラエル軍が何とも強烈だった。今現在、生きていれば五十路に入っていると思われるガーダのその後は、どうなったのだろう。手元にある2005年当時のチラシによれば、来日して監督とのトークなども披露していたようだ。


 イスラエル人死者13名に対して10倍以上のパレスチナ人の死者数を挙げて始まった『ぼくたちは見た』は、逃げる後ろから後頭部を撃たれたようだと医師が説明していた十三歳の少年が亡くなり、葬儀を行う場面から始まった。イスラエル軍の呼び掛けに応じて両手を挙げて表に出た父親が一斉射撃で惨殺されたのを目撃したというサムニ家の少年や、信仰と教育の力でイスラエルの望まない抵抗を生涯続けると誓っていた少女が、支援物資や封鎖解除を望んでいるのではない、今ここで起こっていることがどんなことなのかを知ってほしいと話していたことが印象深い。十二年前の作品だから、サムニ家の子どもたちは、もう二十代の青年になっている。いまガザでどうしているのだろう。生命が今もあるのだろうか。

 1948年に彼らがやってくるまでは、パレスチナは素晴らしい土地だったと古老が涙して語っていたのは、『ガーダ』のほうだったように思うが、七十年以上も戦争を続けているなかで、銃撃音や爆弾の音が途切れない環境で生まれ育ち死んでいくことが日常になっている人々の姿と声に何とも気が重くなり、すっかり沈み込んでしまった。ほんとにキツイ映画で、少なからぬ数の多種多様な映画を観てきている僕のなかでも破格のものだった。




参照テクスト
 “シリーズ緊迫パレスチナ情勢①~③”を観て
参照テクスト
 『アラファトの実像』『ネタニヤフとアメリカ大統領 ガザ侵攻への軌跡』『議会乱入を仕組んだ男 トランプ 陰の“盟友”』を観て
by ヤマ

'23.11. 6. 喫茶メフィストフェレス2Fシアター



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