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美術館 冬の定期上映会 “濱口竜介監督特集”
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Cプログラムは、少々すかした印象が肌に合わなかった『ドライブ・マイ・カー』['21]に比して滅法面白かった『偶然と想像』['19]の原点に触れたくて、平日日中しかやらないプログラムを休みを取って観に行ったものだ。 先に観た『PASSION』は、何ともめんどくさい映画だと思った。人は本音を聞くことで確かなものを得るのではなく、本音であろうと修辞であろうと、自身が言葉にすることで気づきを得るものであることが、とてもよく描かれていたように思うが、ゲームに仕立てることで衒いの無さを創り上げるという衒いの“手の込んだ衒いぶり”が少々気に障った。二十四年前に観た『ワンダフルライフ』['98]の日誌に「映画の作りや人の生に向ける眼差しに、真面目ではありながらも、どこか切実さを欠いた小賢しさが潜んでいたような気がしてきた」と記してある初期の是枝作品にも似た小賢しさというか、観念的創造を感じたのだが、切実さに関しては欠いているどころか、むしろ強迫されているのに近いものを感じる。パッションと題しただけのことはあるような気がした。 毅を演じていた渋川清彦の若さに驚いたが、もう十五年も前になる作品だ。彼が智也(岡本竜汰)について指摘していた“空っぽ”は、『ドライブ・マイ・カー』でも高槻耕史(岡田将生)が自分に対して言っていた形容だ。作り手にとってのキーワードなのだろう。三十歳の時分に学友たちからは学生気分が抜けない奴と言われた覚えのある、青臭さの抜けない僕でも、当時もう少し達観していたような気がするが、本作に描かれていた気圧されるほどに“生のパッション”を保持して群れている仲間内を面白く観た。 そして、何とも苛立たしいまでに困ったものというか気の毒でもある果歩(河井青葉)に比して、聡明でブレのない貴子(占部房子)の抱えている寂しさに魅せられた。アクティヴさにおいては対照的だが、先ごろ観たばかりの『恋のいばら』の桃(松本穂香)と莉子(玉城ティナ)を想起した。占部房子が実に好くて、宿題映画にしたままの『バッシング』['05]を俄然、観てみたくなった。河井青葉のねっとりした声質が重たい人物造形によく嵌っていた気がする。果歩と健一郎(岡部尚)が夜通し歩いて語り合った果ての破談場面に現れた急旋回を見せる大型トレーラーの出現が圧巻だった。 続けて観た『THE DEPTHS』は、『PASSION』とはまた違った意味で、何とも拗れたややこしい関係の描かれた作品だったように思う。残念ながら『PASSION』の貴子と違って、男娼リュウ(石田法嗣)には、ヤクザの木村(米村亮太郎)のみならず、フォトスタジオを経営するギルス(パク・ソヒ)や行きずりの韓国人男も含めて、誰も彼をも魅了し、ゲイやらバイの世界に引き込むだけの魅力を感じられず、オープニングの『卒業』もどきの結婚式場からの逃走までもが同性愛者であるLGBTQの余りにものてんこ盛りに当世風を覚えつつも、些か興醒めるようなところがあった。車中で写し合った写真の笑顔一つとってもカメラマンのペファン(キム・ミンジュン)のほうが遥かに魅力的だったように思う。『蛇とピアス』['08]を想起させるような“曲がったレールをうねるようにして進み来る電車のスローショット”が目に留まったのは、本作だったような気がしているが、もしかすると『PASSION』なのかもしれない。 日曜日に観た『寝ても覚めても』は、二十一年前の“空想のシネマテーク”「ドキュメンタリーとアバンギャルド」で観たことのある『SELF AND OTHERS 』(佐藤真監督)が捉えていた写真家の牛腸茂雄の代表作である瓜二つの少女の写真を注視する泉谷朝子(唐田えりか)と、鼻唄で♪クラリネットをこわしちゃった♪を口遊む鳥居麦(東出昌大)の姿が印象づけられ、それが二人の出会いについて居酒屋で岡崎(渡辺大知)に語る回想場面だったことが、後に麦と瓜二つの丸子亮平(東出昌大)との出会いと、♪ドとレとミとファとソとラとシの音~が出な~い♪全滅の有様に♪とっても大事にしてたのに壊れて出ない音がある♪どころではない♪どうしよう、どうしよう♪という“亮平との関係を壊しちゃった朝子”を暗示しているという、例によって後から成程と反芻させる妙味に溢れた作品で、なかなか面白く観た。 僕が好んでいる今泉作品でもそうだが、仲間内での恋愛話を描くなかで、人と人との関係性やコミュニケーションの取りようを描くところに注力しているところが興味深くもあり、面白くもあるように感じた。文学でも映画でもかつては登場人物の心理描写に重きを置いていたものが、描写対象としての作者全知的な確たる心理などには懐疑的な人間観が作り手たちの間に浸透しているのだろう。実に真っ当なことだと思う。とりわけ身体動作や口調などを明示できる映画作品においては、それこそが表現の主題となるべきものだという確信が作り手にあるように感じられた。 二年経って後の五年経ってから後のことだったように思うから、ほぼ十年近く経って現れた鳥居麦の「戻って来たよ」に朝子が応じてしまうようなことが、得てして過去との切り替えの巧みな女性らしからぬ振る舞いのように映ったけれども、考えてみれば、目の前に現れた以上それこそが現実で、亮平とのそれまでの時間という過ぎた時間よりも目の前に現れた今に対して躊躇なく反応したという点で、とても男どもには真似の出来ない極めて女性的な荒業だなとも思い直した。そして、それを一晩のうちに撤回してしまう点もまた、過ぎた時間のほうに囚われがちな男どもにはなかなか真似のできない荒業だと思う。 そのようなことを思っていたら、エンドロールに原作:柴崎友香とクレジットされ、脚本も田中幸子・濱口竜介と出てきて得心した。また、朝子の変心以上に現実感を欠くようにも映って来ていた、徹頭徹尾謎めいた鳥居麦の人物像と、余りにも善良で公平感に溢れていた良平ならぬ亮平の人物像、更には串橋耕介(瀬戸康史)の素直さ、朝子のみならず春代(伊藤沙莉)やマヤ(山下リオ)・栄子(田中美佐子)といった女性たちの人物像が備えていた実在感とのギャップの大きさというものに納得感が湧いた。 朝子の厄介さというのは、春代が朝子に麦は止めておけと忠告していた弁そのものだという形で返ってきていたように思う。「感謝するのは僕のほうだ…だから、頑張れる」と言っていた亮平の心中に嘘はなく、棄てられずにいた猫を棄てたと言って追い返した朝子が猫を探しているかどうかを確かめに、雨のなか川べりにまで来ていた段階で既に亮平の受容は決まっていたようなもので、元のとおりには戻せなくても復興させてやっていくしかないのは震災後の被災地と同じと言えば同じという二人だったような気がする。あの津波さえ来なければというのは、あの夜、麦が訪ねて来さえしなければと同義で、起こってしまった以上、なかったことには出来ないものだと思う。 川べりにビニール傘を差して現れた亮平を見つけて走って追った朝子の姿を空撮で捉えたショットのなかで二人の走り行く方向に雨雲が追いやられ、陽の指す影が絶妙のタイミングで映し出されていたが、一体どうやって撮ったのだろう。もし偶々だとしたら、何と幸運なことかと、まさに映画の神様に選ばれている作り手だとその後の来し方を想起せずにいられなかった。 それにしても、ステージ・インタビューを聴いて感じた濱口監督が役者に求めていると思しき「役を演じるのではなく、役を生きる演技のための本読み」を重ねてかような二人を演じたことが結果的に、後に露わになったスキャンダルに影響しているようにも感じられ、何とも罪作りな映画だったのだなとの感慨を覚えた。役者稼業は大変な試練の連続なのだろうと改めて思う。 続けて観た『不気味なものの肌に触れる』は、作中にて「『FLOODS』に続く」と英語でクレジットされたように、ある意味、中途半端な作品だったように思う。十年前に本作で途切れてしまったら、流石に同じ配役で殺人事件の捜査状況を描くことは叶わないだろうから、ん十年か前の事件としてのその後を描くことになる訳だが、それでも、その後を観てみたく思ったのは、『THE DEPTHS』で男娼リュウを演じていた石田法嗣の演じる直也と千尋(染谷将太)の関係が、とても興味深く感じられたからだ。直に触れないことで研ぎ澄まされて触れられるようになる世界なり感覚というものをどういう形で映画として“捜査”するのか観てみたい気にさせられた。千尋の兄ちゃん(渋川清彦)とその愛人(瀬戸夏実)がなかなか好く、二人の関係のその後も大いに気になった。 公式サイト:高知県立美術館 *『寝ても覚めても』 推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20180909 | ||||||||||||||||
by ヤマ '23. 1.19,22. 美術館ホール | ||||||||||||||||
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