『尼僧物語』(The Nun's Story)['59]
『いつも2人で』(Two for the Road)['67]
監督 フレッド・ジンネマン
監督 スタンリー・ドーネン

 一年前に公開されたドキュメンタリー映画の記憶にも新しい、稀代の大女優オードリー・ヘプバーンの著名作とは言えないように思われるカップリングの二本を課題作として観賞した。

 先に観たのは、ガブリエル・ヴァンダマー(オードリー・ヘプバーン)が左手に嵌めた指輪を外す姿で始まり終る『尼僧物語』だ。およそ敬虔とは縁遠い僕には「何が試練だ、笑止!」という外ない、教会なるものの修道などとする服従支配の仕組みと有様を描いた前半部がいささか長々しく、また“自由意志[Free Will]”の侵害、洗脳過程がしつこく、不愉快で仕方なかった。あれだけ不快というか、うんざりさせるというのは、ある意味、表現力の高さなのかもしれないと思うほどだった。

 尼僧を志す娘たちを床に這いつくばらせた後に立たせておいてエマヌエル院長(ペギー・アシュクロフト)が宣う質素で汚れの無い服従生活だの自然に逆らった生活だのに、何らの価値も自己研鑽も感じられず、ただただ従うことを求める“沈黙の戒律”などによる抑圧に閉口し、おそらく最後には、これらとの訣別が待っているのだろうと思いつつも、待ちきれない感じに苛まれながら観た。

 医療より信仰生活が大事だと断言し、宗教的戒律の元に己が良心を封殺するようなものにシスター・ルークことガブリエルが収まっていられようはずがないし、また、収まるべきではないとしたものだ。ただ、我慢ならない倒錯世界をよく描いているとは思った。

 それにしても、御年三十歳にして驚くべき清冽を放っているオードリーに畏れ入った。断髪式でのガブリエルを捉えた横顔の十代でも通りそうな清廉さに目を見張った。このオードリーの歳に似合わぬ健気な可憐さが、教会の与える“試練”の理不尽を際立たせていたように思う。父親(ディーン・ジャガー)が家から送りだすときに助言していたように、さっさと辞めればいいのに、そうもいかないのが信仰なるものの難儀なところなのだろう。

 阿鼻叫喚のもとの熱湯風呂浸けを療法として行っていた精神病棟の描写も、教会の非人間的な懲罰体質を見せるためだとしても何とも中途半端だったように思う。修道院で父親が最初に娘を“頑固”と紹介していたガブリエルへの懲らしめと、彼女が自分の未熟を思い知るだけのエピソードに留めてはいけないような気がした。有能だけれども我の強いガブリエルを持て余した修道院側の処遇のお為ごかしの嫌がらせの執拗さがとにかく不快だった。合評会メンバーの牧師の意見が楽しみになった。


 次に観た『いつも2人で』は、道路標識ばかりのタイトルバックで始まっただけあって、いろいろな車が錯綜して走ってばかりの些か面倒な映画だった。一見したところ、連れ立って二人で外食に出るほどに睦まじくても、会話の一つも弾まなくなっている平静さが《married people》の常道だと見えても、その背後には、いろいろ複雑な感情の葛藤や来歴があるとしたものだということを見せるにしても、あまりに込み入った編集に頭のなかが少々混乱してくる作品だったように思う。結婚2年目の黄色のワゴン車の旅と緑のMGの旅の後先を受胎の話が出るまでは逆に受け取っていた。

 フロリアン・ゼレール監督のファーザー['20]が認知症に見舞われた人物の視点で映画世界を構築していたように、外国で開催されるパーティに招待されて娘のキャロラインを母親に預け、夫婦で白いベンツに乗って出向いていたと思しき、マーク&ジョアンナ・ウォレス夫妻(アルバート・フィニー&オードリー・ヘプバーン)の胸の内に去来していた、昔の旅路の記憶を二人が道中で思い出すままに構成していたということなのだろう。確かに、良きことも悪しきことも飛び飛びに、ごちゃ混ぜに蘇ってくるとしたものだ。

 なかではやはり、婚前のヒッチハイク旅行が最もハプニング豊かで楽しそうだった。マークがジャッキー(ジャクリーン・ビセット)の誘いのほうに乗って、ジョアンナとは旅していなければ、彼らの人生は全く異なったものになったことだろう。人生とはそういうものだ。それはともかく、背面までしか露にならなかったけれども、オードリーにベッドシーンのある映画があったのかと驚いた。

 そして、夫マークの元カノ一家と旅した“ルーシー道中”とも言うべき黄色のワゴン車の旅のなかで、子供を望まないマークがジョアンナにこれでも子供が欲しい?と問うた場面が面白かった。ほしいわ あの子はいらないけどと言っていたジョアンナが、受胎を告げていた緑のMGで旅していた道中もなかなかハプニング豊かだったけれども、愉しげな様子は結婚前には及ばない。それでも、じゃれ合っている感じが微笑ましかった。

 ところが、産後となる赤い2402MTに乗っていた時分には夫婦に擦れ違いが増え、ポンコツMGの旅でモーリスとの縁を得て建築家として成功したことから経済的な豊かさは得ながらも、夫婦共々、満たされぬ不満と失望の発散を婚外交渉に求めたりしていて、幼い娘を連れた旅もちっとも心弾まない。

 それでも、最終的には互いの過ちも魅力も改めて認め合い、関係の良好だった時分に口にしていたヤな女【bitch】バカな男【buster】を再現させて囁きつつキスを交わして離婚危機を回避していく物語に、果たしてこの先、と思わぬでもなかった。なにせ彼らは、まだ三十代前半、ときどきの旅路のなかで見掛けていた幾組かの《married people》の年季にはまだまだ及ばない。打ち寄せる波やブルドーザーに崩される砂の城とならない保証などない。

 それにしても、結婚とは女が男に服を脱いでという意味が洗濯のためになる事だという、今どきのジェンダー的ポリティカル・コレクトネスからは顰蹙ものになりそうな台詞が、何とも可笑しかった。婚前、新婚、水いらず、育児危機、W不倫、夫婦再生、そのときどきの相貌の違いを演じ分けるオードリーを楽しむ作品のような気がした。『尼僧物語』から八年、アラフォーとなったオードリーが、八年前とは対極的な女性像を活き活きと演じていたように思う。


 合評会では、『尼僧物語』について牧師から「信仰者の側から観ると、あれは修道院側の処遇として嫌がらせでしているようには映らない」との話があった。本当に必要なこと、良かれと思ってやっているわけで、精神病棟での療法については疑問があるけれども、ガブリエルに対しては、先輩修道女に譲るよう落第を求めることも含めて、悪意を以て臨んでいるわけではないように見えるとのことだった。それは確かにそうで、悪意なきまま必要なこととして“嫌がらせ”にしか映らないようなことをしてしまえることのほうが、より罪深い問題構造だと改めて思った。これは何も宗教界に限った話ではない。閉鎖的集団におけるヒエラルキー構造のなかで示される戒律的な個人調教過程においては、普遍的に見られることのような気がする。「あなたのためなのよ」がお為ごかしなのか、本気なのかの違いにおいては、前者もろくなものではないけれども、より罪深いのは後者だというのが僕の感覚だ。

 興味深かったのは、落第を求められながらも合格したガブリエルが、口頭試問の回答に際して指示に従ったのか否かについて明示されていなかった部分を各人がどう観るかという点で、問い掛けてみたところ、見事に見解が分かれたことが、なかなか面白かった。合格しているのだから従っていないと観る者、実力的には四番手になるはずのないガブリエルだから従っていると観る者、落第には従わないけれども先輩には譲るべく調整したと観る者の三通りが挙がった。結果としての合否よりもガブリエルが指示にどう対応したと観るかという点に僕の関心はあったのだが、三通りになるとは想定外だった。だから、他者の意見を伺うのは面白い。

 僕としては、“頑固”なガブリエルに小器用な調整が行える気がせず、口頭試問に対して答える以上は、全力で臨むことを抑えられないはずだと思うから、答えていた以上、成績結果は最上位だったはずのものを教会側が四番手に落としたものだと解している。さすがに最上位を落第させるわけにはいかずに合格にはしたのだろうが、そのような苦肉をもたらしたことへの懲罰としてコンゴではなくベルギーの精神病棟勤務に送り込んだような気がしている。学問科学に誠実に臨みたい自我と信仰の求める去私の板挟みになって苦しんでいるガブリエルが哀れだった。

 また、『いつも2人で』については、面倒な映画とは受け取らず“夫婦あるある”話として単純に面白かったとの意見が興味深かった。あの凝った造りに対してシンプルに臨めるスタンスというのは、およそ僕にはない感覚で、非常に新鮮だった。




『尼僧物語』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/5542052352560969/
by ヤマ

'23. 4.11. DVD観賞
'23. 4.13. DVD観賞



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>