『キャロル・オブ・ザ・ベル 家族の絆を奏でる詩』(Carol Of The Bells)['21]
監督 オレシア・モルグレッツ=イサイェンコ

 ポーランド領下にあった現ウクライナで、裕福なユダヤ人大家と階を隔てた貸間に暮らすポーランド軍人一家とウクライナ音楽家一家という三民族の家族が過ごした第二次世界大戦を描いて、圧巻のドラマだった。

 ポーランド領にされていたのだから、当時のポーランド人とウクライナ人は極普通に、相互を快く思っていないわけだが、子供にはそのような“大人の事情”は関係ない。たまたま同じ年頃の娘同士が仲良くなったことによって、互いのぎくしゃくしたものが解れていたところに、1939年のソ連によるポーランド侵攻で、テレサの両親が連れ去られていた。父親は軍人だったし、おそらくカティンの森事件の犠牲者となったのだろうと思っていたら、母ワンダ(ヨアンナ・オポズダ)がシベリア抑留されていたというサプライズが仕込まれていて、戦後になると今度は母親が入れ替わるという設えに唸らされた。

 オープニングの1978年のカーネギーホール公演を行なっていたのはヤロスラワだろうと思っていたのだが、それも彼女の母ソフィア(ヤナ・コロリョーバ)がその才を見込んでいた少女テレサ(フルィスティーナ・オレヒヴナ・ウシーツカ)のほうだったことが後に明らかになる構成も見事だった。

 人種による隔たりなど何の意味もなく、国対国、人種差別などによって権力者たちが領土利権を争うことで、庶民の生活のみならず運命までもが翻弄されて、徒に命が奪われる無惨を描いて余すところのない秀作だったように思う。見事な脚本に感銘を受けた。

 ソフィアもワンダも我が子のみならずユダヤ人少女であれ、ドイツ人少年であれ、親を失くした子供たちの命を懸命に守ろうとする。その一方で、銃器を持った兵士どもは、逃げ出す少年を後ろから射殺することにさえ躊躇がない。楽器も銃器も共に人間が作りだした精巧な利器だと思うけれども、その生み出すものの違いの大きさには、絶望的な開きがあるとつくづく思う。実に巧みな設えだ。ドイツ人少年ハインリヒの配置が利いていた。

 引き取ったユダヤ人少女ディナ(エウゲニア・ソロドヴニク)のために、厳しい生活のなかで、ユダヤの祝日を皆で祝おうとするばかりか、ディナの妹を医者に診せられずに死なせることになった夜間外出禁止令を出したナチスの息子ハインリヒを引き取ったソフィアは、やはり凄い。その崇高なる精神がゆえにシベリア送りとなった後、どのような人生が待っていたのだろう。収容所の粗末なベッドをはぐって板目にピアノの運指を施している姿が痛ましかった。生き別れの流刑となった娘ヤロスラワとの再会は叶っていないような気がしてならない。また、ディナの伯父は戦前から北米に渡っていたから、その伝手をワンダが利用したのか、ワンダ亡き後、ディナが利用してテレサを連れて渡米したのか、いずれにしても、五、六十年代のポーランドから、どうやって出国したのだろうか。省略され、描かれなかった凄いドラマがきっとあったことだろう。

 それらを思い切りよく割愛し、1939年から一気に39年後の三人を映し出していた脚本が見事だ。繰り返しあの歌を歌っていたおかげか、金回りも悪くなさそうな風情での再会が迎えられていてよかった。そして、タイトルになっているキャロル・オブ・ザ・ベルがウクライナ民謡からのものだとは思い掛けなかった。

 それにしても、解放されたワンダに見下し目線を露わにしつつ、ヤロスラワ引き取りの希望に対して娘のテレサのほかは、ナチスに両親を殺されたと思しきユダヤ人少女ディナしか認めないソ連の女性執行官の描き方には、1939年の侵攻時のソ連兵士の蛮行の描き方以上の厳しい視線が感じられた。ナチスよりも悪しざまに描かれるソ連兵たちを観ながら、まだウクライナ侵攻の始まっていない2021年段階で既にロシアとの関係は、修復しがたいところに来ていることが窺えるようなウクライナ・ポーランド映画だった気がする。




推薦テクスト:「大倉さんmixi」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985464758&owner_id=1471688
by ヤマ

'23.12. 1. あたご劇場



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