『アルジャーノンに花束を』(Des Fleurs Pour Algernon)['06]
『フェアウェル』(The Farewell[別告訴她])['19]
監督 ダヴィッド・デルリュー
監督・脚本 ルル・ワン

 ちょうど一年前に観ている劇団昴の公演『アルジャーノンに花束を』とは、かなりテイストの異なるフランス版だった。名前もチャーリー・ゴードンからシャルル(ジュリアン・ボワセリエ)となり、IQ190の天才に転じた彼の恋愛譚が主軸になるという、如何にもフレンチな翻案作になっていたところが興味深い。作品タイトルにもなっている言葉も、元の知的障碍者に戻る前に遺した手紙ではなくなり、シャルル自身がアルジャーノンの墓に花束を供えていた。思わず殺してしまっていたのは、明らかにシャルルの自己否定なのだろうが、肝心なのは、薬効がなくなり、IQ190の天才の維持は出来なくなっていたとしても、記憶がなくなったり、元のIQ60にまで落ちたわけではなさそうだったことだと思う。IQ60時代に清掃業務先の学校の黒板に僕はシャルル、35歳と板書していた字とは比較にならない、綺麗なしっかりした字で花束に添えるカードに字を書いていた。

 フランス版では、アリス・キニアン先生についても、芸術家の隣人フェイ・リルマンと合わさったピアノ教師アリス・フェルネ(エレーヌ・ド・フジュロール)になっていて、シャルルとほぼ同棲までしていたのだから、元に戻ったシャルルにアルジャーノンの記憶があるなら、当然にしてアリスの記憶もあるのであって、もしかすると、最後の場面で、知的障碍者に戻ったシャルルの元を訪れ、愛してるとドア越しに告げて、開かれないドアに去って行くアリスが現われた場面は、シャルルの妄想だったのではないのかという気がしてならなかった。もしそうだったのであれば、それは一度ならず繰り返しては、シャルルに誰もいない戸外へと彷徨い出させていることにもなりそうで、その哀れが増すとともに、改めて酷な治療実験だったことが際立つようにも感じた。

 舞台劇を観た際の備忘録に医術と倫理の問題は、半世紀以上前とは比較にならない卑近さで現代人の皆人の前に横たわっており、無論のこと障碍者だけの問題ではない。とりわけ臓器移植と不妊治療の分野において、僕の問題意識のなかでも葛藤の大きいところがあるように常々感じている。最も大事なのは、やはり「誰にとっての」の部分であり、何を以て「良きこと」とするのかというところだろうと思う。単純に答えの出る領域ではないのだが、少なくとも言えるのは、ニーマー教授がよく口にしていたように「自分のことしか考えていない」という言葉で以て他者を非難できる人ほど、我が事が最優先の人であるとしたものだと改めて思った。と綴った部分は、教授の口癖こそ同じ形では出てこなかったが、同じように感じられる映画になっていたような気がする。


 翌々日に観た『フェアウェル』は、直接的に医術と倫理の問題が描かれていたわけではないが、誰にとっての、誰のためのものなのかという点で、通じてくるものを含んだ作品だったように思う。中国の長春に母親(チャオ・シュウチェン)を残して、二人の兄弟がそれぞれ日本とアメリカに移住しているなかで、母親の余命が幾ばくも無いと知らされ、本人に気づかせないようにしつつ両家族で帰郷するための大芝居を打つ話だったが、癌告知に対する考え方の違いを浮き彫りにしているところに妙味があった。

 アメリカ式に本人に真実を告げるのは当然で、むしろ義務だとする考え方と、中国式に癌で死ぬ以前から、死期迫る恐怖によって苦しむから隠すという考え方が本作では対照されていたが、日本では、かつて中国式だったものが、邁進するアメリカナイズによって今では、義務というよりも大勢がそうなってきたからということで、告知されることが多くなっているような気がする。

 三十二年前に肝臓癌で亡くなった父親に対して告知するか否か、担当医から相談された際、地元にいる僕が、かねてからの父親の望み通り告知してやるべきだという意見で、当時、アメリカに留学していた弟が、父親自身はそう言っていたとしても、自分の思うところでは父親は告知に耐えられないパーソナリティのような気がするという意見となり、兄弟で見解が分かれたことを思い出した。その点では、本作のビリー(オークワフィナ)の父親、伯父兄弟とは異なっていた。映画で意見が分かれていたのは、六歳のときからアメリカで育って三十路になっていたビリーと、親世代の移住一世たちだった。

 我が亡父の場合は当時既に十年近い臨床歴のある内科医の弟のほうがケーススタディが足りているのは自明のことなので、担当医には本人への告知を望まない方向で回答した。一縷の望みを残しつつ覚悟を決めるという心理過程を亡父が思惑通り辿ったか否かは、地元にいる僕も、葬儀にも戻って来れなかった弟にも計り知れないところだが、実話に基づくとの本作のような顛末があるのなら、告知も考え物だと思った。だが、僕自身は、自分がかような事態に見舞われたら、必ず告知してほしいと、かつて亡父の言っていたことと同じようなことを思っている。癌告知というのは、そもそもが誰のためにあるものだろうか。治療方法も桁違いに増え、不治の病でもなくなってきている状況にあるなか、2019年時点の作品で、ビリーの親たちという僕よりも年若い世代において、尚も頑なまでの告知回避が残っていることが興味深かった。

 ビリーのナイナイ【父方の祖母のことらしい】を演じていたチャオ・シュウチェンの柔和な笑顔が実に好かった。手元にあるチラシによれば、オークワフィナが女優賞を受賞しているようだが、ビリーからすれば祖母姉妹になる二人を演じた女優のほうが目を惹いたように僕は感じている。
by ヤマ

'23.10.21. オーテピア高知図書館4Fホール
'23.10.23. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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