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『バス停留所』(Bus Stop)['56] | |||||
監督 ジョシュア・ローガン
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何かの切っ掛けで求められてホームページにアップしてある「我が“女優銘撰”」のマリリン・モンローの項に挙げてある唯一の映画である本作は、いつ観たかが手元の記録にも記されていない遠い昔(たぶん高校生の時分だと思う)に観たものだ。そのときNHK教育テレビの放映で観たっきりだったのだが、先ごろ『いそしぎ』['65]で三十路のリズを観て三十路に入ったバーグマンを観たくなって三十九年ぶりに『汚名』['46]を再見したところ、同じ年頃のモンローを観たくなってほぼ半世紀ぶりに再見した。 いくら無骨な田舎者にしても程のある二十一歳のロデオ青年ボーことボールガール・デッカー(ドン・マレー)のキャラクターは、記憶にあるもの以上に鬱陶しかったが、チェリーボーイの彼に「そろそろ知る時期だ」と唆し「女は泳ぎとよく似とる」と宣う後見人のようなバージ(アーサー・オコンネル)や、元レスリング選手である長距離バスの運転手、中継所である食堂の女主人グレース(ベティ・フィールド)ら脇に登場する人々が魅力的に造形されていて、なかなか面白かった。 だが、何と言っても、十二歳の時から男遍歴を重ねてきたという酒場の唄歌いシェリーを演じて“色香と純真の類稀なる混交”を見事に体現していたマリリン・モンローのハイブリッド感が素晴らしいと改めて思った。自分の言い出したことながらボーがあまりにのぼせ上がったことに反省し、紅茶をウィスキーだと騙って田舎者をカモにしてきた酒場女を天使だと言い出すボーの頭を冷やそうとしていたバージが、さしたる大きなエピソードもないままに彼女の人柄を認めるようになるに足る人物像に、十分な説得力を与えていたような気がする。小娘の純情なんぞ比較にならない何倍もの値打ちがあるとしたものだ。ましてや酒場の唄歌い。ほぼ半世紀ぶりの再見価値は、とても高かった。 大雪で足止めされたグレースの店で「数多の男を知っているチェリー(シェリー)と一人の女しか知らない俺らとは足し合わせれば、ちょうどいいのかもしれないとバージが言っていたよ」とボーが言うのを聞いたときに醸し出していた喜びの風情や、ボーが着せてくれた毛皮のジャンパーコートに首を竦めて包まれたときのようやく温かさを手に入れた嬉しさを笑みにした表情にすっかりやられてしまった。そこには、彼女の辿って来た人生において得難かった温もりであることを想起させるものが宿っていた気がするとともに、ノーマ・ジーンの人生をも偲ばせるものがあったような気がする。十代の時分に観たときにそこまで感知していたとは思えないが、それでも本作を飛び切りの一作として記憶していたとは、我ながらちょっと感心した。 酒場で酔客たちに「きちんと歌を聴け!」と迫るような形で自分を尊重してくれる男や「真面目なキスってのはおっかねぇな」と漏らすような真摯さの籠ったキスをしてくる男は、男遍歴を重ねてきたシェリーにおいても、“初めての男”だったということなのだろう。ボーが着せてくれたジャンパーコートの代わりに、緑のスカーフを渡してボーの首に巻くラストがなかなか好かった。 | |||||
by ヤマ '22. 2.17. DVD観賞 | |||||
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