『好色元禄㊙物語』['75]
『五泊六日』['66]
監督 関本郁夫
監督 渡邊祐介

 年明け第一回目の映画青春プレイバックの集まりのときに高校時分の映画部の部長から、この二作を「どう観る?」と宿題として託された。

 先に観たのは『好色元禄㊙物語』。そうか、好色物語をものした井原西鶴は、こうしてお夏(ひし美ゆり子)の体のなかで最後に一皮剥けて、鶏から鶴になって羽ばたき、小坊主から作家になったのかと、そのオチににんまり。さすれば、小坊主の名は、西鶏だったのかと得心した。

 本作公開の'75年当時、僕は高三の受験生で、最も深夜ラジオに馴染んだ時期だったから、絵師として出演していた笑福亭鶴光の姿を観るも懐かしかった。顔にはもう覚えがないものの“潮吹き”で鳴らしていた窪園千枝子の名前も記憶にあって、一斗樽の用意を要するとの潮吹きにちなんだと思しき“鯨締め”だの、オールナイトニッポンで鶴光が好んで口にしていたように思う“ミミズ千匹”だのに笑ってしまった。これらも含めて、本作の主題というのはまさしく「女体の神秘」なのだろう。

 生臭坊主の清海(汐路章)を女犯の煩悩に溺れさせ、呉服の大店の主人父子を諸共に篭絡するお夏の力の源泉にしても、お夏の妹お七(橘麻紀)が夫の久松(川谷拓三)の仕打ちに逆上し、我知らず刺殺してしまった罪悪感に、千人の男と交わる千人供養の満願成就において起こした奇跡にしても、刺殺の次は腹上死に彼が果てた顛末にしても、女体の持つ神秘的なまでの力というものをいかにも戯作風に謳いあげているような気がした。

 ラストカットにて一片の翳りもない爽やかな笑みで歩き進むお夏の姿が印象深く、今の時代なれば、かような歩みでもって人生を渡る女性をヒロインとして描くことは、なかなか難しくなっているのではないかと思うけれども、実に颯爽としていた。

 それにしても、刺殺してしまった夫のための千人斬りは「千人供養」と記されていたのに、腹上死にて再び逝ってしまった夫の二度目の供養は「壱萬人斬り」と掲げられていて、供養から斬りに転じていたのは何故かと、妙に可笑しかった。黒文字から朱書きにも変じていたから、それなりの想いはあるのかもしれない。

 いきなり竹林でお夏と世之介(中林章)が戯れる青姦に始まる惜しげなさは、'70年代B級プログラムでも出色なのではなかろうか。しかも今となれば、伝説化している感のあるアンヌ隊員【ウルトラセブン】だし、このような珍品物語があったのかと感心した。ヒロイン像の是非はともかく、主題性が明確で、何と言っても70分を切る無駄のなさが凄いと改めて思った。


 後から観た『五泊六日』では、一見『好色元禄㊙物語』のお夏ばりのしたたかさで玉の輿に乗ったように見えた久美(緑魔子)が、お夏とは正反対の生き方を選ぶことで、お夏同様に実に颯爽としている姿を見せて終える作品だった。その、いささか取って付けたようなラストを観ながら、原作とは異なる脚色が施されているのではないかと思いつつ、まだまだ大きな社会格差が残っているのが当然といった時代であっても、本作には、現代の格差社会の描出にはない明るさがあって、尚且つ、バブル期のような空疎な派手さを感じなかったことが面白かった。どうしてそうなったのかは、おそらく、本作の時代背景が新幹線の走る高度成長期であったこと以上に、社会格差の先行きが固定化ではなく流動化のほうに向いている“ベクトルの向きの違い”にあるように感じた。

 いささか妙なタイトルだと思ったら、新婚旅行ツァーのことだったわけだが、「もはや戦後ではない」からちょうど十年、庶民でも社長御曹司と同じ日数の新婚旅行に出ることが可能になった“時代の豊かさの象徴”だったのかもしれない。そのなかで、結婚にまつわる愛と打算という主題が妙に古めかしく映ってきたのは、その主題そのものの描き方以上に、処女性を気にする時代風俗のほうからもたらされたものだったような気がする。今どき焦点の当てられるヴァージニティといったら専らセカンド・ヴァージンであって、久美や知英子(磯野洋子)が気にする“一番大事なもの”などではなくなっているように感じる。

 当時22歳の緑魔子が実に溌溂としていて、若い時の浅丘ルリ子を観るようだった。また、貧乏で音楽学校にも行けなかったはずの久美が最後に弾いていたピアノのロゴマークの「SONARE」というのに馴染みがなくて目を惹いたが、どこのメーカーだったのだろう。

by ヤマ

'21. 1.17. 東 映 チ ャ ン ネ ル 録 画
'21. 1.17. 日本映画専門チャンネル録画



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