『パブリック 図書館の奇跡』(The Public)['18]
監督・脚本 エミリオ・エステベス

 タイトルとなっている“公共性”というのは、政治家を志す検察官や特ダネを得て名を売りたい報道メディアの記者たちの“私欲”にまみれた思惑を化粧する方便としての錦の御旗などでは決してない。得てしてそういう連中がこぞって使いたがる“公共性”の名の元に本来、守られなければならないこととは何なのか。そのようなことを訴えた、なかなか志の窺える作品なのだが、あまりこなれてなくて少々勿体ない出来栄えのように感じた。

 冒頭のエピソードがデイヴィス検察官(クリスチャン・スレーター)の欺瞞性を鮮やかに突く形になっていたが、それ以上に『怒りの葡萄』が、利いていたように思う。誰もが知っている知的常識すら備えていない女性記者レベッカ(ガブリエル・ユニオン)の上から目線と浅ましさが透けて見えていた気がする。反知性主義の時代にあればこそ、本作の描こうとしていたものは、より大事なことだと思う。

 依存症ゆえにホームレスの路上生活や服役歴すらあったらしいスチュアート(エミリオ・エステベス)が立ち直ったのは、彼らにも分け隔てなく開かれた公共図書館の存在だったということが、監督・脚本を担ったエステベスがインスピレーションを得たという“ある公共図書館の元副理事がロサンゼルス・タイムズに寄稿したエッセイ”に記されていたことのような気がするが、とても大切で素晴らしいことだ。

 長らくアルコール依存症者支援に取り組んできた旧知の先輩が、アルコール依存の方も沢山でてくる映画のようだと関心を寄せてくれて、おそらくは、その“公共性”の観点から、本作に接して公共施設の職員に強く職業意識を持ってもらいたいとコメントしてくれた。その点では、本作以上にフレデリック・ワイズマン監督によるニューヨーク公共図書館 エクス・リブリスを観てもらいたいと返したのだが、観やすいのは本作のほうなのかもしれない。

 ただ、この映画を観ると、七十人ものホームレスが全裸になってしまうことへの違和感を抱く向きもあろうかと思う。だが、その点に関しては、映画的虚構として僕は了解している。立て籠もりに対して力で突入して制圧しようとする警官隊の出鼻を挫く“戦意のなさを一目瞭然にするもの”としては、確かに最も効果的だ。全員で協力し合えるのならそれに優る作戦はないだろう。

 だが、アレック・ボールドウィンの演じた警察のベテラン交渉人が全く活かされておらず、彼の息子との関係の盛り込み方が中途半端で、夾雑物にしかなっていなかった点や、かの地の冬の路上の極寒を伝えるに言葉だけでは大いに不足で、デイヴィス検察官が上着を脱いで束の間横たわって見せるエピソードで済ませても、今ひとつ響いて来なかった気がする。




推薦テクスト:「銀の人魚の海」より
https://blog.goo.ne.jp/mermaid117/d/20210706
by ヤマ

'21.12.22. 美術館ホール



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