『マレフィセント2』(Maleficent:Mistress Of Evil)
監督 ヨアヒム・ローニング

 前作を観ないままの「2」の観賞となったが、思いのほか面白かった。「惡は、得てして悪とされる者よりも、それを悪に仕立て上げようとしている者にある」というのは、現実世界でもよく観られる事柄だが、特にそれが国やら人種、民族なるものを持ち出してきたときは、間違いなくそう言えるということを、いかにもディズニーらしい見事な造形力の元に、実に率直に描いた志高いエンターテイメントだったように思う。

 ホロコーストのガス室を思わせる描出をディズニー映画で観るとは思いもかけなかったが、フィリップ王子(ハリス・ディキンソン)の「これは戦いなんかじゃない、虐殺だ」との台詞は、よく噛み締める必要があるように思う。アメリカやイスラエル、ロシア、トルコなどが今まさにやっていることを指しているのは間違いないと感じた。イングリス王妃を演じたミシェル・ファイファーの悪役ぶりが天晴れだったが、王妃にも謂われあっての敵意であり、憎悪であることが哀しい。彼女に覇権志向は勿論あったが、少なくとも金儲けや利権目的だけではなかった。

 これなら前作も観ておきたかったとデータを当たってみたら、監督は変わっているが、同じ脚本家(リンダ・ウールヴァートン)だった。本作では、原案にも名をクレジットしているから、彼女の意向の強い作品なのだろう。

 今や力の象徴は、人間の側でも闇の妖精の側でも女性キャラクターだったのは、女性脚本家ゆえなのか、時代を映しているのか、興味深いところだ。マレフィセント(アンジェリーナ・ジョリー)にしても、イングリス王妃にしても、実にパワフルで、確信的で迷いがなく、凛々しくて恐ろしかった。

 だが、平和を願うだけで何の力も発揮できないどころか、却って状況を悪化させる関与を不用意にしてしまっていたオーロラ姫(エル・ファニング)や、覇気なく戦闘嫌いのフィリップ王子、アルステッド国王がいてこそ、戦闘が収まる方向に進み得ていたことも間違いないという形になっていたことに感心した。力なき力の果たし得る役割を軽んじてはいけないのだと改めて思った。力ある力の行使は、破壊と荒廃をもたらすだけで何も守れないような気がする。いずれの力による抑止であれ、回避できなくなって戦いが始まったとしても、力ある力は行使しない決断こそが、破壊と荒廃を最小限にする真の英断だという気がする。力ある力は、行使のためのものではなく、抑止のためのものだというのなら、尚更に。
by ヤマ

'19.10.22. TOHOシネマズ1



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