『無伴奏』
監督 矢崎仁司

 60年代を象徴する歌とも言える♪勝利を我等に♪とともに始まった本作は、詩を愛好する傍ら女子高の制服廃止闘争委員会を率いる野間響子の1969年4月から1971年3月までを描いた作品だ。17歳から18歳に掛けての響子を演じていた成海璃子が、共演の遠藤新菜よりも露出度は低いものの、頻度も熱っぽさも遥かに上回る濡れ場を演じているのを観ながら、彼女ももう幾つになったのだろうと思ったりした。帰宅して調べてみたら、本作の頃は23歳あたりだったようだ。少し大人びた女子高生を演じてほとんど違和感がないことに感心した。

 僕が高校の新聞部に在籍して制帽検査廃止キャンペーンを仕掛けて生徒部長の先生から説教された高一のあと、生徒会活動に精出していた高二の時分は1974年だったから、ちょうど5年後ということになる。1969年当時は小学生だったから、地方都市での学生運動についての生の記憶がないが、本作に描かれていた仙台と比べて高知はどうだったのだろう。

 20代になってから知り合った7歳年上の学生運動の元活動家によれば、60年安保闘争はあっても、70年安保闘争などというものは実質的になかったに等しいとのことだった。社会運動たり得なかったことへの自嘲だろうと感じた覚えがある。そして、1970年を挟んでの前後の違いは5年といえども年数以上に大きいと思いつつ、自分を遅れて来た存在のように感じたりした日々のことも思い出したりした。

 三島由紀夫の割腹自殺を一面で報じる新聞がさりげなく映しだされたり、東京の予備校に向かうらしい響子が仙台を離れる前に音楽喫茶「無伴奏」に立ち寄った最後の場面で、店の黒板に記されていた曲が「目覚めよと呼ぶ声あり」との題のつく♪J.S.バッハ:カンタータ 第140番♪であったりするところのほか、様々な部分で小技が利かされていたように思うが、彼女の愛した大学生の堂本渉(池松壮亮)の愛聴した♪パッヘルベルのカノン♪が流れると、ついついギャスパー・ノエ監督の近親姦を描いた映画カノンを思い出したりする。

 だが、カノンについては、ノエの映画とは無関係のまま原作にあったのではないかという気がした。きっと響子と渉の間で交わされる「生涯貫くことのできるもの」にまつわる“永続”や、学生運動のアジ演説に追従する「異議な~し」の“輪唱”のような時代的気分といったものが意図されているように思った。

 小池真理子原作の映画化作品で僕が観ているのは、十年前に観た欲望だけだが、阿佐緒を偲ばせるところのある高宮エマ(遠藤新菜)や、倒錯性の色濃く差す性関係、愛する者を置いて死を選ぶ者に取り残されることでもたらされる始まりなど共通するところの多さが印象深かった。そういう意味では、差し挟まれた三島の死を伝える紙面の示すものは単なる時事ではない。

 僕の愛好する矢崎仁司監督作品としては、上出来のほうに属するものとは思えなかったものの、スイートリトルライズの映画日誌に綴った『不倫純愛』のような無残さは繰り返されることがなくて安堵した。
by ヤマ

'16. 8.23. 美術館ホール



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