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『ズートピア』(Zootopia) | |||||
監督 バイロン・ハワード&リッチ・ムーア
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おそらくは『動物農場』['54]のような風刺の利いている作品なのだろうと思っていたら、“よき世界への願い”という、ある意味もっと切実な思いが伝わってきて感銘を受けた。不安と恐怖を煽った分断による支配という点では六十年前よりも、現状認識として作り手に悲観が強くあってこその“願い”の表出だという気がする。『海と大陸』の映画日誌にも記したように「かつては望ましきものだったはずの理想主義という言葉が、今やすっかり侮蔑的に使われるようになっている」世の中への悲観が僕自身のなかにあるから“願い”として感受したのかもしれない。作り手としては、トランプ共和党候補予定者のような者に本作を観せたいのだろうが、たとえ彼が観たとしても一笑に付すのだろう。 だが、そういった偏見や思い込みの克服こそが必要で大切なのだと本作は訴えている。どうせ、ではなく、そのように埋めがたきと思われる溝を埋めようとする意思こそが、掛け替えのない偉業を生み出すのだというわけだ。したり顔で現実論を振りかざすことから“よりよき世界”は生まれない。 しかし、志篤き兎のジュディ・ホッブス元巡査(声:上戸彩)にしても、「夜の遠吠え」と呼ばれる花の球根を食べたことで凶暴化したという叔父のエピソードを両親から教わることでの原因への気づきを得られなければ、乗り越えられなかったのではないのか?とも思ったが、考えてみれば、己が過ちへの気づきは既に得られていたからこそのバッヂ外しであり、対応策というか打開策を見い出せなかったから帰郷したに過ぎないと言える。そういう意味では、意思のほうは方法の気づきを得る前からあったわけだ。 ともあれ、記者会見の場で思わず口を突いて出てしまうジュディの偏見の場面を本作の要としている啓発映画張りの筋立てに感心し、さらには、それにもかかわらず説教臭さを微塵も感じさせない運びの巧みさに、より一層感心した。偏見が思わず口を突いて出てしまう遥か前の場面で、自室に残した狐撃退薬をドアを開き直して取りに戻る手が映し出されていたのが効いていたように思う。 だからこそ、そんなジュディの果たしたいちばんの偉業を僕は、ズートピアを不安と恐怖に陥れた黒幕の存在を明るみに出したことではなく、やむなくも“したり顔の現実論”の側に転落して強かに生きるしかないと居直っていた狐のニック・ワイルド(声:森川智之)に新たな生き方を切り開いたことだと思っている。 だが、最も感心したのは、影の黒幕が露わになっても、ライオンハート市長(声:玄田哲章)が復職したりしていないことだった。市長のしたことは黒幕の存在によって免罪される性質のものではないはずなのに、ありがちな作品では得てして復職させているような気がしてならない。脚本は誰だろうと注目していたら、ストーリー・アーティスツとかのクレジットで何人もの名前が出てきた以外に表示がなくて、公式サイトを覗いても脚本表記がなく驚いた。共同脚本でもないのだろう。いろいろな人の意見と討議によってできたストーリーなのかもしれない。 羊のベルウェザー副市長の声は薬師丸ひろ子に違いないと思っていたら、竹内順子とクレジットされて、驚いた。また、幼き時分に篤志を抱きながらも心無い偏見に痛めつけられ深く傷ついた過去を持つニックのキャラクターがなかなか素敵で、吹替えた森川智之がいい味を出していたように思う。だが同時に、画面の仕様といい、吹替え版ではないものを観てみたいという思いを強く残す作品でもあったような気がする。しかし、例によって地方都市では吹替え版しか上映していない。 それにしても、生まれや血のせいではないものをそのせいにするという古くからの典型的な偏見の煽り方を観ていると、先ごろ読んだばかりの『ネットと愛国~在特会の「闇」を追いかけて』を想起しないではいられなかった。人間社会のいちばんの弱点なのだろう。そこからの脱却というのは本当に難しいのだと思う。ジュディとニックのような関係が個人的には決してレアとも言えないのが人間の現実社会なのに、“ズートピア”のレベルにさえ至っていないのみならず、むしろ世界は退行していっているように感じる。 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20160506 | |||||
by ヤマ '16. 5. 5. TOHOシネマズ6 | |||||
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