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『ハーモニー』 『リトルプリンス 星の王子さまと私(The Little Prince)』 | |||||
監督 なかむらたけし&マイケル・アリアス 監督 マーク・オズボーン | |||||
邦洋のアニメーション映画を続けて観てみて、今や映画は、実写よりもアニメーション映画のほうが面白くなっているのかもしれないという気がした。もっとも最近のTOHOシネマズ高知では、外国映画の上映が極端に少なく偏っているし、オフシアターでの外国映画上映も沈滞してきているから、一概には言えないのかもしれない。 午前中に観た邦画『ハーモニー』は、設定にも展開にも釈然としないものが残りつつも、映画の冒頭に出てくる「ほどほどを知らない」との台詞が印象に残る意欲作だと思った。効率の極大化を追求する強欲主義のもたらす悲劇において弱者が負う“戦闘による死が身近な社会”と“息苦しい精神的な死を迫られる社会”の両者ともが同根にあることを窺わせつつ、人にとって非常に重要な倫理問題を提起している作品だという気がした。 調和というものは、誰のために如何なる形で担保されるべきものなのか、最大は地球環境をも含めた世界全体、次に生物、そして人類、以下順次縮小されていって、身内お友達どまりに矮小化され、遂には「今だけ自分だけ」のためにしか考えられない人々もいる現実がある。部分最適ではない全体最適をどのレベルで果たすことが調和なのかのコンセンサスを得るのは、至難の業だ。だが、難しいからといって投げ出したり棚上げしてはいけない重要な問題だと思う。 そういったことに触れてくる作品である性質上、ただでさえ言葉が多くなりがちなことに加え、謎解き物語の側面を持っているがために、少々説明言葉が過剰に感じられた。また、権力の規定する健全健康が至上価値とされる社会となった近未来におけるWHO(世界保健機関)の螺旋監察官である霧慧トァン(声:沢城みゆき)が、13年前に自殺したと思っていた親友の御冷ミァハ(声:上田麗奈)に対抗した最終的な立ち位置の立脚点がどこから来るものなのか、妙になし崩しに見えたのが難だった。調和について前述したレベルのどこを立ち位置にしているのかで言えば、トァンは極小とも言うべき個人的実感を拠り所にしていたわけで、そのうえで、どのレベルを立ち位置としてミァハの射殺を選択し、何を果たそうとしたのかが不明確な描き方に終わっていたように思う。 午後に観た『リトルプリンス 星の王子さまと私』は、高知では3D版も字幕版も上映されず、吹替版2Dで観るしかなかったが、ストレートな3D映画よりも遥かに立体感を感じさせ、ストップモーション・アニメとCGアニメを組み合わせるなかで、実に想像力豊かな画面を現出させていて魅了されたし、「星の王子さま」の換骨奪胎の見事さにも感心させられた。 そして、ここでもまた“強欲なる所有”へと向かう権力社会に順応する大人、の問題が提起されていて、邦画『ハーモニー』にも通じる部分を感じた。ビジネスマン(声:土師孝也)のもとで働き、薔薇への想いも忘れていた“大人になった星の王子(声:宮野真守)”の姿に、『ハーモニー』で示されていた“息苦しい精神的な死を迫られる社会”を感じ、かつて砂漠で星の王子(声:池田優斗)に出会ったという隣家の老飛行士(声:津川雅彦)が大事にしている価値観・人生観とは対極的なものを体現している母親(声:瀬戸朝香)の求めるものとの間で、美しき人生に本当に必要なものを感じ取っていく女の子(声:鈴木梨央)の姿が心地よかった。 日本でも外国でも現代社会が抱えている根本病理は同じと言うことだろうが、邦画作品の観念性が目立っていることに対し、洋画作品のファンタジー色が際立っているように感じられた。女の子が老飛行士と母親とを必ずしも対立的な存在として捉えているようにはないところがいい。 | |||||
by ヤマ '15.11.23. TOHOシネマズ4& TOHOシネマズ8 | |||||
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