『無垢なモノ my simple things』
監督 筒井勝彦

 ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2006正式出品作品になったということで、四年前に人伝に筒井監督から貰ったDVDながら、家で映画を観る習慣を持たないために長らく放置したままだったが、近々再会する機会を得たので観ることにした。

 自閉症とされる機能障碍を負っているマサシ(小野田 良)から「赤ん坊のようだから“あ〜ちゃん”」と呼ばれるヒロシを演じた未童との共同脚本・プロデュースによる舞台劇の映画化作品で、主要キャストも舞台どおりの映画だったようだが、印象に残っているシーンが、庭先での花火に興じながら振り落ちてくる火の粉に誘われるようにして、踊るともなく寄り添い合うヒロシとマサシ兄妹の三人姿であったり、マサシの妹である弁護士志望の童子(佐藤佳子)が窮屈な湯船に浸かりながら我知らず眠りに落ちるまで法律書を読み耽っている場面、マサシがヒロシを慕う楓(観世音 榾)とイシガメの放流に電車で訪れた先で降り立った地の天空一杯に広がる緑の雲と薄の穂だったりした僕からすれば、舞台劇を映像化した作品だという感じは、全くなかった。ヤクザ同士の抗争のなかでヒロシが被った痛手の場面も、舞台でそのまま現出することはとても無理だと思われるもので、見所になっていた場面は、尽く舞台では表現しにくいものだったような気がする。舞台劇は『無垢なもの』と題し、映画化作品のほうは『無垢なモノ』としている作り手としては、それくらい映画化に拘り、舞台劇の映像化を拒んでいたということなのだろう。

 だがそれゆえに、舞台ならライブの力で押し切れる可能性もある描出省略が、劇映画的には説得力を欠く展開になり、ヒロシとマサシ兄妹の間に生まれた絆の深さを運命的出会いとして了知することが少々苦しいようにも感じられた。ヒロシとマサシの“無垢なる魂の呼応”というのはまだしも、それによってヒロシが選んだ“逃れるわけにはいかない抗争への臨み方”を了解することや、花火の夜の不意を突いたキスと兄マサシのヒロシへの信頼によって“童子のヒロシへの想いの深さ”を了承するのは、花火の夜に“踊るともなく寄り添い合う三人の姿”によって“魂の寄り添い”を受け止めた僕においてもなお苦しかったのだが、これがライブだと意外と不問にできたりするところが舞台の力であり、舞台劇の映画化の最も難しいところだという気がする。

 童子の勤める弁護士事務所の貧相や冒頭の抗争場面のぎごちなさにしても、舞台ならば記号的に了解できて芝居として大して気にならないことが、映画になるとリアリズムの側から責め立てられがちになる部分というものを感じさせてくれて、なかなか興味深かった。それは、低予算映画の苦しいところであると同時に、ならではの妙味とも言えるような気がする。

 他方で、あまり笑えもしなかった組長(黒田オサム)のパフォーマンスの場面は、ほかのエピソードにはできなかったのだろうかとも思ったが、舞台劇を製作し映画化作品も原作・共同製作・共同脚本・主演を担った未童が主導的位置を占めていたと思われる、いささか図式的とも言える物語を、監督自ら撮影を担い、映像によって膨らませようとする意思と意欲が窺えたところには、好感を覚えた。

by ヤマ

'11. 1. 5. DVD鑑賞



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