『休暇』をめぐって | |
(北京波さん) 「映画通信」:(ケイケイさん) ヤマ(管理人) |
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No.8045より 2009/03/21 00:49
(北京波さん) ボクの済む街には日本一大きいと言われている刑務所があり、刑務官の人も、刑期を終えて社会復帰するために更正宿舎に入っている出たてホヤホヤの人も、よく受診されるんですが、守秘義務があるためか仕事の内容は全く伝わってきません。 ヤマ(管理人) ようこそ、北京波さん。そうなんですか。 個人情報的なところは勿論、守秘義務があるでしょうが、職務それ自体には、そこまでのものが課せられているわけではない気がしますけれど、あまり吹聴するようなことではありませんからねぇ。 (北京波さん) ただ、恐らく、職務内容はほとんど変わっていかない世界なんだろうと思いますね。 ヤマ(管理人) 原作の時代設定が、たとえ結婚休暇が制度化されていない昔であったとしても、彼らの職務内容自体に大きな違いはないはずということですね。それは僕も同感です。 (北京波さん) ウチの刑務所は死刑はない場所だと思うのですが、それでも個人的な感情を挟めば、辛い職場でしょうね。 ヤマ(管理人) 日本一大きいと言われてる刑務所でも、ですか? 死刑囚って死刑囚ばかりを集めて収監してるんでしょうかね? ま、そういうことも含めて全然知られてませんね。でも、数少ない刑務所に集められていたら、面会とかは不便極まりないですね。 (北京波さん) 死刑論争ありきの作品ではなく、同じ時間を生きた人間同士の沸き起こる逡巡から、たった一つしかない生命を巡る展開になっていて、作り手の過剰な問題提起という胡散臭さを吹き飛ばしたのがなんとも嬉しい映画でしたね。 ヤマ(管理人) 同感です。いわゆる社会派ってな作りをしていないところが僕も大いに気に入ってます。社会問題として捉えるのではなく、人の心と人間関係を捉えてましたね。 僕は、達哉に対して北京波さんが日記に書いておいでのような発達障害を感じることはなく、そういう障害を負っている子供と見るより、母親の進めている再婚問題への対処に対する当惑が彼に自閉的なコミュニケーション不全をもたらしているというか、それがある種の自己防衛に係る彼の精一杯の態度なんだろうと映っていました。刑務官平井の自職にかかる意識の囚われの持ちようについても「刑務官としての仕事には屈託なく人生を送るという単純な幸福は甘受できない」というような形のものが平井にあるとは考えもしていなかったので、とても興味深く読みました。 北京波さん御自身がそうであるように、難儀な仕事にお就きの方には、なかなか厳しい職責意識があるんですね。ある種、因果なお仕事ですね(憫)。 -------刑務官という仕事------- (ケイケイさん) ヤマさん、北京波さん、こんばんは。 >だが、僕が特に感銘を受けた視線は、刑務官平井透(小林薫)と再婚した美香(大塚寧々)の連れ子達哉に向けられていた眼差しだった。 平井は、本来は感受性の豊かな人だと思います。なので、人の死と隣り合わせのこの仕事に携わっている限り、人並みの幸せを望んじゃいけない、そう思いこんでいたんじゃないかと。 ヤマ(管理人) ようこそ、ケイケイさん。ケイケイさんの映画日記にも「支え役を志願する平井に、結婚式前に何を考えているのかと喰ってかかる三島。普段寡黙な刑務官の中では、かなり明るい彼ですら、死刑執行前には緊張から、禁煙を破って煙草を吸ってしまいます。人の命を奪う仕事に就いているのだから、幸せを求めてはいけないと、心の底でここの刑務官たち皆が、心に澱を抱えているのがわかるのです。」と書いておいでましたね。 仕事がそういうものであるうえに、人一倍感受性が豊かだとそうなるんでしょうかね〜。なれば、そういう職を作っちゃいけないんじゃないでしょうか。 (ケイケイさん) それはこの作品を観て、強く感じました。私は終身刑が日本にはない以上、消極的に死刑は賛成なんですが、この作品を観て、その考えがぐらつきました。 ヤマ(管理人) そうでしたか。その伝で言えば、終身刑のことも含め、死刑制度のみならず『刑務所の中』の拙日誌に綴ったように、僕は刑罰そのものの在り方に疑問を感じていますね。 医療現場だと、結果的に人の命の終わりに立ち会うことになるにしても、職それ自体は“人の命を奪う仕事”ではありませんよね。“直接的に人の命を奪う”こと自体を仕事の一部にしているのは、刑務官と兵隊さんだけです、殺し屋ってのは、非合法ですからね。しかも後者は、有事・非常時に限られていますが、前者にはその区別がありません。それって随分なことなんだよなぁと改めて思わずにいられませんでした。 (ケイケイさん) 結婚式でも親戚の人に「かっこいい警察官」のように平井が言われる描写、あれは皮肉ですよね。 ヤマ(管理人) ええ、同感です。さりげなく効いてましたよね。 (ケイケイさん) 颯爽とした警察官を夢見て、この仕事に配属されたとしたら、不本意ですよね? でも刑務官たちには、そういう感情は見えなかったです。受け入れているように感じました。 ヤマ(管理人) 刑務官は法務省で、警察官は警察庁もしくは県警という別組織だから、相互の配属換えはないと思いますよ。 (ケイケイさん) 数年に一度の死刑執行が、緊張感と優しさを生んでいるように、映画は描いていた気がします。 ヤマ(管理人) 慣れようのない現実が窺えましたねー。 (ケイケイさん) 実際は死刑囚の警護というより、身守りのような仕事なんですから。それが発展して、前日は死刑執行にまで立ちあうんですから。 ヤマ(管理人) 全く酷というか気の毒な仕事ですよね。ある種の鈍感さを自らに課していく過程を求められている気にさせられるような職務ですよね。その延長線上において虐待も起こっているような気がします。 (ケイケイさん) これは一般の囚人を収容している刑務所では、告発されていますよね。 ヤマ(管理人) なかなか表には出てこない領域のような気がするので、露になったものは、よほどの事態なんでしょうねぇ。僕は、彼らの職務が促す“人という意識をむしろ持たない方向へ敢えて向かうこと”の延長において、虐待とか差別といった人間扱いをしない態度が生まれるのだと思ってます。 (ケイケイさん) なるほど。でも平井たちは、死刑囚に人間味あふれて対応していましたよね。それが観客の共感を呼んだと思います。 ヤマ(管理人) 皆が皆、虐げているわけでもないでしょうから、ああいう人がいて当たり前なんだろうと思いますが、僕のイメージとしては、そういうなかでも、感情を抑えた機械的な対応に向かうしかない人が比較的多いのじゃないかという気がします。 (ケイケイさん) 実際にはなかなか難しいことでしょうね。これも映画的な演出が功を奏したのでしょうね。 ヤマ(管理人) それはそうだと思います。人間味を表に出しにくい業務ですよ。徒にやっても独りよがりの自己満足に終わるだけでしょうし。 死刑制度の堅持を主張する人や厳罰化を求める人たちに対して僕がいつも思うのは、そのことに直接手を染めさせられる人への想像の回避で、凶悪犯罪の被害者家族ならまだしも、そうでもない人がしたり顔で語る姿や言葉が、僕は嫌いで仕方がないのですが、この作品は、そういったことを声高に社会派ドラマとして描くのではない形で、静かに訴えてきている気がしていました。 (ケイケイさん) 私もその辺は感服しました。実際、声高ではありませんが、賛成の私が悩んだんですから(笑)。 ヤマ(管理人) それって、凄いことですよねー。御覧になってよかったですね。そのうえで第1位に選出しているところは、流石です。 -------達哉少年のパーソナリティ------- (ケイケイさん) 美香は未亡人ではなく、不幸な結婚生活だったと語られていましたよね? 達哉の人を寄せ付けない様子は、その傷跡かと感じました。 ヤマ(管理人) なるほど。母親の再婚問題でナーバスになったのではなく、元々の家庭事情に恵まれなかったことで傷を負っていたと御覧になりましたか。僕の目には、そんなふうには映ってこなかったのですが、そういう観方もあるんですね。 さすれば、透は、美香母子にとっては正に“すくいびと”として現れたわけで、モックンの演じた大悟とは違った意味での“おくりびと”を生業の一つとしていた透にとっては、“おくりびと”ではない“すくいびと”の役割を新たに負えるようになることで、彼自身にもまた救いが得られるという物語になっていたということになりますね。 (ケイケイさん) ええ、幸薄い母子を幸せにすることで、自分も救われたかったんだと受け取りました。 ヤマ(管理人) そういう側面も確かにあるな〜との気付きをいただきました(礼)。ちょっと不遜な気もしますが、男にはありがちな態度かも(笑)。その解釈は、でも、達哉が病んでいたことまでを必要とはしておらず、シングルマザーとしての美香の苦境でも十分成立するように思いますが、達哉が病んでいたと観るほうが、より“すくいびと”としての重みが増しますね。だから、そのように御覧になったのでしょう。なるほどね。 ただ僕は、この作品を“すくいびと”の物語としても観ることには賛同しても、達哉の透に対する硬さを病として観るのは、やっぱり気が進まないなぁ。もし積年の傷がつけた痕跡だとしたら、ケイケイさんも日記の末尾に「ラストの達哉の絵に、救われる思いがします」とお書きのように、透との出会いで快方に向かうには少々短期すぎるような気がしますし、僕の受け止めた透の「ごめんな」の意味とちぐはぐになってきます。 僕は、透の「ごめんな」に対する自分の解釈がわりと気に入ってるので、その意味からも、病によるコミュニケーション障害とは受け止めたくない思いがありますね。 (ケイケイさん) えっと、ヤマさんのお返事を読むと、私が書いた心の傷=病と捉えられているようですが、「病」ではなく、あくまで子ども心に両親の不仲に心を痛め、子供らしい愛らしい笑顔や、健やかさが失われたという意味です。病気という意味ではありません。 ヤマ(管理人) そうでしたか。おっしゃるように心の傷とお書きのところを「=病」として受け取っていました。ちょうど北京波さんが書き込んでくださった直後だったので、彼の日記と重なる形で読んでしまった面があるかもしれません。 (ケイケイさん) 家庭環境により、人見知りが激しかったり、人嫌いのようになるは、よくあることだと思います。 ヤマ(管理人) それはそうですね。 (ケイケイさん) だとすれば、そんなにヤマさんの感想と隔たりがありますかね? ヤマ(管理人) ケイケイさんが病として御覧になっていると誤読してたからの話であって、上にあるように「病気という意味ではありません」ということなら、隔たりはないですね。 (ケイケイさん) 実父が暴力的だったというセリフが記憶にあるんですが、それなら一般的に男性を毛嫌いしたとしても、不思議じゃない気がしますが。 ヤマ(管理人) はい。達哉は特に毛嫌いもしてなかったと思いますが、たとえ毛嫌いしたとしても不思議じゃないですよね。確か、美香さんの姉さんが父親の暴力のことを言ってましたよ。 (ケイケイさん) 一つ気になったのは、ヤマさんは達哉の様子を、自閉的と書かれていましたが、それは自閉症という意味なのでしょうか? ヤマ(管理人) いえ、僕は病とは観ていませんから、自閉症という意味ではありません。だから、敢えて「的」としているわけです。もっとも自閉症というのも病というのとは少し違う気がしますが。 (ケイケイさん) 自閉症は先天的な脳の障害で、後天的な環境でなり得る障害ではありません。もしかして私が書いた意味を、心の傷から自閉症になったと解釈されたのでしょうか? 違っていたら、すみません。 ヤマ(管理人) そうですね。病ではなく障碍なんですよね。こうして確認していただけるのは、談義をする上では、とても大事なことです。ありがとうございます。 僕も自閉症が脳の機能障害であることは知っているので、心の傷から自閉症になるという文脈は想起しません。自閉的なコミュニケーション不全というものが心の傷に起因する形で、精神的な病として達哉に訪れているとケイケイさんが受け止めておいでるようには思っていたのですが、実際はケイケイさんも、そもそもが病という観方をしてないってことですよね。 (ケイケイさん) 映画友達に方に、お子さんが自閉症のお父さんがいるんですよ。まだまだ世間では、親の育て方が悪かった結果の「病気」と受け止められているようで、御苦労されているようです。 あるレビューで、引きこもりの状態を「自閉症的」と書いたライターがいて、その彼が訂正を求めたんですね。でもライターは無視。他人事ながら哀しくてね。それ以降微力ながら、もし誤解された表現があったなら、私も尋ねてみようと思いました。ヤマさんは「自閉的」と書かれていたので、多分違うとは思いましたが、他にロムする方もたくさんいらっしゃいますし、あえて書かせていただきました。説明する機会を与えて下さって、こちらこそ、ありがとうございます。 ヤマ(管理人) 僕も若いときに綴った映画日誌で同じ誤りをしているものがあります。後に自閉症について教えてもらって認識を改めたのでした。二十七歳のときの『ノスタルジア』の拙日誌なんですが、三十八歳のときに出版してもらった拙著に採録する際には「症」の文字を取って「自閉的」に直しました。ところが、さきほどサイトアップしている日誌を見たら、元のままになってますね。今晩、直しておきます。 (ケイケイさん) また、「積年の傷がつけた痕跡だとしたら、…透との出会いで快方に向かうには少々短期すぎる」ということについては、子供の心はスポンジのように色々吸収しますから、あの旅行での平井の真心が、達哉に通じたんだと思いました。 ヤマ(管理人) 「快方に向かう」などという書き方も「心の傷=病」というふうにケイケイさんの思いを僕が受け取っていたからこそ使っているので、もはや前提が違ってきちゃいますが、心の傷ゆえのものか母親の再婚というストレスフルな局面ゆえかはともかく、どういう距離感で臨めばいいか立ち位置を掴みかねていたものが「あの旅行での平井の真心が、達哉に通じた」だと分かれば、その受け止め方は僕も全く同じです。 (ケイケイさん) それと私は、達哉は単に大人と接するのが苦手なだけで、病的だとも、コミュニケーション障害だとも感じませんでした。私も知らない大人には、あんなもんだった記憶があります。 ヤマ(管理人) 病と受け取っておいでないばかりか、コミュニケーション障害だとも受け取っておいでないのであれば、更に僕の受け止めとの隔たりはなくなり、近くなりますねー(にこ)。 -------「ごめんな」の解釈------- (ケイケイさん) 「ごめんな」の解釈については、ヤマさんの感想を知って、こういう視点があるんだなぁと、新鮮に受け止めていますよ(^−^)。私の「ごめんな」の解釈は、「こんな男が気の弱い男が、お前の父親になって、ごめんな」ですけど(笑)。 ヤマ(管理人) こんな男って部分は、主に刑務官という職を指しておいでか、気の弱いという性格的な面を指しておいでか、の違いはあっても北京波さんもケイケイさんも、ある意味同じですね。 (ケイケイさん) 私は両方ですね。刑務官という仕事に胸を張れない感情を、平井は持っていたと思うんです。それは彼の生来の誠実さで、それが弱さとも結びついているかと思いました。 ヤマ(管理人) そういうことなら、なおのこと、そんな職を公的に作っちゃいけないと思いませんか? 大変な職務ではあっても、せめて医師や警察官、政治家などのように、仕事それ自体は本来的に胸の張れるものにしておくべきですよね。 それはともかく、あのときの透の語り掛け方には多分に呟き的な響きがありましたから、達哉に語っている以上に、自分に対しての言葉と、受け止めれば、北京波さんのもケイケイさんのも、頷ける解釈ですよね。 (ケイケイさん) 私は自分に対しての言葉だと思いました。 ヤマ(管理人) 達哉自身は、まだそこまでの理解ができてないと思うのですが、そんなのは関係のない話になりますからね。 (ケイケイさん) わからないからこそ、出た言葉じゃ無いですかね? 美香に対してなら言えないですし。 ヤマ(管理人) 自分に対しての言葉と受け止めれば、当然そうなりますよね。それこそ「これも映画的な演出が功を奏したのでしょうね。」です(笑)。 -------大人の側の思い------- (ケイケイさん) 美香もこの結婚に賭けていたかも知れませんが、平井も心に重荷を持って生きる生活から、抜け出したかったかと思いました。幸薄い母子を幸せにすることで、自分も前向きな人生を歩み、心の澱から解放されたかったような気がします。 ヤマ(管理人) ケイケイさんは映画日記に「やっと結婚したいと平井が思ったのは、心の澱から解放されることはなくても、少しでも澄ますことは出来るのではないか? そう思ったからではないでしょうか? 私は寡黙な彼から、精一杯の美香親子への誠意を感じるのです。幸薄かった親子を幸せにしてやりたい、その思いが、誰もがいやがる支え役の志願となったのでしょう。」とお書きですものね。 美香母子の“すくいびと”になるだけではないわけですよね。彼自身にとっても必要なことだったというのは、僕も同感です。 (ケイケイさん) その平井の気持ちを引き出したのは、私は金田だったような気がしています。 ヤマ(管理人) ここまで受け止めなさったとは羨ましい限りです。実は、作り手の思いはそういうところにあるのだろうと察しながらも、作品に宿っていたとまでは思えずにいます(とほ)。でも、金田を西嶋秀俊に演じさせていたのは、そういうことですよね。 (ケイケイさん) ありがとうございます。私も彼のキャスティングは、狙っていたと思っています。 -------死刑制度の是非〜平井と金田〜------- ヤマ(管理人) 映画日記には「模範囚のような金田の様子から、本当に死刑は必要なのか?と、思わずにはいられません。」とお書きですが、うえにも書いたように僕は、むしろ金田のような死刑囚の刑罰執行を務める刑務官たちの様子のほうから、同様のことを思わずにいられないと感じました。それなのに、ケイケイさんも「この作品は死刑の是非を問う作品ではないと思います」とお書きになるような映画にしているところが見事なわけです。 (ケイケイさん) 同感です。本当に静かな作品ながら、切々と訴える力がありましたから。 ヤマ(管理人) そこのところを支えているのが、拙日誌に綴った「“三年半ぶりの死刑執行”という彼らにとっての非日常を中心に置きながらも、決してぶれることなく“日常を見つめる視線”で捉えられていること」だったように思うわけです。 (ケイケイさん) 一見退屈な毎日ですよね。しかし死刑囚にいつ執行が下るか背中合わせなら、刑務官にはいつ「人殺し」の命令が下るか、背中合わせなわけです。そういう心情を、菅田俊の刑務官で表していたところも、見事だったと思います。 ヤマ(管理人) 刑務官と死刑囚は、ある意味、似たもの同士の立場にあるとも言えるわけですね。 (ケイケイさん) 戦友かもしれませんね。同士とはまた違うしね。 ヤマ(管理人) 地震大国日本における地震みたいなものだな。いつ来るか予知できないけれども、必ず来ることだけは判ってる大地震みたいな(笑)。 (ケイケイさん) 人と接する仕事には、必ず忘れられない人というか、縁の深い人がいると思うんです。 ヤマ(管理人) はい、そのとおりですね。 (ケイケイさん) 金田も本当は毎日怯えて暮らしていたはずだと思いますが、それを表に出さず、日々穏やかに過ごしていましたよね。執行後も刑務官たちに、「金田は立派だった」と言わしめていましたし。 ヤマ(管理人) ええ。彼はどうしてそのようにあり得たとお考えですか。 (ケイケイさん) これこそ、自分の罪を悔い改めていた証のように、私は感じました。 ヤマ(管理人) そう繋がりましたか。で、そこのところに刑務官たちの関与をお感じになりましたか。 (ケイケイさん) 感じていません。 ヤマ(管理人) 僕は、そこまで厚かましく踏み込んでいないところに、この映画の作品としての品位を感じたのですが。 (ケイケイさん) もちろん世話されることに、普通に感謝はしていたでしょうけど。 私は、時々出てきた幽霊みたいな老夫婦が、金田に殺された被害者だろうと思いました。金田が、時には怯え時には共存しているように見えました。 ヤマ(管理人) 同感です。 (ケイケイさん) 幽霊も金田を襲ったりしないしね(笑)。幻視があっても共存しているところに対して、金田の心の整理がついている(=悔い改めているからだ)と解釈しました。 ヤマ(管理人) なるほど。 (ケイケイさん) この辺こそ、キャスティングの妙で感じたことです。 ヤマ(管理人) 直接的には、説明されてませんものね。 (ケイケイさん) 平井は金田を観て、自分は今の境涯から逃げているかもしれないと、感じたんじゃないでしょうか? 平井に現在の自分を受け入れることを教えたのは、金田のような気がしています。 ヤマ(管理人) これは、さすがケイケイさんならではの豊かな感受力だと思いました。日記にもそこまで踏み込んでは書いておいでませんでしたよね。 (ケイケイさん) ヤマさんの日記を拝読して、思い付きましたから(笑)。 ヤマ(管理人) それはそれは! 嬉しいお知らせをありがとうございます。自分の綴ったものが何らかの触発を果たしたことを教えていただけるとホント嬉しいですよねー(礼)。 (ケイケイさん) なので、あの役を引き受けたのは、「金田だったから」というのが、私は重要だと思っています。 ヤマ(管理人) そこまでの関係というか、平井にとっての意味が生まれていたということですね。そう観るほうが、休暇のためと受け取るだけよりも味わい深くなるでしょうね〜。『おくりびと』も追いやってのベストワン選出も頷けようというものです。そんなケイケイさんの目には、日記に「一度だけ感情を爆発させる様子」と記しておいでの部分の金田に何が映ってきましたか? よろしかったら、お聞かせください。 (ケイケイさん) ずばり「死にたくない」です。 ヤマ(管理人) なるほど。簡にして明だ。でも、最も率直かつ素直な観方ですよね。あまりに単調で平穏な日々の繰り返しに、ややもすると自身に下っている判決が死刑であることを遠くに感じることさえありそうな状況にあって、やおら突然に察知させられると、ああなるんでしょうね。 僕は、あそこに二度目の確定判決としての宣告になることの意味を問うところがあるように感じました。刑務官から「立派」と評される金田にしてなお、という形で、死を突きつけられることの重さを訴えていたのでしょうね。 (ケイケイさん) そういう意味の演出なんでしょうね。あれで淡々と受け入れたら、こんなに心が揺さぶられないでしょうから。私は金田も充分に動揺していたと感じていたので、「金田は立派だった」という、刑務官の言葉は、ぐさっときましたね。 ヤマ(管理人) 拙日誌では、金田については全く触れてませんが、先日、大倉さんのmixi日記を訪ねて、とても興味深いコメントを読みました。音去さんが、かの老夫婦を両親と解しておいででしたが、それを伺って僕もそっちのほうがいいかもなーと思いました。僕自身は、ケイケイさんと同じように受け止めていたんですがね。 (ケイケイさん) でも被害者の遺族にしたら、当然「死んで欲しい」だと思います。 ヤマ(管理人) まさにそうなんですよね。「殺して欲しい」ではなく、「死んで欲しい」あるいは「殺したい」なんでしょうね。「殺させる」という意識はあまり持たないように思います。だとすれば、死刑を執行しても、本当の意味では遺族の意思に応えるという部分も薄くなる気がしてきますね。 (ケイケイさん) なので感想に書いた通り、死刑判決が下るような犯罪のない社会を、作り手は望んでいると解釈しました。 ヤマ(管理人) なるほどね〜。勿論それが最も望ましいのですが、最も困難でしょうねぇ。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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