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『パッチギ!』 | |||||
監督 井筒和幸 | |||||
楽しく観ながらも「自分のなかでは一過的な作品として流れ去っていきそうに感じる」と日誌に綴った『69sixty nine』は、1969年の長崎佐世保が舞台だったが、その一年前、ちょうど先頃観たばかりの『ドリーマーズ』と同じく、パリで五月革命のあった1968年の京都を舞台に、フランス人とアメリカ人ではなく、日本人と在日朝鮮人の若者を描いて、なかなか味わい深い作品だった。常套と言えば常套なのだが、終盤、朝鮮学校のリ・アンソン(高岡蒼佑)らがチェドキ(尾上寛之)の弔い合戦ともいうべき大喧嘩を京阪の日本人不良高校生たちと川端で繰り広げながら、桃子(楊原京子)が出産の苦しみと闘い、康介(塩谷 瞬)が万感の思いとともに“イムジン河”をラジオ局で歌う、という形で織り交ぜられた場面編集が効果的で、それぞれに若者たち皆が闘っている姿に打たれ、まさに映画のタイトルになっている“パッチギ”を心に喰らった。時代そのものが日本に限らず、闘う若者の時代だったわけだが、彼らのそういう姿を観ていると、改めて若者には格闘し、エネルギーを放射する姿が似合っているとの感慨が湧く。それは何も殴り合いの喧嘩をすることばかりではなく、それぞれにそれぞれの闘い方があることが自ずと浮かび上がってくる場面編集だったわけだ。 思えば、動的にも静的にもあれから時代を下るごとに若者は闘わなくなっているし、それとともにひ弱にもなってきているような気がしてならない。ひと時代下の僕自身がそうだし、僕らから見て若い連中は歳を下るにつれ、その傾向がより強いように思う。だが、そのことよりも、今の世の中がアンソンたちのような喧嘩に明け暮れる不良高校生や政治闘争に奮闘する大学生たちのような存在を完全にアウトローとして扱う形でしか許容できなくなっていることについての思いを触発されたのが感慨深い。いつの時代であろうと、若者には時に放埓なまでのエネルギーの放射できる時期というものが必要で、その経験のなかで人として成長し、大人になっていくわけだが、いきがりや喧嘩という褒められたものではない形でしかそれが行えない者にとっては、今の許容度の小さい世の中では相応の放射が許されないように思う。そして、放射体験に伴う成長がろくに果たされないままのアウトサイダーや落伍者、不適応者をやむなき以上に量産しているように感じる。どのような闘い方であれ、若いときに闘うことで知るべきことを知らずに過ごすことの危うさと脆さというものを思わずにいられなかった。 闘いという点では、康介にしてもキョンジャ(沢尻エリカ)との恋で民族的隔たりと格闘するなかで、知るべき歴史を知る。そして、“イムジン河”をそれまでの気楽さではとても歌えなくなった自分の心と向かい合ったうえで再び歌い、自分の心と格闘する機会を得る。彼にその機会を与えたのもまた、上司に抗い闘ったラジオ局のディレクター(大友康平)だった。この作品が、人に魅力を与え、成長させるものがファイティング・スピリットであることをつくづくと感じさせるのは、老いも若きも男も女も登場人物のほとんどにそれが宿っているような人物造形を果たしていたからなのだろう。康介の憧れる坂崎(オダギリ・ジョー)にも、朝鮮高校を中退し生活を背負って准看として働くガンジャ(真木よう子)にも、アンソンに告げずに出産を決意した桃子にも、康介に在日朝鮮人の嘗めた辛酸を語る一世にも、それが感じられた。そして、それぞれがそれぞれに闘うべき時に闘っていればこそとも思える形で、数年後の姿が寸描される。アンソンはどうやらヤクザになっていたようだが、その表情に荒みがなく、よき父親である姿を偲ばせ、僧侶を継いだらしい康介とキョンジャの恋は断絶することなく、より進展した様子を偲ばせて続いていた。そして、ガンジャもまた後輩や患者に信頼される看護婦としての存在感と貫禄を窺わせていた。 チラシによれば、パッチギというのはハングル語で、アンソンが喧嘩の時の得意技にしていた“頭突き”を意味すると同時に「突き破る、乗り越える」という意味があるそうだが、両方ともの意味で、若者からパッチギ体験の機会が失われてきていることを改めて感じさせられたように思う。 参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録 推薦テクスト:「とめの気ままなお部屋」より http://www17.plala.or.jp/tomekichip/impression/houga8.html#jump9 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050227 | |||||
by ヤマ '05. 2. 9. TOHOシネマズ8 | |||||
【追記】'23.10.31. 公開時以来のほぼ二十年ぶりの再見。今更ながらに配役の充実ぶりに感心した。まだ垢抜けない沢尻エリカを懐かしく観、真木よう子の若い時分からの貫禄にニンマリした。オープニングは加瀬亮だったかだとか、桐谷健太の怪演はこれ程だったかと思ったり、笹野高史の台詞回しに打たれたりしたが、やはり♪イムジン河♪だった。キョンジャ(沢尻エリカ)がラジオを通夜の席に持っていく場面が好い。 1968年とクレジットされたから、僕が十歳のときになるわけだが、『猿の惑星』やら『太平洋の地獄』『バーバレラ』『女体の神秘』といった映画の看板文字が目に付いた。 | |||||
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