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 「―ちゃん、お姉ちゃん」
 どこかで、綾の声がする。
 もう朝かな。千早は薄目を開けた。しかし、視界はぼんやりと白いだけで何も見えない。おまけに、すごく身体がだるい。
 「お姉ちゃん、お姉ちゃんてば」
 肩がゆらゆらと揺らされる感触。分かってる、起きる、起きるよ。だんだんと瞳の焦点が合い、白い壁と、その手前で泣きそうな表情をしている綾の顔が眼に飛び込んできた。
 「綾・・・ちゃん」
 「お姉ちゃん」
 綾が、首元にぎゅっと抱きついてくる。どうやら、自分はベッドの上で横になっていたらしい。服も、いつの間にか素肌の上に薄手の病院着のようなものを着ている。
 千早は、しばらく無感動に抱擁されるままになっていたが、次第に頭がはっきりしてきた。そうか、私、船の中に閉じ込められて―。
 「痛っ」
 前腕に、ふいに痛みを感じる。見ると、点滴針が挿入されたままで腕を動かしてしまったらしい。他にも、腕や上体のあちこちに絆創膏が貼ってある。
 「目、覚めだが」
 脇で声がする。顔は赤銅色に灼け、ひたいの皺は潮風に刻まれたように深い。五十鈴の小父さんだ。
 「良がった」小父さんは、目じりに新しい皺を作りながら破顔する。
 「駄目よ、千早ちゃん」千早が上体を起こそうとすると、小父さんの傍にいた小母さんがあわてて肩に両手を置いた。「休んでいなくちゃ。千早ちゃん、2日間寝たきりだったんだから」
 「・・・2日も」
 千早は、声がかすれるのに気が付きながら言った。
 
 千早と綾を見つけたのは、沖合漁を終えて北浜に帰港する途中だった小父さんだった。
 八重山丸の上の海上にゴムボートが浮いているのを見た小父さんは、不審に思ってブイの傍に船を寄せた。そして、ブイにボートが繋がれたままで、しかもボートが無人なのが分かると、とっさに海に飛び込み、深さ10メートルくらいの海中にふわふわと浮いていた二人を救助したのだという。船上で応急処置をしたため、綾はすぐ息を吹き返したが、千早の方はずっと意識不明の状態だったらしい。
 「・・・まったく、無茶しだな」
 小父さんは、綾の頭を手で鷲づかみにすると、がしがしと手荒く撫でた。「おまけに、千早ちゃんまで巻ぎごんじまって。お前の、腹の長えのは分かるが、無理はすんなといつも言っどるだろが」
 「父ちゃん、痛いよ」綾は、父親の手から逃れようとする。
 「綾。千早ちゃんに謝りなさい」
 小母さんにもぴしゃりと言われ、綾はベッドの脇に立って千早に顔を向けると、深々と頭を下げた。
 「ごめん・・・なさい」
 「ううん」千早はゆっくりと首を振った。「だって、助けてくれたのは綾ちゃんじゃない。綾ちゃんが、あれ、してくれなかったら、私、諦めてたよ」
 綾は、うん、と頷いた。
 自分のパイプ椅子に、ちょこんと座り直す。しかし、「あれ」をした時のことを思い出したのか、急に顔を真っ赤にすると、唇を押さえて俯いてしまった。千早も、思わず自分の唇に手を当てて下を向く。小母さんは、そんな様子の二人を交互に不思議そうに見ていた。
 「ご両親に連絡したら、すごく心配されてね。すぐ来るって、明日の昼の便で着くそうよ」
 「えっ」千早は答えた。「父さんと、母さんが」
 父さんと母さんが来る。二人で。一緒に、自分のところへ。
 「お別れ・・・だね」
 綾が、しんみりと言う。
 「また、すぐ来るよ」千早が言った。
 「本当。本当だね」綾の顔が、ぱっと明るくなった。「海の水が冷たくなっちゃっても、いろいろやれるよ。秋は、いつも大山に茸取りに行くし。お正月は、村会場でみんなでお屠蘇飲んで、それから組合のトラックで東の岬に初日見に行くの」
 「ほらほら」小母さんが綾をたしなめる。「千早ちゃんは、まだ静かにしていなくちゃいけないんだから」
 「それじゃ、そろそろ行くべ」小父さんが、漁労の帽子を被ると立ち上った。
 「着替えと、身の回りのものもいるわね。・・・気が付いたって、霞ちゃんに連絡しないと。千早ちゃん、夕食の後あたりにまた来るわね」
 小父さんと小母さんは、まだ喋り足りなそうな顔の綾を促すと、静かに病室を出て行った。綾の、すぐお見舞いに来るね、という声を残してドアが閉められると、部屋の中はひどく静かになる。風で白いカーテン越しに木々の影が揺れると、さわさわと梢の触れ合う音がした。
 「また、すぐ来るよ」
 千早は、さっきの自分の言葉をもう一度言ってみた。改めて、自分の唇に手をやる。
 唇には、まだほのかに潮の香りと、日に灼けた髪のいい匂いが残っているような気がした。