翌日も晴れだった。
 海はもうすっかり凪いでいて、八重山丸の大きな黒い影が海面の下にうっすらと透けて見えるほど、水はきれいに澄んでいた。絶好のダイビング日和だ。
 ブイにゴムボートを付けた千早と綾は、また例の潜水の準備に入るところだった。
 「すごい、いい天気」千早は、日光に手をかざしながら言った。
 「うん」と綾。
 「今日は負けないからね」と千早。昨晩のことがあり、上機嫌だ。「私も、水中呼吸、マスターするから」
 「うん」
 気のない返事だ。いつもなら、「十年早い」とか「返り討ちだよ」という元気な応えが返って来るはずなのに。両腕を広げる呼吸法にも、どこか力が入っていない。
 「…どうしたの?」千早は訊いた。「もしかして、具合が悪いの。そうだったら、海には入らない方が…」
 「ううん、そんなんじゃないの」綾はかぶりを振る。「…お姉ちゃん、今日はまず、あの部屋に行こう」
 「了解」千早は、髪が乱れないようにゴムでポニーテールに結わえながら答える。
 二人は、ひとしきり深呼吸を繰り返すと、それぞれ水しぶきを上げて青緑色の海面に飛び込んでいった。

海の中は、上から見るよりも一段と澄んでいて、下の沈船を目指して潜っていくとまるで空を飛んでいるような気分になる。千早は、規則正しい平泳ぎのストロークで船までの15メートルを泳ぎ切ると、綾のひらひら動く足先をすぐ前に見ながら、いつものハッチから船の中へと入っていった。
 暗い。一瞬自分がどこにいるのか分からなくなるが、躊躇わず奥の通路を目指して泳いでいくことも、千早は学んだ。まだ、息は全然苦しくない。
 食堂を通って、通路へと進む。綾は、もう先に行ってしまったのだろうか。
 その時、千早はふと背後でドアのきしむような音を耳にした。
 (何?)
 慣性で進もうとする身体を引き起こしてブレーキをかけ、立ち泳ぎの体勢で後ろを振り返る。すると、綾が観音開きの食堂からの扉を閉め、手に持った南京錠を掛けようとしているところだった。
 (綾…ちゃん?)
 がちゃん、と音を立てて施錠する。錠から鍵を引き抜き、水着の胸元に仕舞う。
 そして綾は扉を両脚で蹴ると、持ち前のスピードで、傍らの千早など無視するようにして通路の奥へすいっと泳いでいった。
 (どういう…つもり?)
 入り口のハッチは、食堂の天井にある。つまり、ここから船の外に出るには、さっき綾が閉めた扉を必ず潜らなければいけないのだ。
 立ち泳ぎを続けていた千早は、船室に向かった綾を追ってあわてて手足を掻いた。

 「ぷはっ」
 顔が、水の上に出る。
 「綾ちゃん?」呼びかけるが、返事はない。
 どうしたのだろう。しばらく、きょろきょろと辺りを見回していた千早は、綾が二段ベッドの上段にちょこんと腰掛けているのを発見した。
 「綾ちゃん、どうしたの?」
 千早は、ベッドの脇まで泳ぎつくと、頭上の綾を見上げる。だが、綾はそっぽを向いたままだ。
 「帰るんでしょ」
 「え?」
 「帰っちゃうんでしょ。東京に」
 「ああ、そのこと」千早は綾に笑顔を向けた。「そう。昨日あれから小母さんにも相談したの。また時化になるかも知れないから、帰るなら来週早々くらいが良いって…」
 「うそつき」綾が、こちらに向き直った。「本当のお姉ちゃんになってくれるって、言ってたのに」
 「本当の…お姉ちゃん?」
 千早ははっとした。そうだ。自分の嬉しさにかまけてしまって、綾がどんな気持ちでいるか、忘れてしまった。
 (本当)(絶対だよ)あの日の綾の嬉しそうな声が、記憶から蘇る。
 「…ごめんなさい」
 長い沈黙の後、千早は言った。
 「私、自分のことだけで頭が一杯になってて。お姉さん、失格だよね」
 「…」
 「私ね、初めて島に来たとき、すごく不安だったの。知らない所、知らない人たちと、ちゃんとやって行けるかって。でも、今はこの島がすごく好き」
 「…」
 「それは、綾ちゃんのおかげだよ。綾ちゃんに、きれいなものを沢山見せてもらったおかげ。形のあるものも、ないものも」
 「…」綾は、うつむき加減のまま赤くなっている。
 「だから、この島を離れるのは、正直すごく淋しい。でも、父さんと母さんが、帰って来てくれって言ってくれたことも、私はすごく嬉しいの」
 「…」
 「私、早く帰って父さんと母さんを支えてあげたい。…今まで、私は誰から何かしてもらうだけだったから。そうして、本当にお姉さんと呼ばれても恥ずかしくないような人になりたい」
 「…」
 「帰ろう、綾ちゃん」
 「…嫌だよ」綾は、鍵の入った胸元を押さえて後ずさりした。「あたし、そんなのよく分かんない。結局、お姉ちゃんはもういなくなっちゃうんでしょ。そんなの絶対に嫌」
 「綾ちゃん…」
 「来ないで」綾は胸元に手を入れた。こんな鍵、捨てちゃうんだから。そしたらもうお姉ちゃん帰れないよ」綾は、背後の丸い舷窓ににじり寄ると、内開きの柄に手を掛けた。
 「綾ちゃんっ」思わず、千早の語気が強くなった。
 綾がびくっと反応する。その拍子に、柄をつかんだ左手に力が入った。

 綾は、たぶん本当に舷窓を開けるつもりはなかっただろう。
 しかし、長いこと外からの水圧を受けてきた窓は、もう新たな力が加えられるのに耐えられなかったのだろう。今、綾が柄を動かしたことで、その危ういバランスは崩れてしまった。
 窓蓋が跳ね上がるようにして開く。それと同時に、大量の水がごうごうと船室に流れ込んできた。
 奔流のような海水が、千早の顔に押し寄せてくる。目の前が泡だらけになったと思ったとたん、水面が目の高さを越えた。
 千早の身体は水流に揉まれ、くるりと一回転したあと後ろの壁に叩きつけられる。がん、と背中に鈍い痛みが走るのと同時に、肺の空気ががぼがぼと吐き出された。
 千早は、夢中で手足を動かすと、船室の天井まで浮かび上がった。そして、頭を打たないように注意しながら天井を両手で探る。
 水面はない。どうやら、船室は完全に浸水してしまったらしい。
 (息、出来ない・・・)
 千早は、眼下でぼんやりと光る舷窓の穴を一瞥した。あそこから出られるだろうか。でも、穴は小さく、とても身体を通すほどの大きさはない。
 綾は、どこに行ったのだろう。
 (綾ちゃんっ)
 千早は、床に散乱する机やロッカーを見渡した。この下に、綾が閉じ込められているかも知れない。
 (綾ちゃん、どこ)
 千早は、天井を蹴って床まで戻ると、近くの大型のロッカーに手をかけた。
 (んんんっ)
 両手に力を込める。しかし、ほとんど持ち上がらない。
 「ごぼっ」
 泡が口から漏れる。準備なしで潜っているのと、さっき壁に当たってたくさん息を吐いてしまったせいで、もう胸の奥が焼けるように痛い。思わず手を離すと、ロッカーは、ごとん、と再び床の上に転がった。
 ごぼっ。ごぼごぼっ。
 (苦しい・・・)
 千早は、自分の吐いた気泡が天井に上っていくのを見ながら思った。
 (もう、だめかも)
 千早は、そのまま床の上にひざまずくような姿勢をとると、両手を垂らし目を閉じた。
 ゆっくりと唇を開く。これで喉の力を抜けば、水が胸の奥まで流れ込んでくるはずだ。

その時、千早は何か温かく、柔らかいものが、自分の唇に押し当てられるのを感じた。
 びっくりして後ずさりする。しかしそれは千早の頭をしっかりと抱え込んでいて、容易に離れようとしない。そのうちに、それを通して口に温かい空気が吹き込まれてきた。
 「ん…んんっ」
 顔をしかめる。頬がどんどん膨らんでいく。それでも新たに空気が流し込まれるので、千早は夢中で空気を肺へと嚥下した。ごくっ。ごくっ。ぺしゃんこだった肺が七分ほど膨らんだところで、それはやっと千早の唇を離した。
 千早がうっすらと目を開けると、すぐ前に綾の顔があった。
 (ごめんね)悲しそうな表情で、綾が唇を動かした。手を自分の胸に当て、こぽぽっとビーズのように小さな気泡を吐く。(空気、それで、最後なの)
 (綾・・・ちゃん)
 そして千早が追う間もなく、綾は身体を水中に浮かせるとくるりと向きを変え、船室の外へと泳ぎ出て行った。
 (・・・よおし)
 千早は唇をしっかりと閉じると、床を蹴って綾の後を追った。さっき諦めかけていたのが嘘みたいに、体の中から渾々と力が湧いてくる。
 (泡一つ分も、無駄にするもんか)
 
 二人は、閉ざされた食堂の扉の前まで戻った。
 (鍵は?)千早が、綾に目で訊く。しかし綾は首を横に振った。あのとき、水がどっと部屋に流れ込んできたせいで、無くしてしまったらしい。
 (・・・)千早は、水中で遊弋しながら、南京錠をがちゃがちゃと引っ張ってみた。丈夫なもので、素手ではちょっと開きそうにない。
 (・・・ごめん)髪をゆらゆらと揺らしながら、綾が泣きそうな顔をしている。
 (ううん。いいの)千早が応える。目の前の少女は、自分の空気すべてを与えてくれているのだから。
 それでも、早く他の脱出口を探さなければ、二人ともこのまま溺れてしまう。
 (どうしよう)
 千早は、回りをぐるりと見渡した。廊下は、奥まで一本道だし、船室の窓はどれも人がくぐり抜けられる大きさではない。そして、上甲板へのハッチは、食堂にしかなかった。
 (・・・)
 もう一度、見回す。すると、千早は閉鎖された食堂のすぐ手前に、下に通じるハッチがあるのを発見した。
 (これって・・・)ひょっとして、綾が下から押しても開かなかった、船倉に繋がるハッチではないだろうか。
 迷っている余裕はない。千早は、そこまで移動するとハッチの柄をつかみ、両足を床に踏ん張りながら、思い切って蓋を上に引っ張り上げた。
 (ん・・・んんんっ)
 傍で見ていた綾も、並んで作業に加ってくる。綾も柄をつかんだのを確認すると、千早は、目で合図を送った。 (行くよ。一、二の)
 (さん)
 一人ではびくともしなかったが、二人で息を合わせると、蓋が少し浮き上がってがたがたと揺れた。どうやら、蝶番がおかしくなっているらしい。
 (もう一度。一、二の)
 (さん)
 蓋が、さっきより高くまで持ち上がる。あと少しだ。あと少しで、蝶番が壊れて蓋そのものを引っぺがすことが出来る。
 「ごっ」 
 その時、ふと綾の引っ張る力が抜けた。
 「ごっ。ごぼぼっ」
 綾が水を呑んでいる。始めは、水がどうして喉に入ってきたのか分からないような表情をしていたが、そのうち顔を苦しげに歪め、背中をびくっとエビのように反らせた。
 「ごごっ。ぐっ」
 (綾ちゃん)
 そうだ。この子は、もう肺に空気が全然残っていないのに、水中であんな運動を続けていたのだ。
 千早は、柄を掴んで白くなっている綾の手に、包むようにしてそっと両手を置いた。
 (いいよ。もう、休んでて)
 (ううん)綾は、いやいやをするようにして頭を振る。力んでいるために、綾の両目は泣いているような涙目になっていた。そして、歯を食いしばりながら柄を握り直すと、綾はもう一度、蓋を力一杯上へと引っ張った。
 ばきっ。
 音を立てて蝶番が外れる。すると、蓋はまるで嘘みたいにやすやすと開いた。千早は、すかさず片膝をつくと両手を蓋の下部に差し入れ、きしむハッチを完全に開けた。階下は暗く、何も見えない。
 (すごい。綾ちゃん、やったよ)
 顔を上げて、綾を振り向く。しかし、もう隣に綾はいない。失神した綾の身体は、ハッチの柄を両手で握りしめたまま、足を上にしてふわふわと天井に浮かんでいくところだったのである。
 (・・・綾ちゃんっ)
 千早は綾に追いつくと、夢中でその身体を抱きとめた。柔らかくて、手応えがないほど軽い。この身体で、今まであんな無理をしていたのか。眼は閉じられ、苦しげだった表情も今は眠っているように穏やかだった。千早は、注意深く綾の指を一本ずつ柄から外すと、片腕でその上体をしっかりと抱きかかえた。
 もう一度、下の船倉を覗き込む。相変わらず、暗くて一筋の光も見えない。
 (綾ちゃん、待ってて)
 千早は、綾の身体を抱える腕に力を込めると、足下の広くて暗い闇の中に一気に潜っていった。
 ラッタルに沿って下へと潜っていくと、しばらくして伸ばした手に砂の感触があった。
 暗いのでよく分からないが、どうやら船底には海底の砂がたくさん溜まっているようだ。上を振り向くと、さっき潜ってきた艙口が薄ぼんやりと見えている。
 「うっ」
 ふいに、気泡が口からこぽこぽと漏れる。千早は、自由な右手で自分の喉元を押さえた。
 (私・・・息・・・してないんだ)
 綾に空気を口移ししてもらってから、何分くらい経つんだろう。綾が命がけでくれた、大切な空気。しかしそれも、長い閉息運動のせいでひどく濁ってきている。
 「ごぽぽっ」
 頭上からのわずかな光を、気泡がきらきらと反射する。もう、限界まであと僅かだ。しかし、辺りをきょろきょろと見回したが、孔らしいものは見えなかった。
 (苦しい・・・)
 喉元を押さえつけていても、両頬が勝手に膨らんでいく。
 このまま、全部吐き出しちゃおうか。
 しかし、自分はそれで良いとしても、腕の中にいる綾も一緒に助からなくなってしまう。 

 千早は、頬の空気を肺の中にぐっともう一度飲み込んだ。
 (苦しく、ない)
 口を閉じたまま、同じ空気を吸っては吐き、吸っては吐く。左右の鎖骨が、まるで呼吸しているようにゆっくりと上下した。(苦しくない)(苦しくない)
 綾が言っていた孔は、必ずどこかにあるはずだ。ここから見えないのは、遠すぎて水中眼鏡なしの目に光が届かないからだろう。あの時綾が潜っていった、舷窓の真下あたりを探して見れば―。
 千早は泳ぎ始めた。脇に綾の身体を抱えているので不恰好なドルフィンキックしかできず、数メートル進むのもひどく時間がかかる。(苦しくない)(苦しくない)
 どきん、どきん。静かな水中で、自分の心音だけがひどく大きく聞こえる。
 やがて、前方に白い輪のようなものがぼんやりと見えてきた。あれか。あれかな。千早は一度両眼をぎゅっと瞑ると大きく見開いた。白い輪はより大きくなっていて、光がいくつもの筋になって差し込んでいるのも分かる。出口だ。
 千早は、キックのペースを速めた。あと少し。あと少しだ。でも、こんなに必死で泳いでるのに、あの光の輪はなんて遠いのだろう。
 あそこを潜れば、空気がある。ああ、違うか。あそこを潜っても、たくさん上に泳がなくちゃ。でも、たくさん泳げば、海の上だ。お日さまの光。甘い潮風。空気。空気。
 (やっぱり、苦しいっ)
 千早は、ごぼごぼっと気泡を吐いた。(あと少し)(あと少し)力を振り絞ってキックを続ける。いち、にい。いち、にい、いち、にい―。
 ごっ。ごごっ。大量の海水が肺に流れ込んできたために、千早のしなやかな身体は稲妻に撃たれたようにびくびくと動いた。(あと少し)(あと少し、なのに)孔に進入し、めくれ上がった船腹の鋼材にがりがりと身体を引っかかれながら、千早は自分の意識がすうっと遠のいていくのを感じていた。

Z