He would do it even if it killed him, he said defiantly to himself.
―Doris Lessing, “Through the Tunnel”

「スッ、ハー」
「スッ、ハー」
 
千登勢と麻耶は、向かい合って深呼吸の練習をしていた。息を大きく吸い込むたびに、二人の水着の胸が膨らみ、反対にお腹は平たくへっこむ。
 
「実験」と言って、池の底に潜ってみた麻耶は、水底にぽっかり穴が開き、通路のように長くなって奥に続いているのを発見した。そしてそのずっと向こうには、思った通り、日光が緑の柱のようになって通路の天井から差し込んでいる。手前の天井にもちらほらと小さな穴があるらしく、光が何本もの筋となって、地下であるはずの水中洞窟を意外なほど明るく照らしていた。
 
ここから30メートルくらいかも知れない−と、麻耶は緑の柱までの距離を推量した。いつも泳いでいるプールより、ちょっと長い。それでも、水泳部競泳コースの麻耶には十分泳ぎ切れる自信があった。
 
麻耶は水面に浮かび上がると、池の岸まで平泳ぎで泳いだ。岸辺には、千登勢がしゃがみこみ、小さな子供のように膝を抱えて、麻耶が戻ってくるのを待っている。
 
麻耶は大丈夫だとしても、問題は千登勢だった。千登勢はあまり泳ぎが得意ではない。潜水どころか、水泳の授業でもやっとビート板なしで25メートル泳げるくらいだ。
 
「千登勢」髪についた水を両手で振り払いながら麻耶が言った。
 
「何」
 
「あの、あのね。真面目に聞いて欲しいんだけれど。もしかして私、ここを出る道が分かったかも知れない。でも、千登勢には、すごく大変かも知れないんだけど。だけど大丈夫、大丈夫だよ」
 
「道?」
 
千登勢が聞き返した。
 
千登勢は嫌がるだろうな、と麻耶は思った。ところが、いざここを潜って逃げよう、と言ってみると、千登勢は麻耶が驚くほどしっかりと頷いた。そして訊いてきた。
 
「麻耶ちゃん、息の止め方教えて」

 「スッ、ハー」
 
千登勢が「練習」を続けている。つい体に力が入ってしまうのか、息を吐くとき腕を前で交差させ、吸うときは八の字に広げる。
 
華奢な体だった。首筋も細く、肌も白い。激しい運動をあまりしたことがないその体には、学校指定の競泳用水着は痛々しいほど不似合いに見える。
 
一方、背丈のある麻耶は、手も脚も長い。胸もー発育が良いと言うのか、千登勢が例の妙な腕体操を続けながら、自分の胸元にちらちら目をやるのが、麻耶は気恥ずかしかった。
 
「そうそう。で、何度も深呼吸をすると、息が長く続くんだ。それから、苦しくなりそうだと思ったら、すこしだけ息を吐いて止める。その繰り返し」
 
ハイパーベンチレーションなどという言葉は知らなかったが、麻耶は息を長くする方法を経験的に知っていた。そこで、実際に潜る前に、少し千登勢を特訓しておくことにしたのだ。
 
まさに畳の上の水練だけれど、麻耶には千登勢はだいぶ上手くなってきたように思えた。
 
「そう。私も専門家とかじゃないからよく分からないけど、今のだけでも大分違うんじゃないかな。じゃあ、そろそろいい?」
 
「うん」
 
脱いだ制服は置いていくことにした。逃げた後、あの男たちが戻ってきて見つけるかも知れないと思うと嫌だったが、かさばる荷物を水の中を運んでいくことはできなかった。
 
その代わり、総合学習の発表に使うはずだったパネルやビデオテープは、防水用にしっかりとポリエチレン袋に包んだあと、二人のボストンバッグに入れた。実験のビーカー代わりに使うつもりで持ってきたペットボトルは、千登勢が「空気補給用に使えるかも」と言うので、蓋を硬く閉めてバッグに入れた。本当に使えるかどうかは疑問だったが、入れてみると丁度浮き袋のようになってバッグを運びやすくなった。そしてそのバッグそのものは、ストラップを調整して、体にぴったりと付けるようにした。

 
「千登勢」
 
池の真中まで立ち泳ぎで泳いでいった麻耶が後ろを振り返ると、岸べりに座った千登勢が、両脚を水の中でぶらぶらさせながら、最後の身支度をしていた。何重ものビニール袋に入れた「キュロちゃん」をバッグにしまい、ジッパーを閉める。キュロちゃんというのは、千登勢がひどく大事にしている携帯ペットの名前だ。
 
「ちょっと冷たいよ。それと、すぐすごく深くなってるから気をつけて」
 
千登勢が、ばしゃんと水音を立てて飛び込んできた。バッグを浮き袋のように使いながら、ひどく真剣な顔つきで進んでくる。
 
麻耶がその二の腕をつかまえると、白い肩がぶるぶると震えているのが初めて分かった。
 
さっきは、あんなに平気そうにしていたのに―と麻耶はびっくりした。息をつめて、長い長い距離を泳がないといけない。そんな、これまで初めての体験を控えて、千登勢は本当は怖くてたまらないのだ。
 
麻耶は、千登勢ににこっと笑って見せると、先生のような口調で言った。
 
「さあ、行くよ。さっき言ったこと忘れないで」
 
二人は、立ち泳ぎをしながら、洞窟のひんやりとした空気を何度もゆっくり吸って吐くことを繰り返した。麻耶が手を差し出すと、千登勢がそれをしっかりと握る。そして何度目かに、肺をできるだけ大きく膨らますようなつもりで、これ以上はないくらいの深呼吸をすると、二人は手をつないだままで水底を目指して潜っていった。
 
池の暗い水面には、しばらく千登勢と麻耶の作った丸い波紋が2つ浮かんでいた。しかしそれが収まると、洞窟の中はまるで何もなかったかのように、また静かになった。

     

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