"C'mon! Fight!"
Ed Harris to Mary Elizabeth Mastrantonio

in The Abyss

 水流に揉まれ、湖の底に開いた竪穴から吐き出された麻耶と千登勢の体は、ぐんぐん水面へと浮上していった。
 
水が温かくなり、紺色の視界がみるみる明るい緑になっていく。やがて二人の体は、コルクのように勢いよく水面へと踊り出た。
 空気があった。
 
「がぼっ、ごほごほっ!ぷはっ、ぷはあっ…はあっ、はあっ、はあっ」
 
麻耶が激しくむせ返り、肺の中の水をしぼり出すようにして吐き出す。長い長い、限界をはるかに超えた閉息潜水のために、顔は真っ赤に充血し、目はつりあがっていた。胸が大きく上下し、荒く吐く息が水面に小さなさざ波を立てる。
 
暗さに慣れた目に、太陽の光が痛いほど強く差し込んでくる。樹木に蓋われた岸辺は、どちらを向いても同じくらいの距離だ。どうやら二人は、湖のほぼ真中にいるらしかった。しかし、麻耶は、あの果てしない闇の中を抜け、自力で初夏の陽光の中に戻って来られたことが、しばらく信じられなかった。

 
立ち泳ぎをしている麻耶の腕の中で、千登勢はぐったりと目をつぶっていた。麻耶は、右腕を千登勢の首筋から脇の下に回し、後ろに引っ張るようにしながら岸を目指して泳いでいく。閉息下で無理やりキックし続けた脚の力はすっかり萎え、麻耶はほとんどまともに泳げなかったが、それでも千登勢の顔が水面下にならないようにだけは気を付けた。力の抜けた千登勢の体は、手を離せばそのまま沈んでいってしまいそうだったから。
 麻耶はやっと岸辺のごつごつとした岩が露出した箇所にたどり着くと、できるだけ平たい場所を選んで千登勢の体を横たえた。水から上がった麻耶の手足は疲労で鉛のように重く、できれば倒れ込んで自分も体を休ませたかった。しかし、そんな訳にはいかない。
 千登勢はまだ、息をしていなかった。
 (待っててね、千登勢)
 麻耶は横たわる千登勢の横にひざまずくと、手を千登勢の首の下に差し入れ、上に持ち上げるようにして千登勢の頭を少しのけぞらせた。
 顔色が真っ青なのを除けば、両目を閉じた千登勢はまるで眠っているようだ。肩までの髪が、きゃしゃな首筋に濡れて張りついている。千登勢の体の稜線は、その下で紺の水着の膨らみとなって弧を描くと、平たい腹部へと向って急に落ち込み、なだらかに2つの白いふくらはぎへと続いていく。こんな時なのに、なぜか千登勢はとてもきれいに見えた。
 麻耶は千登勢の首筋に手を当てて、脈を計る。
 とくん、とくん、とくん。弱々しかったが、千登勢の心臓はまだ動いていた。
 水泳の救護訓練で習った通りに、鼻をつまみ、唇と唇をしっかり重ね合わせて3回息を吹き込む。それから唇を離すと、今度は両手を胸に押し当て、強く3回マッサージする。いち、に、さん。いち、に、さん。千登勢の軽い体は、麻耶が腕に力を込める度にゆらゆらと揺れた。
 
いち、に、さん。いち、に、さん。麻耶は、人工呼吸とマッサージを繰り返した。ごめんね、千登勢。本当はすごく怖かったのに、私が無理をさせちゃって―
 千登勢は、目を閉じたままぴくりともしない。
 麻耶は焦ってきた。これじゃ駄目なのだろうか。もう一度、首筋で脈を計る。よく分からなかったので、麻耶は屈みこむと千登勢の胸に直接耳を押し当てた。
 とくん、とくん…。
あった、と麻耶は思った。しかし、その鼓動はさっきよりずっと微弱になっている。
 再び唇と唇を重ね、息を流し込む。いち、に、さん、いち、に、さん。何も変わらない。千登勢が、千登勢が死んじゃう。麻耶はそう思うと、なぜか突然、強い怒りが自分の中にこみ上げてきた。

 「千登勢、千登勢」
 声を掛ける。もちろん答えはない。
 「千登勢、しっかりしてよ」
 麻耶は平手で、ぺしぺしと千登勢の両頬を叩いていた。

 「千登勢。生きて。生きて。息を、息を吸って。どうして。どうしてやめちゃうの。あんたのキュロちゃんも、パネルも、テープも、あんなに頑張って持ってきたのに、なんで今諦めちゃうんだよ」
 
いち、に、さん。いち、に、さん。
 
「弱虫。千登勢の弱虫」
 両手で、胸を力いっぱい押し下げる。麻耶は、いつの間にか千登勢に馬乗りになるような姿勢になっていた。麻耶の強い力で、千登勢の頭と体が岩場の上でがくがく揺れる。ふーっ、ふーっ、ふーっ。もう一度人工呼吸。麻耶は、千登勢の頭を両手で抱えこみ、精一杯唇に息を吹き込んだ。 すると、千登勢の胸が大きく上下し、喉ががぼっと苦しげな声を立てた。 麻耶は、はっとして唇を離した。がほっ、ごほっ。千登勢の口から、泡と一緒にたらたらと水が流れ出している。顔が苦しそうにゆがみ、ぐったりしていた上体に再び力がこもった。
 「千登勢」 がぽっ、と大量の水を吐くと、千登勢ははげしく咳き込みながらも、久しぶりの呼吸を始めていた。

 「ごほっ。ごほっ。はあっ、はあっ。ごほっ。がはごほっ」
 そして、その両目がうっすらと開かれる。
 「麻耶ちゃん…」
 千登勢が口をゆっくりと動かす。まだ顔色は紙みたいに白く、唇は紫色だったが、その端には確かに微笑みが浮かんでいた。
 「千登勢…」

 良かった。千登勢が戻って来てくれた。 急に、目の前の千登勢の顔がぼやける。あれ、どうしたんだろう。今の今まで、涙なんて出なかったのに。麻耶は、ずぶ濡れの自分の頬を、水ではない熱いものが後から後から流れ落ちていくのを感じていた。 

 二人が通りがかった男女連れのハイカーに発見されたのは、それから2時間ほど後のことだった。

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