遠き日の温み


雨が心細げに窓を打つ。
朧に歪む景色を束の間眺め、カミューはゆっくりと寝台に向かった。苦しげな息を吐いている顔を見下ろし、溜め息混じりに首を振る。
村に辿り着く頃には完全に意識を失っていたマイクロトフ。歳の割には大柄な少年を村人の助けを借りながら宿屋に運び入れてすぐに雨が降り出した。
呼ばれた医師の診断は予想通り風邪であった。病気などとは無縁そうな少年だが、慣れない生活に気を張りでもしていたのだろう、疲労が病を呼び込んだようだ。
よくよく考えてみれば、朝から顔が赤かったような気がする。寒空の下、馬を飛ばしてきたからだとばかり思っていたが、あるいはあのときから体調が悪かったのかもしれない。
額に乗せたタオルが温み始めたのに気づき、寝台脇に置いた水差しで絞り直す。冷えた感触に覚醒を促されたのか、熱に潤んだ瞳が開いた。
「カミュー……?」
縋る口調に誘われて寝台の隙間に腰を落とすと、即座に申し訳なさそうな眼差しが迎えてくる。
「風邪だそうだ、熱が下がるまで安静にするようにとの医師殿からのお達しだよ」
気まずそうに唇を噛んだマイクロトフは、おずおずと問うた。
「ここは?」
「街道の村の宿屋だ。ロックアックスに戻るより近かったからね。おまえの家に伝えに戻ろうと思ったんだが……丁度ロックアックスに行く商人がいて、伝言を引き受けてくれた」
そうか、と呟いた彼は目を閉じて溜め息をついた。
「……すまなかった」
殊勝に詫びられて苦笑しかけたカミューだったが、続く言葉に眉を寄せた。
「寒かっただろう。本当にすまない、カミュー」
それが与えた外套のことだと漸く察した彼は、呆れて首を振った。
「謝る方向が間違っていないか? どちらかと言うと、体調が悪いのを伏せていたことを詫びて欲しいけれどね。まさか気づかなかった訳ではないだろう?」
上掛けを引き上げながら問い質すと、マイクロトフはますます小さくなった。
「言ってみろ、マイクロトフ……いつから調子が悪かったんだい?」
「う……」
「いつからだ?」
「あ、朝……。それで寝過ごしてしまって」
カミューはがっくりと肩を落とす。それを見たマイクロトフは上掛けから伸び上がって必死に弁明を始めた。
「だ、だが……大丈夫だと思ったんだ。それに……もう十分おまえを待たせてしまっていたし……」
「おまえの性格上、約束をすっぽかせなかったことは認めよう。だが、ならば何故あの場で言わない? 悪化するとは思わなかったのか、おまえは」
言いながらカミューは心中思っていた。
別に遅刻したことを責めはしなかった。事実を言い出し難い不機嫌を見せたつもりもない。なのに無理を押したマイクロトフは正真正銘の考えなしだ───けれど。
「……行きたかったんだ」
彼はポツリと言う。
「遠乗りに? いつだって行けるだろう」
でも、とマイクロトフは眉を寄せた。
「今度いつ非番日が重なるか分からないじゃないか」
「……非番が重なるって……わたしと?」
思わず小声で返すなりマイクロトフは心外そうに強く言い募った。
「おれはカミューと一緒に遠乗りに出たかったんだ」
虚を衝かれて瞬いているうちに彼は無念そうに目を閉じる。
「ずっと楽しみにしていたのに……少し身体が怠いくらい何とかなると思ったんだ。結局、迷惑を掛けてしまったけれど」
最後の一言は聞き取れないほど細い声だった。そのまま黙してしまったマイクロトフに、カミューは深々と考え込む。
遠乗りという行為にそれほどの意味があるとは思えない。けれどマイクロトフにとっては違うのだろう。
『友人』と馬を並べて大地を駆け、疲れたらそこらに転がって空を見上げて。
風に吹かれながら食事を取り、他愛もない言葉を交わしたり、笑い合ったり。
そんな行為の積み重ねが一人の人間に近づいていくというマイクロトフなりの確信なのかもしれない。
「呆れて……いるか?」
顔半分ほど上掛けに潜り込みながらのくぐもった声にカミューは穏やかに笑んだ。
「そうだね」
しなやかな指先で乱れた黒髪を梳いてやり、火照った頬にそっと触れる。
「でも……」
言い掛けて口を閉ざすと、マイクロトフは敏感に反応した。
「でも? でも、……何だ?」

 

───でも、無理を押してまで交流を温めたいと考えたマイクロトフの気持ちは、面映ゆくはあっても決して不快ではない。
人と深く交わろうとせずに今日まできたカミューには我ながら戸惑うばかりであったけれども。
同時に、マイクロトフのこの親愛は何処から生じるのか怪訝に思う。
生い立ちや境遇に殆ど接点はなく、言葉を交わしていてもすれ違うばかりの気がするときさえあるというのに。

 

「マイクロトフ、おまえ……男兄弟が欲しいと思ったことがあるのかい?」
長い沈黙の後、反対に柔らかく問い掛けた声に応えはなかった。見遣れば彼はすうすうと寝入っている。
答えを待ち切れずに眠りに落ちた年下の少年を見下ろし、カミューは小さく溜め息をついた。ちらと視線を飛ばした先にマイクロトフの荷が在る。
育て親である叔母が拵えてくれた弁当は明日になっても味が落ちることはあるまい。カミューは夕食を諦めてもう一つの寝台に向かおうとした。
身を起こしかけてふと気づく。穏やかに眠っていると思われた少年は僅かではあるが震えていた。暖炉の火は激しく燃え盛り、それ以上加減を強くすることは出来そうにない。
「……世話の焼ける奴だよ、本当に」
気づいてしまったことに舌打ちしたい心地を抱えながら、上掛けを捲り上げ、マイクロトフの傍らに潜り込んだ。
昔から体温は高い方だと言われてきた。暖は取れる筈である。
温もりに包まれたためか、安堵したような安らかな寝顔を曝す少年を肘枕のまま見詰めながらカミューは思った。
───人が寄り添うのは、ひとりでは寒いからなのかもしれない、と。

 

 

 

 

 

 

ひどく気遣ったように肩を揺らされて目を開けた。
途端に視界を刺した光に思わず唸り、身じろいでから薄く目蓋を上げていくと、敷布に正座したマイクロトフが見下ろしていた。
「ああ……眠ってしまったのか、わたしは」
「朝だ、カミュー」
「……何だって?」
半身を起こしかけたが、何故か気怠く、そのまま目線だけを窓の外へ向ける。やけに白々とした光が零れ輝いていた。
「雪が降ったみたいだ、少しだけれど積もっている」
厳粛に告げる少年を見てカミューは眉を寄せた。
「マイクロトフ……大丈夫なのか? 寝ていないと……」
「もう熱は引いた」
回復の早い男だと呆れたが、次は自身の頭が重いのに気づく。
「カミュー、おれを温めてくれようとしたのだろう? ありがとう、そして……すまない。どうやら風邪を伝染してしまったらしい、……ひどい熱だ」
「………………………………」

 

───おかしい。
自分は器用な人間だと思っていた。何でも適度に上手くこなし、要領良く立ち回ってきた筈なのに。
なのに、この男には狂わされる。
真っ直ぐに好意をぶつけてくるマイクロトフにだけは身に付けた処世の術が崩される。
寒そうにしていたら上掛けを一枚増やしてやれば良いだけのことなのに。風邪を伝染される可能性くらい考慮出来ないことではなかったのに───

 

カミューはくすくすと笑い出した。

 

それがわたしの『好意』なのか。
何と無器用で幼い、陳腐だけれど温かな感情。

 

 

「カミュー……?」
案じるように覗き込む少年に艶やかに笑い掛けた。
「マイクロトフ、温かいスープでも貰ってきてくれ。昨日の弁当をいただこう」
え、と黒い瞳が瞬く。
「で、でも……おれはともかく、おまえは消化の良いものの方が良いのではないか?」
おずおずとした提案を朗らかに笑い飛ばす。
「昨日から何も食べていないんだ、消化の良い粥などで空腹を満たせると思うかい? 休日は今日までだ、食べて体力を戻してロックアックスに戻らなくては」
それに、と揶揄気味に付け加える。
「一緒に食べるために持ってきてくれたのだろう? 独り占めするつもりかい?」
そこでマイクロトフは弾かれたように寝台から飛び降りた。大慌てで上着を羽織るなり、顔を輝かせて宣言する。
「待っていてくれ、すぐに戻るから!」
言うなり突風のように部屋を出ていくのを見送ってからカミューは上掛けを引き上げた。
単純な男だ。
どうやら本当に全快してしまったらしい彼はともかく、現在悪寒の真っ只中にある自分は今日中にロックアックスに帰還することは不可能だろう。
伝言をかねて先に戻らせることは出来るだろうか、そう思案しながら苦笑が込み上げる。あれこれと言葉を選びながら付き添いを主張する少年が目に浮かぶようだった。
面倒臭い、鬱陶しいと時折過らせさえしながらマイクロトフとの関係を続けているのは、結局のところ自分も彼に好意を抱いているからなのだ。
剣を握れば初めて畏れさえ感じた同世代の相手。真っ直ぐで誠実な性根も、無鉄砲で考えなしの直情も、決してカミューには持ち得ぬものだ。
───だからこそ、惹かれる。
戸惑い、不可解に思いながらも離れ難く感じるのだ。

 

「友達、か……」
低く呟いてみる。
「わたしたちは友達になれたのかな、マイクロトフ……」

 

スープを手にマイクロトフが戻ってきたとき、カミューは静かな眠りに落ちていた───満ち足りた優しい貌で。

 

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いいえ、友達どころか
あーんなことやこーんなことまで致す仲に
なっちまいましたさ、数年後には。
しかも受け。ご愁傷様〜〜。

 

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