初冬の夕暮れ。
執務室の暖炉には離籍していた主人を気遣う炎が小さく燃えていた。
部下たちの誠実に感謝しながら執務机につこうとしたとき、それは目に止まった。
純白に薄紅の花模様の透かし、繊細な設えの一通の封書。かなりの厚みを持つ包みを取り上げて鼻先に翳すと、仄かに甘い香りがした。
差出人の名はない。周囲に知られることを案じたものか、おそらく中に記されているのだろうと思われた。
高価で上品な封筒を選び、万感を込めて封をしたであろう乙女の面影を想像すれば、僅かに胸が揺らぐ。書状の厚みは想いの重さにも似て、赤騎士団長の憂いを誘った。
ロックアックス城内の執務室には、時折こうして城下の乙女からの書状が置かれる。
無論、正規の経路ではない。城に勤める使用人たちを介して、ひっそりと届けられるのだ。
騎士団としても、そのあたりは然程厳しく咎める風潮はない。つとめの最中に街中で捕まえようとするより、よほど罪のない手段であるからだ。
カミューは封書に目を落としたまま淡く嘆息した。
かつては乙女と浮き名を流した身だ。深い関係を持ったこともあれば、そうでなかったこともある。
朋輩たちが羨望を込めて囁く噂ほどではなかったにしろ、身辺が華やいでいたのは確かだった。
───だが、真に恋であったのか。
今となってはカミューにも分からない。
最初は異邦の出自である身に差し出される乙女の手を温かく思った。求められるまま彼女らの望みを果たしたのは彼なりの誠実であり、人恋しさであったかもしれない。
けれど、いつしか気づいた。乙女たちが求めるもの、それが自身の表皮だけであることに。
類稀なる容貌を、あるいは若くして名を挙げる彼を、乙女たちは一種の装飾の如く思っているようだった。
戦場で剣を振るい、その結果、容姿が損なわれたら。
失脚し、名もなく終わる騎士と定まったならば。
───乙女らは躊躇せずに去るだろう、そう思った。
孕む焔を知ろうともせず、ただかたちだけの笑みや礼節に陶酔する彼女らに、やがて彼は失望したのだ。
己が平凡な男としての幸福に満足出来る人間とは言い難いことを、誰よりカミューは知っていた。
例えば、親友マイクロトフ。
騎士として生きることに命を懸ける無骨者だが、妻を得て、子を育む人生も似つかわしい。誠実な夫、尊敬される父としての姿は容易に思い描くことが出来た。
けれど一方で、カミューは夫であり父である自身を想像出来なかった。
柄ではない、そう言い切ってしまえば苦笑せざるを得ないが、もともと身寄りのない彼には家族という繋がりは遠いもののように思われた。
常に死と隣り合わす騎士には生涯独り身を通すものも多く、それが自身に相応しい道であろうと思い始めた頃。
───大きな転機を迎えた。
人生の伴侶に同性を選ぶなど、考えたこともなかった。
昔から優しげな美貌で乙女のみならず男たちをも惹きつけてきたカミューであるが、このときばかりは禁忌への理性さえ働く間もなかった。
彼を攫った腕は強く逞しく、そして何より温かかった。
情熱を込めて耳元で名を囁かれるたび、疼く喜びが駆け抜ける。
自身も認めた絶大なる光が生涯を誓う、その満悦に震えもした。
これこそが求め続けた真実。
魂を懸けて向かい合い、手を携えて未来を得るべき唯一の相手。
カミューにとってマイクロトフはそうした男だったのだ。
差し伸べられた手に、カミューは初めて自身のすべてを委ねた。そしてその手を強く握り返し、相手のすべてを得た。
唇が重なるたびに言葉にせぬ想いを囁き、肌を合わせるたびに終わりなき至福を信じた。
唯一を得たカミューは、もはや他を要さない。
それでも身に染みついた習慣から乙女への礼節は守り通した。
身を慎みながらも笑みを絶やさぬ彼に恋慕する乙女は後を絶たず、今でもこうして文が届くのだ。
乙女からの文を疎ましく思った時期もある。
恋に恋しているだけなのだろう、と冷ややかに流し読んだ夜もあった。
けれど今、カミューは乙女らの想いに穏やかな心で対峙する。
その一筆ごとに何程の切なさが込められているのか、何程の愛しさが溢れているのか。
真に恋する身となったからこそ、物言わぬ文字に潜む情熱を解することが出来るようになった。相手を想いながら筆を走らせる乙女の葛藤を、上から見下ろしていた頃の自身は何と傲慢であったことか。
人を恋う喜びや痛みを知らぬままに得る平穏、想いゆえに身に負う苦難。いずれが価値ある道であるか、今のカミューならば即答出来る。
決して取ることの出来ぬ手であると認め、だからカミューは文に向けて丁寧に礼を払うのだ。
開封することなく長いこと掌に包まれていた封書が、そっと暖炉の火に翳された。柔らかな紅の触手が封書を絡め取り、やがて輝きを増す。
半分ほどが燃え落ちたところでカミューは残りを暖炉の中に投げ入れた。爆ぜた火粒が見守る白い貌を艶やかに染め上げる。
「……ありがとう、そして……許してください」
彼は低く呟いた。
想ってくれて。
───応えることが出来ず。
炎に細められた琥珀が密やかに笑む。
「不実な男と謗ってください、わたしの心は貴方からの文を読む余裕もないほど一人に占められているのです───」
黒々と焼け落ちた紙面の残骸が儚く崩れ落ちていった。
ね、いつも通り〜 →