夕闇の帳に包まれる頃、ロックアックス城はひときわ荘厳な趣に包まれる。白い石壁に反射する夕陽が城を浮かび上がらせるかのように際立たせ、街の人々は威風堂々としたたたずまいに改めて感服するのだ。
一般市民にはとかく敷居の高い、心からの憧憬を込めて見詰めはするけれど殆ど足を踏み入れる機会のない場所、それがマチルダ騎士団領の中枢・ロックアックス城である。
その城門に続く石段を軽やかに昇る少女が一人。
夕陽に輝く髪は黄金に近い栗色、利発そうな鳶色の瞳はくるくるとくるめいて門脇に直立する張り番の騎士らに当てられている。
手には小振りの旅行鞄を持ち、身なりにもそこそこ金が掛けられている。何よりその表情は高揚に輝いていた。
やがて気付いた赤騎士が怪訝そうに眉を寄せながらも丁寧に口を開いた。
「何用ですかな、お嬢さん?」
このような年端もいかない子供がひとり、城の門を叩くことは通常では考えられない。それでも努めて尋問口調にならぬよう心掛けた赤騎士は、指導者の教えを忠実に実践したことになる。
市民に礼を。
力ない存在にこそ、努めて威儀を正すこと。
赤騎士団の頂点に立って二年近くになる青年が、最初に騎士らに与えた指針。現在マチルダ騎士団を統括する白騎士団長ゴルドーの権高い姿を見ている騎士たちには、かえって新鮮、且つしかるべき騎士の振る舞いであるように思われたものだ。
───もっとも、彼らは新たに騎士団長となった美貌の青年の訓示なら、如何なることにも従うつもりであったけれど。
「……ええと、ご家族の御遣いかな? それとも、何か城下で困ったことでも……?」
腰を曲げ、少女の視線と同じ高さになった赤騎士は満面の笑顔で尋ねた。妙齢のレディが相手なら、とても彼らの団長のようには振舞えないが、このくらいの少女になら何とか自分の言葉で応対できる。
赤騎士は、しかし少女の言葉に笑顔のまま引き攣った。
「赤騎士団長にお会いしたいの」
ツンと澄ました物言い、丁寧に応じる騎士をどこか小馬鹿にしたような目つき。むっとするのをこらえつつ、彼は己に忍耐を強いた。そんな仲間の痛々しい様子に、もう一人の赤騎士が代わりに告げる。
「……ええと、団長はお忙しい御方でね。約束のない方とはお会いできないと思うんだが……」
「あら」
見た目はおよそ十歳前後。そのくせ妙に大人びた雰囲気を漂わせた少女は鼻先でせせら笑った。
「わたくしにはお会いする資格があると思いますわ。早く取り次いでくださいな」
口調は良家の令嬢風。なまじ子供なだけに妙に気に障る。赤騎士たちは必死で脳裏に自団長の笑顔を思い浮かべた。いつも穏やかで柔和な青年の微笑みは、如何なるときも赤騎士たちの精神安定剤となる妙薬であった。
「そうは言っても……」
そこで彼らはひとつの可能性に思い至った。少女は崇拝する騎士団長の知己であるのかもしれない。だとしたら、取り次がぬ訳にもいかない───
「……ともかく名前を聞いてもいいかな、お嬢さん?」
未だ引き攣り気味の笑顔で尋ねた赤騎士らに、少女は思わせぶりに口を開く。
「母の名はリデア・オコーネル、わたくしはポーリーン」
唄うような調子には、どこか誇らかな響きがあった。
「では、ポーリーン殿。我が赤騎士団長への用向きもお聞かせいただけるかな?」
努めて穏やかにつとめを果たした赤騎士らは、不幸にも少女の言を予想だにしなかった。
「では、お伝えくださいな。リデア・オコーネルの娘が父親のお顔を拝見しに参りましたと」
「……………ちち??」
少女ポーリーンは満面の笑顔で高らかに宣言した。
「赤騎士団長カミュー様───それがわたくしの父の名です」
赤騎士団長執務室に通された少女は興味深げに周囲を見回して、上質のソファに腰を落とし、従者が運んだお茶を優雅に手に取った。
城下の市民ならば騎士団の居城に招かれれば、多少の気後れを見せてもよさそうなものだ。事実、時折入城する市民には謁見の間で緊張で倒れる者が出るほどだ。
ところが少女は怖いもの知らずなのか無神経なのか、案内された部屋で目当ての団長が不在であることを知らされるなり、あからさまに不満そうな顔さえ見せたのだ。
「何と言いますか……その……」
張り番騎士の直属の上官である赤騎士団第七部隊長ランベルトが、奥まった机の横からちらちらと少女の様子を窺いながら口を開く。
「あのう……つまり……そのう───」
「ええい、鬱陶しい! はっきり言わんか!」
先程から苦虫を噛み潰したような表情で腕を組んでいた第二隊長アレンが吐き捨てる。
「落ち着け。騎士たるもの、如何なるときも平静を信条とせねば」
低く窘める第一隊長ローウェルに、だが彼は唇を噛む。
「分っております、しかし……しかし、こればかりは……」
「我らが動じてどうなるものでもあるまい」
そうは言いつつも、ローウェルもまた蒼白状態である。彼は信頼してやまない、温厚で理性的な副長を見遣った。
「如何なさいますか、副長……」
机に片肘をついて顔を覆っていた赤騎士団副長ランドは、そこでようやく何事かを呟いた。
「…………………………い」
「は? 何と仰いました?」
「───胃が」
顔を上げた彼は、その穏やかな顔に脂汗を滲ませていた。
「……胃が……痛い……」
「な、何と! 副長、しっかりなさってください!」
「今、副長にもしものことがあれば……我らは如何すれば良いのです!!」
「おまえたち! 静かにせんか、騒ぎになればどうなる!」
机の両脇から縋るようにランドに取り付いた第二・七隊長を一喝してから、ローウェルが案じるように声を掛けた。
「……胃痛ですな? ……医師を呼びましょう」
「ま、待て……大丈夫だ。今はそれどころではない」
副長ランドは鳩尾を押さえつつ首を振った。
「整理しよう。彼女はポーリーン嬢、御年十歳。母君はかつてロックアックスに半年ほど滞在した旅の歌姫リデア・オコーネル殿……そして……そして……」
そこで胃痛がぶりかえしたのか、彼は痛々しく顔を歪めた。
「そして彼女が言うには、父君が……我らが騎士団長カミュー様」
「偽りに決まっておりましょう!!」
思わず声を荒げたアレンだったが、そこで涼やかな声が割り込んだ。
「偽りなどではありませんわ」
一同が振り向くと、ポーリーンが澄ました顔で見詰め返していた。
「母はこの街に訪れた折、七つ年下だった父と恋に落ちたのです。それはもう、燃えるような恋ではあったけれど、母は旅の芸人に過ぎず───泣く泣くお別れしたのですわ。その後、恋の形見としてわたくしが産まれましたの。その母も、先月長い患いの末……わたくしを一人残して……」
ハンカチを出してそっと涙を拭う姿はそれなりに痛ましい。だが、騎士隊長らはもっと激しい感情に支配されていたので、それどころではなかった。
「い───いい加減にしたまえ、ポーリーン殿! カミュー様がいったいお幾つだと思っている!」
「今年、やっと二十六歳になられたばかりだぞ。十歳の娘が居てなるものか!」
「あら」
鼻を啜った少女は軽蔑した目つきで、叫んだ第二・第七隊長を一瞥した。
「おじさま方、まさか本気で仰ってらっしゃる? 十年前ならば立派に父親になれましてよ?」
「うっ……」
おじさま呼ばわりされたことも腹立たしいが、何といっても騎士らにとって聖域である青年の落とし胤を名乗る少女は、すでに生理的に受け付けられない。
ましてその口調。やたら癪に障るのは何故だろう。
「ポーリーン殿」
副長ランドがやっと椅子から腰を上げ、少女に向き合うようにソファに座った───机に向かっていた際に報告を受けてから今まで、半ば腰が抜けていたのである。
「……貴方を疑う訳ではないが……その、何か証明する手段をお持ちかな? カミュー様が母君と交わした書簡とか、託された品とか……」
背後で身悶えていた騎士らは、理性的に真偽を追及する副長の姿に拳を握った。だが───
「ありませんわ、そのようなもの」
ポーリーンはあっさり一蹴した。
「父は何一つ母に残しませんでした。わたくしという存在以外は」
少女はきらきらした目でランドを見据える。
「けれど、母はずっと父を愛していました……わたくし、幾度となく話を聞かされて参りましたのよ」
ランドはふと、少女の瞳に既視感を覚えた。柔らかな鳶色の瞳は、時折光の加減で敬愛する騎士団長の琥珀色の瞳に似通った輝きを見せるのだ。
───まさか。
彼はキリキリと迫上がる胃の腑の痛みをこらえた。
今から十年以上昔のことだ。
ロックアックスはひとりの華やいだ歌い手を迎えた。諸国を旅して回る音曲の一座、その中でも彼女は『銀鈴の女神』と称された稀有な歌姫だった。
リデア・オコーネル───艶やかな美貌と鈴の音のような歌声に魅せられた男は騎士団にも大勢いた。機知に飛んだ会話、何処までも切ない恋歌を紡ぐ唇に焦がれ、多くの男たちが跪いた。
歌姫と言えば聞こえはいいが、旅芸人はその土地で後ろ盾となってくれる存在を見つけては身を任すのが一般的な風潮であり、言うならば『歌姫』の名は高級娼婦といった意味合いが強い。
けれど、リデアはこれまで街を訪れた数限りない歌姫たちとは一線を画した。引きも切らず言い寄る男たちを笑顔で退け、その身持ちの固さが新たな信奉者を引き寄せた。
他の騎士隊長らは知らぬようだが、ランドは彼女を覚えていた。当時赤騎士団の第五隊長を勤めていた彼も、リデアの舞台を幾度か堪能したのである。もっとも、彼の関心は心を震わすばかりの澄み切った歌声だけだったが。
ランドは必死に記憶の糸を手繰り寄せていた。
あの歌姫は、だが最後は誰かと噂になってはいなかったか。鈴のように金属で出来ているとさえ称された乙女の心を、射止めたと羨望された者がいたのではなかったか。
そう、あれは確か歌姫よりもずっと年下で、とてもではないが芸人一座の後ろ盾となり得る人物ではなかった。だからこそ、それは真の純愛なのだと周囲の静かな祝福を受けてはいなかったか。
そして、その噂の相手は───
「亡くなる瞬間でさえ、母は世間体を憚ったのでしょう、父を訪ねろとは言いませんでした。でも……わたくしはどうしても顔を見たかったのですわ」
挑戦的にランドを睨み付けたポーリーンの視線。その眼差しの強さに、やはり自団長と似たものを感じる。ランドは思わず目を閉じた。
「戯れに母と情を交わし、わたくしという娘の存在も知らずに安穏と日々を過ごしている……不実な父親の顔を」
もはや少女は不快を隠しもせず、冷徹に言い放った。そこには自分という存在を叫ぶ誇りと気迫が漲っている。
『銀鈴の女神』の恋の相手は、年若い赤騎士だった。
咲き誇るような華やかな美女の隣に並んでも何ら遜色のない、知的で端正で大人びた───
赤騎士団副長ランドは白騎士団長に呼ばれている美貌の青年を思った。
マチルダ騎士団は十日後に新たな青騎士団長を迎えることになっている。今頃は式典の面倒をあれこれ押し付けられつつ、親友の騎士団長就任に心を弾ませているであろう、絶対の指導者・赤騎士団長カミュー。
ああ、何ということだろう。
彼が団長職に就いてようやく二年。
やっと二年なのだ。
ここで妙な醜聞に汚させるわけにはいかない、何としてもあの青年を守らねば───
「……ローウェル、他の人間に気付かれぬようカミュー様をこちらへ。そろそろゴルドー様のお召しも終わる刻限だろう」
胃を押さえつつ、けれど有無を言わせぬ断固とした命に一同は即座に背筋を正した。少女はそんな彼らを興味深げに眺めている。
「ランベルト、おまえは張り番の騎士に厳重なる口止めを。万一僅かでもこのことが洩れた場合、厳罰をもって処断する」
第七隊長は珍しいほど険しい副長の表情に唾を飲み込みながら頷く。
「アレン、おまえは……」
「はい、何でも仰って下さい」
この娘の足跡を調べ、身元を明かす情報を集めるか。
音曲に関心のありそうな部下の顔を思い浮かべながら、勢い込んだ第二隊長だったが。
「………………すまないが、わたしに胃薬を頼む」
言うなり、ランドは力なく背もたれに身を沈めた。
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