複雑なる忠節・8


倒れたテーブルや椅子の間に食器が散乱している。特に乱闘の中心、青騎士らの陣取っていた最奥部は戦で荒らされたかの如き様相だ。改めて惨状を見遣ったマイクロトフの表情は複雑そのものだった。
損害は青騎士団が弁済する───とは言っても、破損した品の中には店主の思い入れ深いものもあったかもしれない。沈痛な眼差しを辺りに巡らせる彼は、一切を放棄して闘争に酔い痴れた己を恥じているかのようでもあった。
しかし、そんなマイクロトフの苦悩をよそに店主は朗らかそのものだ。夜ごと暴君ぶりを披露してきた客たちから解放され、まして街の危急を救うのに一役買った自負もあるのか、今の店内に溜め息を洩らす気はないようである。
彼の怯えぶりは本物だった。メルヴィルの目にも、店を好まぬ客の根城にされた不運な男としか映らなかった。それがカミュー直々に諜報の任を与えられた人物だなどとは、だから一味には想像も及ばなかったに違いない。
店主は無頼漢らに出す酒の他に、後に踏み込んでくる赤騎士団長を持て成す用意をしていたが、感心したのは、隠し棚から取り出された酒が無頼漢らが飲んだそれより遥かに高価な品だったことだ。まったく商い人というものは、したたかで逞しい心根を持っている。
床に散る食器や破片をひどく気にしたカミューが片付けを申し出たが、店主はこれも断った。夜が明けたら、久々に従業員が揃うことになっているという。カミューとしては店に損害が及ばぬよう配慮していたらしいが、店主はそのあたりも十分に想定していたようだ。
損害や片付けになど気を払わず、精一杯の礼を堪能して欲しい。そんな男の申し出を、二人の騎士団長も最終的にはありがたく受ける運びとなったのだった。
位階者の他に唯一残った若い赤騎士が、これを聞いてほっとしているのが可笑しかった。
自団長に掃除の真似事などさせられない。無論、青騎士団の上位者二名にも同様だ。となれば、中で最も下っ端のミゲルがモップを握る羽目になる。予め手を打っておいてくれた店主を見る若者の目は、安堵と感謝でいっぱいだった。
比較的被害の少ない扉付近──メルヴィルの勤勉な仕事ぶりから、多少の血痕は飛んでいたが──のテーブルに落ち着いた騎士たちは、店主の運んでくれた酒と酒肴で先ずは互いを労った。
先程のミゲルの言を踏まえて切り出してみる。
「つまり、今回の始まりは一騎士の炯眼といったものだったのですか」
そうだね、とカミューはグラスを揺らしながら微笑んだ。
「こうまで深刻な事態に発展するとは思わなかったみたいだけれど。妙な連中にうろつかれて家族らが害されでもしたら……、そんな愚痴を零したに過ぎないといった感じだったのだろう」
そこでメルヴィルは上位階者たちと卓を囲んで硬直気味の若者に目を移す。
「……君はいつも部下の愚痴に付き合っているのかね?」
するとミゲルは質疑の意図を量りかねたように眉を寄せた。
「愚痴……というか、世間話というか……」
「世間話、ね」
少し考えてから再びカミューを見詰める。
「一騎士の世間話が何ゆえカミュー団長にまで伝わったのです?」
「終課の儀だよ」
あっさりした返答には、知らず渋面が生じてしまう。傍らのマイクロトフも同様にぴくりと肩を揺らした。
「ミゲルがその話をローウェルに報告し、ローウェルが終課の儀で懸案として持ち出した。最近はこれといって大きな議案もなかったからね、それはもう色めき立ったものさ」
平時における儀礼の退屈は赤騎士団にも避け難いものだったようだ。欠伸を殺すのに苦労する自団のそれを思い、深い同意の首肯を示すメルヴィルだ。
「それでこそ、夜の閣議といったものですな。して……、懸案として提示されたのは、やはりローウェル殿がこの地区の実情を承知なさっていたということですな?」
「……まあね」
幾分笑みを陰らせた赤騎士団長に今度はマイクロトフが身を乗り出した。
「カミュー……白騎士団・第一部隊が以前から夜間巡回に手を抜いていたというのは赤騎士団では周知なのか?」
今日の今日まで無知で過ごした自身の疎さが痛恨なのだろう。自然、強い口調になった男をカミューは宥めるように一蹴した。
「ここ数月で掴んだ情報だし、知っているのは隊長職以上の者だけさ。それ以外の騎士にまで知れ渡っているようでは、流石に問題だろう?」
「……が、この小隊長殿は例外だったようですな。だからこそ、君はローウェル殿に報告したのだろう?」
メルヴィルの眼差しに微かに竦んだ若者が、救いを求めるように上官の横顔を窺う。柔らかな頷きを返してカミューは肩を竦めた。
「与えられた責務を遂行していない部隊がある、それもマチルダの最高位部隊であるという現実は、我が謹直なる第一隊長にとって抑え難い怒りだったのさ。それこそ、部下に愚痴を吐かずにはいられないくらいに、……ね」
「ローウェル殿の愚痴相手がこの坊やという訳ですか」
カミューは思わずといった様子で苦笑を零した。
「口の固さには信頼が置けるからね、そのあたりでも見込まれたんじゃないかな。ともかく、そうした地区に屯する怪しげな連中といった構図は、十分に懸案の域だったという訳だ」
「成程。世間話とは存外馬鹿に出来ぬものですな」
しみじみと感服していると、横からマイクロトフが揶揄してきた。
「おまえも部下と談笑するよう心掛けてはどうだ? 愚痴を吐けば心も晴れるし、思いがけぬ情報が手に入るかもしれんぞ」
「わたしはローウェル殿ほど真面目な騎士ではないので、他人に愚痴を洩らすほど置かれた境遇に悲嘆を覚えません。それに、必要情報の入手には尋問という手を弄しますゆえ、御心配なく」
遣り取りを聞いていたミゲルが微妙に引き攣った顔を見せた。おそらくメルヴィルではなく、ローウェルの配下であった自身に胸を撫で下ろしているのだろう。
赤騎士団の自由でおおらかな気風が、時に大きな力となるのを認めざるを得ない。とかく立場の壁によって断絶される意見や情報が多い騎士団にあって、これは実に貴重な体質と言える。ミゲルと部下の関係、ローウェルとミゲルの関係、何れかでも欠ければ今回の事態は明るみにならなかったかもしれないのだ。
とは言っても、メルヴィルには今更やり方を変えようもないし、そうしたいとも思わない。部下との親密な遣り取りなど、人の好い団長と副長に任せておけば良い。
長い流浪の果てに信頼出来る主人を得た野犬が、見事な猟犬と生まれ変わるように───今の自身に必要なのは磨ぎ澄まされた嗅覚と牙、主人を護るための絶対の覚悟だけなのだから。
「しかし、本題が解決した訳ではない。怠慢が続く限り、街の治安は回復しないのだからな。此度の策謀は未然に防げたが、幸運が続くとも思えない」
苦悩を込めて呟いたマイクロトフだが、これもカミューが明るく退けた。
「それに関しては心配しなくてもいいと思うよ」
「何?」
「今回の件には残念ながらゴルドー様が絡んでおられたからね、秘密裏に事を運ぶしかなかった。が、解決した今は別だ。あちらも隊長が変わったところだし、丁度良い。明日にでもローウェルが同位階者の誼みで白騎士隊長殿と『世間話』をする。責務怠慢は速やかに改善されることになるだろう」
青騎士団副長ディクレイが望み、目算した穏便解決の道に踏み出すという訳だ。相変わらず手回しの良い赤騎士団長にメルヴィルはつくづく賞賛の念を覚えた。
「……それはそうと、どうしておまえたちはこの件を知ったんだい?  赤騎士団の中でさえ内密を心掛けていたのに」
心底から怪訝そうに首を傾げたカミューにマイクロトフが息を飲む。ここへ来た事情を、今、この瞬間まで忘れ果てていたような面持ちだった。
「そ、それは……」
たちまち口籠もる上官を制してメルヴィルは問い返した。
「その前にお伺いしたい。カミュー団長、此度の諜報は御身が率先して行われたのですか?」
「率先……?」
「つまり、御自身でこの店に通われたかという意味です」
ああ、と納得したようにカミューは椅子の背にもたれた。
「終課の儀で話を聞いた翌日、ちょうど時間が空いたから、昼食を兼ねて訪れてみた。が……すぐにバレて、ローウェルに怒られた」
「お、怒られた?」
目を丸くするマイクロトフに神妙な顔で頷く赤騎士団長だ。
「そう。『怪しげな者が集うという店に、昼時とは言え、一人で出向くなど不用心に過ぎる』と。周囲には警戒したつもりだし、白騎士団の管轄地に仰々しく部下を引き連れて行く訳にもいかないと反論したら、『騎士団長ともあろう立場で諜報に乗り出すべからず』とも言われた」
「ローウェル殿……随分とまた、はっきり言ったものですな」
「おまえほどではないと思うぞ、メルヴィル……」
ぼそりと零れたマイクロトフのぼやきは聞こえない振りで流す。
「……それで?」
「それでも乗り出した以上は止められないと通したら、ミゲルを付けられた」
「隊長が折れたんですよ。団長が店主と懇意になった御蔭で協力を勝ち得た訳だし……どのみち団長に勝てる筈もありませんから」
そのあたりでも愚痴を零されたのか、ミゲルが笑いを噛み殺しながら補足した。
「もともと彼の部下が発端だったしね。その後の情報収集の殆どはミゲルの小隊騎士らが請け負ってくれた」
「すると……カミュー団長は実際には足を運ばれておられない、と?」
すると彼はひっそりと笑って通りに面した窓を見遣る。
「毎日という訳ではないが、足を運んでいない訳でもない。大体は数人で近隣待機、みたいなものだったかな。重要な報があったときには直接店主殿に話を伺ってみたいじゃないか」
「……ええ、確かに」
「今夜は小隊を揃えて『決行』刻限の少し前から張っていたのだけれど、いつまで経っても店から出てくる気配がない。それで已む無く様子を見に来たという訳さ」
「成程、向かい側で待機しておられたのですか」
マイクロトフがふと眉を寄せて凝視してくる。
「何が『成程』なのだ? 向かいに何がある?」
「宿屋です」
「宿屋?」
「然様。我々はロックアックスに着いたばかりだと騙りました。なのに荷物の一つもなく、丸腰のまま……普通ならば訝しまれて当然のところでしょう」
「…………」
「店主殿やならず者連中を欺けたのは、向かいに宿があったからです。荷を置いて空腹を満たしにきた旅人と勝手に見做してくれたという訳です。……まるで周囲を御覧にならなかったのか?」
「う、……すまない。それにしても抜かりがないな、メルヴィル」

 

配下の青騎士らを締め上げて店の屋号と大まかな位置を知った後、一番に地図を広げた。
ロックアックスのすべてを網羅していると言っても良い詳細地図を選んだのは、兎にも角にもマイクロトフの安全を期したためだ。万一にも白騎士を見掛けた場合、無頼の者に襲撃を受けた場合。それらに備えて、身を潜める場や抜道を確保しておかねばならなかった。
その結果、面白いことに気付いた。目標の店の真向かいに宿屋がある。赤騎士団長が見染めた『女』とその宿にしけこんでいたら───ほんの一瞬、そんな下世話な想像の働く発見だった。
が、誰もが見惚れる艶やかな青年騎士団長と一つ部屋に籠る僥倖を得たのは複数名の赤騎士だったとは。まったく愉快な憶測は尽く裏切られる運命にあるらしい。

 

「……何の話だったかな。ああ……そうだ。だからわたしは一、二度、あの連中がいないときに顔を出した程度で、店まで入ったという意味ならミゲルの方がずっと勤勉だった」
それを聞いて薄笑いが抑えられなくなった。
「君……、ミゲル君。美しい酌婦嬢にお会いしたかね?」
「は……?」
不可解を隠さない赤騎士たち、そして蒼白になるマイクロトフ。
「そんな人、いましたっけ?」
「わたしに聞くな、知らないよ」
若者の真面目な問い掛けに、これまた真面目に応じる赤騎士団長。無理もなかろう、たとえ顔を合わせていたとしても『五十年前の』と但し書きがあっては容易には思い至るまい。
───波乱の一夜に最後の波乱を。
メルヴィルは心中で快哉を叫びながら続けた。
「先程の質疑にお答え申し上げましょう。面白い話を耳に挟みましてね。つまり、カミュー団長があの店の酌婦嬢に入れ込まれて──ああ、これは情報通りの一説ですから気分を害されたら御容赦を──日々通い詰めておられる、と」
「わたしが?」
「はい。それが店を訪れてみた理由です。噂を聞いたのは本日ですが、まったく我が団長は行動が速くておいでだ」

 

 

 

この瞬間のマイクロトフを、生涯忘れないだろうとメルヴィルは思った。
あまたの敵を前にしても欠片すら怯まぬ勇敢な男。己の信念のためなら進んで窮地に飛び込む揺るぎなき決意。どれほど諫言を向けたところで曲がらぬ気性、常に真っ直ぐ前を見詰める強靱な瞳。
敬愛してやまぬ騎士団長は、けれどあらゆる威風を失って恋する男の顔を露見させていた。
「わたしが……女性のもとに通っている、と……?」
そしてまた、カミューも然り。
流石に彼は伴侶ほどあからさまではなかった。穏やかなる頬、寛いだ肢体にも目に見える変化はない。ただ、澄んだ琥珀に冷徹と名付く光が過り、それは容赦なくマイクロトフに当てられていた。
「───噂を確かめるために足を運んだ、と?」
甘やかな、けれど鋭い刃を潜めた断罪の声音。マイクロトフは何事か言おうと口を開き掛けるが、巧く言葉にならないようだ。
得も言われぬ緊張を崩したのは若き赤騎士の呻きだった。
「す……すみません! その噂って、おれ……」
冷たい気勢を殺がれたようにカミューが小さくなっている騎士を一瞥する。
「何だい?」
「噂を流したのは君なのかね?」
メルヴィルの一撃に、彼は哀れなほど竦み上がった。が、気を取り直したように首を振る。
「そういう訳では……ただ、おれが原因かな、……と」
「どういうことだい?」
困惑気味のカミューをちらちらと窺いながら、若者は空気が重くてたまらないといった様相で口を開く。
「この件に関しては極力事を広めぬよう、一小隊のみで任に当たるようにと隊長に命じられたんですが……」
「君の小隊ということだな」
はあ、と更に歯切れ悪く続ける。
「しかしながら……、団長の直接指揮下で数週にも渡っておれたちだけが隠密に動き続けるには難が……赤騎士団ではとにかく情報が速いので……」
確かにそうだ、とメルヴィルは考えた。
赤騎士団に籍を置くものならば、例外なく誰もがこの青年の傍近く働くのを無上の喜びとするだろう。幸運を独占している者の存在など察知すれば、他の赤騎士は穏やかではあるまい。
ただでさえ諜報に秀でた赤騎士団だ。本格的に調査に乗り出せば藪を突きかねない。行動を白騎士団員に気取られる恐れもあった。
「それで、どうしたのかね?」
「中には店の名まで嗅ぎ付けた奴まで出るし、これ以上騒がれる前に先手を打った方がいいのではないかと他の小隊長たちと相談しました。随従がうちの小隊に限定された件については団長のたっての希望ということで納得させるとして、つまり……団長がこの店に度々赴く理由を提示して、詮索を妨げようと……」
もはや声は消え入るばかりとなっている。
「ですが、その『理由』というのが難しかったんです。黙って見守るだけの説得性があって、それでいて触れてはならないといった暗黙の了解がはたらく案など、そうは出なくて」
「……で?」
「皆で悩んだ末、おれが……」
「君が?」
「おれが……───」
「……『レディに入れ込んで通っていることにしたらどうか』と意見を出した訳だね」
カミューの笑顔は座に凍りつくような冷気をもたらした。刹那、先程のマイクロトフにも負けず劣らず青ざめたミゲルが上官に向き直る。
「本気で言った訳じゃありません! あんまり長い議論だったから、いい加減うんざりして、つい冗談を……そうしたら皆が賛成してしまって、それで……」
「……そういうときはね、ミゲル。部隊全員に箝口を命じれば良いんだよ。それで足りなければ、ローウェルを通じてすべての赤騎士団員に詮索を禁じるという手もある」
「あ、そうか。その手があったんだ……」
納得顔で応じている部下を横目で睨み、カミューは嘆息した。
「第一、多少焦点がずれたところで他団の騎士の耳に入るほど噂になっていたのでは、『秘密裏』という根本を押さえていないじゃないか」
「そ、そうですね……すみません」
平謝りする若者を観察していたメルヴィルは、小器用な騎士揃いの赤騎士団にも抜けた男がいるな、といった感想に辿り着いていた。同時に、ミゲルが赤騎士団内で一目置かれる人物であるといった事実にも。
他の小隊長らが彼の案──当人曰く、冗談──を取り入れた、それは無論、自団長の女性に対する礼節溢れた言動にも要因はあるだろう。が、それ以上にミゲルの意見を無視出来ないといった空気が生じていたに違いない。
店主が持て成しを言い出したときもそうだ。与えられた任との板挟みで困り果てていた彼に、配下の騎士らが救いの手を差し伸べているようにも見えた。
彼はある種の力を持っている。他者を押さえ付ける、あるいは引き付けるといった、位階者には欠かせぬ圧倒的な力を。もっとも、今の若者は騎士団長の機嫌を損ねたのではないかと狼狽えるばかりで、輝きの燃えカスすら見当たらないが。
ふと、メルヴィルは瞬いた。
期待に応えたい、失望させたくない、微笑みを向けられたい。ミゲルの心は実に分かり易い。それだけなら、他の赤騎士と大差なかった。
だが、彼の瞳は非常に似ているのだ。傍らで硬直したまま事態の成り行きに息を潜めている青騎士団長に。
無意識のままに周囲を跪かせ、濁りなき親愛を示されて、心のままに突き進みながら唯一の弱みを抱えている。マイクロトフとミゲルはその一点にて同類だった。致命的な、けれど裏を返せば大いなる力ともなり得る感情、恋という甘い枷に囚われた者として。
「……不運な奴め」
思わず零れた独言に、ミゲルは幼げに目を見張る。
「何です?」
いや、と小さく首を振ってひっそり笑んだ。
「君も上を目指す気なら、もう少し器用に立ち回るべきだな、坊や」
「どういう意味です?」
むっとした表情が、いっそう揶揄ったときの上官を思わせた。
赤騎士団長カミュー、まったく罪な人物だ。
青騎士団長のみならず、部下の心まで奪い尽くしているとは。はたまた同性に斯くも真剣な恋情を抱かれた身を、寧ろ同情すべきなのだろうか。
そんな彼の思案をよそにカミューは憮然と言葉を挟んだ。
「人には器量というものがある。わたしはミゲルに器用さなど求めていない。その分、周りが巧く立ち回るから帳尻は合う」
庇ったつもりか、それとも真実本心なのか。これにはメルヴィルも笑みを零した。
「団長、やっぱり怒ってらっしゃるんですね?」
「……怒っていない」
哀れを誘う部下の顔からマイクロトフに視線を戻したカミューは厳しく言い放つ。
「そんな『理由』が採用されたのは身の不徳と諦めもするさ。だが、マイクロトフ。おまえまでもが噂を真に受けたのは面白くないな」
「違う、カミュー。おれは……」
「何が違う? だから、わざわざ足を運んで来たのだろう?」
「そうではない。おれは、ただ……」
今宵の舞台の絶頂、正にメルヴィルが待ち望んだ愁嘆場の開始───の筈だった。
なのに、今一つ興が乗らない。マイクロトフが一方的にやり込められているからだ。
彼の知る上官は、口下手といった世評に似ず、それなりに雄弁な男である。けれど今、最愛なる人物の糾弾を受けて頭に血が昇ってしまったらしく、ここへ来る道中で散々口にした歯の浮く台詞の一つも思い出せない様子だ。
「……団長。『おれは』ばかりでは何も伝わりませんぞ」
堪らず小声で囁くが、耳に届いた気配もない。逆に、カミューの方が聞き咎めてメルヴィルを見据えてきた。
───ここまでか。
呆気ない幕切れであるし、口籠るばかりの上官に苛立ちはするが、切羽詰った姿をこれ以上曝させるのは忍びない。非常に面白くもあるが、憐憫が上回る。
皮肉めいた、だが彼としては温かな微笑みを浮かべながら切り出した。
「どうやら言葉に詰まっておいでなので、代わりに弁解させていただきましょう。カミュー団長、我が団長は噂はまったく信じておいでではなかった。信じている、隠し事をするような仲ではない、との一点張りで……聞いているこちらが赤面するような、実に眩しい御信頼ぶりでした」
束の間、カミューの瞳は微かに揺れた。慎重な、探るような光を宿してメルヴィルを凝視してくる。この琥珀に魂を掴まれたのだろうな、などと傍らの自団長を窺っていると、カミューは静かに呟いた。
「ならば、何故……?」
「噂は信じなかった。けれど、噂が生じた理由を案じられたのです。貴方が何か問題に巻き込まれたのではないか、と」
カミューを包んでいた冷ややかな覇気が和らいでいくのをメルヴィルは感じた。常日頃、頑強なる沈着の鎧を纏った青年も、マイクロトフが絡むと多少装備が緩くなるらしい。これは一つの発見だ。尤も、こちらは揶揄の対象には向かない人物なのが残念だが。
「……馬鹿だね」
やがてカミューは目線を逸らした。
「だったら尚更だよ。縦しんば女性絡みの問題なら、おまえの助力など───」
「それも御考慮のうちでした」
メルヴィルは重ねて告げた。
「助力を要されぬことはマイクロトフ団長も重々承知しておいでです。詰られ、殴られるのも覚悟の上と仰せなので、わたしは団長が殴られそうになった際の盾となる旨、申し出ました。御気が納まらなくば、存分に殴り飛ばしていただきたい」
赤騎士ミゲルが足下に視線を落とした。床には無頼漢らを殴打したとき飛び散った血が点々としている。二十余名もの男を薙ぎ倒した青騎士二人が並んでカミューに頬を向けている姿でも想像したのか、彼は神妙を保とうと懸命に努力しているようだった。
「───生憎だけれどね、メルヴィル」
カミューは終に笑い出し、二人を交互に眺めた。酒を満たしたグラスを掲げて目を細める。
「おまえが盾になろうとしても、マイクロトフは押し退けると思うよ。わたしの知っている青騎士団長は部下を矢除けに使う男ではない。そうだろう、マイクロトフ?」
「あ、ああ。無論だ」
「でもまあ……、上官を護ろうという彼の心意気には感謝すると良い」
「しているとも。此度の件でもそうだ。おれ一人なら、こうも巧く事は運べなかった。メルヴィルには心から感謝している」
伴侶の怒りが霧散したのを感じたらしく、マイクロトフはほっとした面持ちだ。
『聞いていて恥ずかしくなる』述懐が自らに向いたのには少々困った。目前の赤騎士などはカミューに褒められれば天にも昇る心地になるのだろうが、メルヴィルはたいそう天の邪鬼なので、素直に喜びには浸れない。
「団長お一人で事を運んでいただき、どのような結果になるかを拝見したかった気も致しますが……それでは赤騎士団の苦労を水泡に帰すところでしたな」
「まったく、その通りだ」
ついつい洩れる皮肉を、だがマイクロトフは明るく往なす。否、往なしているつもりがないあたりが曲者なのだ。
この青騎士団長は裏がない。人間ならば、程度の差こそあれ、誰もが持っている筈の暗部が窺えない。
隠された面がない、それは人間的な厚みに欠けるとさえ思われるのに、寧ろ逆で、底が見えない。彼の傍に居て感じるのは、ただ何処までも広がる豊かな温もりばかりなのである。
「団長は実に面白い御方ですな」
低く呟くと、マイクロトフはきょとんと瞬いた。
「面白い……?」
ええ、と笑って続ける。
「わたしにはあれほどカミュー団長を信じていると熱弁を揮われながら、御本人の前では固まっておいでだ。何でも伝え合う仲でおられるのではなかったのですか?」
「ああ、そのつもりだったのだが……」
照れ臭そうにマイクロトフは頭を掻いた。
「怖くて、な」
「は?」
「予想以上に怖い顔をされたので、言葉が出なかった。代弁させてしまってすまない」
今度はカミューが呆然とした。
「そんなに怖い顔をしていたかい? そんなつもりはなかったが」
振られたミゲルが慌てて首を振る。
「お、おれに聞かないでください」
「……わたしにはそうはお見受け出来なかったが」
小さな嘘を孕みながらメルヴィルは言った。
「団長には周囲の知り得ぬカミュー団長の御心情が感じられるのでしょう。ならば察していただける筈です。此度の件を、噂というかたちで知った団長の御心を」
「それは……」
カミュー同様、痛いところを突かれたように怯んだのはミゲルの方だった。
「すみません、やっぱりおれの所為ですね」
悄然とした陳謝は意図したものではなかったろうが、結果的にカミューを救うかたちとなったようだ。ほっと力を抜いて、彼は大仰な溜め息を吐いてみせた。
「そうだね。今、少しだけ腹が立った。おまえには蔓延した噂を消す任を与えるよ、ミゲル」
それから毅然と背を正す。
「これは飽く迄も赤騎士団の任の一環、伝える必要はないと判断した。事態の背景をおまえが快く思わないのは明らかだったし、わたしとしては全てを内密に片付けたい意向があったからだ」
「…………」
「今後も同様だ。わたしには抱えた責務を他団長たるおまえに逐一報告する義務はないし、おまえもそうする必要はない。我々は常に己の責務を果たすためだけに尽力すれば良い。騎士団長とはそうしたものだ」
冷然と言い切った次には柔らかな調子が続いた。
「……とは言っても、疑問を質すくらいは許すよ。答えるかどうかは別として、だけれど。ついでに、抱え切れなくなったときには力を貸して貰うし、おまえにもそうする心積もりがあると覚えておいてくれ。今回、噂を耳にしたおまえが最初にすべきだったのは、わたしに直接真相を聞きに来ることだったんだ」
「カミュー……」
「青騎士団長が酒場で乱闘を演じたなど……部下たちに念入りに箝口を敷いておかねばならないじゃないか」
「店主殿にも、ですな」
一同の邪魔をせぬよう、勘定台の影にひっそりと身を潜めている男を見遣りながら頷くメルヴィルだ。
あの様子では方々に触れ回りかねない。青騎士団長は凄かった、大勢のならず者相手に一歩も引かず、見事に叩きのめした。武勇には違いないが、場所が悪い。ここが青騎士団の管轄地なら、いっそ吹聴して回って欲しいところだが。
「……まったく、無茶な男だよ。怪我はないんだろうね、二人とも」
最後の最後にカミューは伴侶への思い遣り──聡明にも、一部伴侶の部下への配慮を含む──を滲ませた。胸を衝かれたように言葉を失った青騎士団長の代わりにミゲルが大笑いで応じた。
「怪我なら、あの連中の方が大変そうでしたよ。あれをお二人で、というのは本当に凄い」
「わたしは然して働いていない。殆どは団長の戦果だ」
「そうなんですか……マイクロトフ団長は体術にも優れておられるんですね」
「体術ではない。喧嘩だ、喧嘩」
若者の畏敬に満ちた誤解を軽く正してメルヴィルは唸った。
「色々と御立派なことは仰せだったが、積もった欝憤も多分に加味されているように見受けられた。という訳で……ミゲル君、我々はこの辺で御暇しよう」
「え?」
立ち上がり、ぽかんとした若者の横に回り込んで急き立てる。
「団長の夜食を用意させているのを忘れていた。無駄にするのも何だから、一緒に片付けてくれたまえ」
「え……え?」
目を丸くするばかりのミゲルの腕を掴んで引き上げ、騎士団長らに礼を取った。
「では、カミュー団長。後は団長の怪我の有無を確かめられるなり、無茶な行動に対する罰をお与えになるなり、お望みのままに。我々は失礼申し上げます」
呆気に取られる二人を残して、ミゲルを捕獲したまま店の扉に手を掛ける。堪え切れず、苦笑が迫り上がった。
ロックアックス城では副長ディクレイが上官の戻りを待っているだろう。だが、今夜は外泊に至るかもしれない。何しろ目の前には宿屋が鎮座しているのだ。微妙に生じた誤解を埋めるには絶妙なる舞台背景ではないか。
ここは一つ、休暇返上で書類整理に協力して、副長のぼやきを軽減しておくのが部下のつとめかもしれない。
「……まあ、おれの役どころはそんなあたりだな」
独りごちた背後で扉が閉まる頃にはミゲルが自失から立ち直っていた。
「何なんです、いきなり……」
こちらも必死である。二名ばかりのオマケは付いていても、恋しい青年と卓を囲む幸運に酔っていたところを唐突に連れ出されたのだから、噛みついてくるのも致し方ない。
「離してください! おれは団長の傍から───」
「……離れるな、そうローウェル殿が命じたのは危険な地区にカミュー団長を独りで送り込む訳にいかないからだろう?  今は事情が違う。護衛役として、うちの団長を上回る騎士はいない」
「そっ、それはそうですが……」

───可哀想に。
マイクロトフという人間を選んだカミュー、そんな彼に惚れた身の不運には心から同情する。
ついでに、マイクロトフに似通った質を感じさせる点にも。
これはもう格好の餌、構ってくれと言わんばかりではないか。

「邪魔だ、邪魔。晴れて誤解も解け、これより互いへの理解をいっそう深めるのだから、少しは気を利かせたまえ」
「おれは、そんな……邪魔なんて……」
「団長同士の親密を願うのは部下のつとめだ」
「う……」
「諦めろ。団長の夜食は大量にあるから、食いっぱぐれを憂う必要はない」
「別に、食い足りない訳では……」
もぐもぐと呻いているのが微笑ましい。
これに比べれば、まだマイクロトフの方がこなれている。恋愛方面で上官をつつくのも気の毒になってきたところだし、ここらで矛先を分けてみるのも悪くない。
「ほら、さっさと歩け。でないとあの連中みたいに引き摺って連行するぞ」
赤騎士は憮然としつつ、やがて渋々と従った。素直さでは十代の頃のマイクロトフよりも若干劣るようだが、やはり不思議と好ましく感じられた。

 

 

 

深夜の街路は相変わらず閑散としており、すべてが死に絶えたような冷たさが広がっている。
だが、いずれこのあたりも生気を取り戻すだろう。
何事にも抜け目のない、鋭敏な才覚を持つ赤騎士団長。窮地をも恐れず、領民を護るために己の誇りを貫く青騎士団長。彼らが在る限り、ロックアックスは安泰だ。
赤騎士たちに連行された無頼漢共は今頃どのあたりまで進んだろうか。カミューはああ言っていたが、そのうち戻ってくると良いとメルヴィルは思う。
今度は企みなど持たず、騎士に庇護された街の素晴らしさを心から堪能するために。
あれだけ脅されれば可能性は低いが、もしも不心得でも起こしたら、今度こそ本気で騎士の真髄とやらを披露して差し上げられる。
───ゴロツキの墓を作る手間が少々面倒ではあるが。

 

青騎士隊長メルヴィルは非常に複雑な男である。
右を左と言わずにはいられないし、一つ言われれば十は返さねば気が済まない質でもある。
それでも唯一確かなのは、彼がマイクロトフという上官を心から敬愛しているということだ。
たとえ他の騎士たちに比べて示し方が歪んでいても、それは紛れもない、絶対的な忠節なのである。

 

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この話、時期はオフ話『質実たる光』の少し後になります。
ちょっとだけ補足しとくかな……

2話で出てきた白騎士団の副長交代が『質実』の締め。
もともとイヤミ君は交代前の白副長が青騎士団に送り込んだ『犬』、
だから白騎士団の動向には妙に詳しいのです。
飼い主を違えたイヤミ君は、今は楽しい生活を満喫中。

さて、修羅場の手前で折れた赤。
こちらの後始末話も書いてみたり。
お邪魔虫が消えた後に2人がすることったら、やっぱり……

 

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