穏やかな夕暮れ。
少し前まで野戦場さながらだった闘技場も、漸く落ち着きを取り戻そうとしていた。
赤騎士団・第七隊長ランベルトが地下倉庫から発掘した古い吊橋用の大綱は、確かに頑丈な品だった。しかし、この一戦に用いられた赤騎士団用のそれは連日に及んだ牛相手の訓練に耐えず、対戦を重ねるごとに徐々に切れ目を生じていたのである。
カミューが施した中央の目印リボンが、不具合を絶妙に隠してしまっていたのも悲劇の要因のひとつだった。
最後の戦いが前の二戦通り、時間で切るものであったなら、事態は変わっていたかもしれない。膠着した最終戦、最後まで持ち堪えられなかった綱を非難しても後の祭りである。
此度の戦いは正式な合同演習のかたちを取っていないため、おおっぴらに騒ぐことも出来ない。幸い命にかかわる重傷者もいないので、医師を動員せず、見物騎士らが救助活動を展開したのだった。
敵味方入り乱れて治療を受けた騎士らは疲れ切った面持ちで、けれど礼節を取り戻していた。
声を掛けて回る赤騎士団長に縋るような部下の視線が注ぐ。
「も、申し訳ありませぬ、カミュー様……よもや綱が切れるとは……」
「分かっている。鍛練が過ぎただけだ、おまえたちは良く戦ったよ」
「勿体無いお言葉です〜〜」
片や、木製の薬箱に無造作に腰を下ろして面白くなさそうに丸めた包帯を掌に弾ませている青騎士隊長───そして彼を目指して這い寄る青騎士たち。
「メルヴィル隊長、我らの……我らの処遇は如何相成るのです?」
「そうだな……負けてはいないが、勝ってもいない。闘技場をウサギ飛びで二十五周といったところか」
「そ、そんな無体な」
「せめて、せめてマイクロトフ様だけでも……。誇り高き騎士団長がウサギ飛びに勤しむ御姿など、おいたわしくてなりませぬ」
懇願する男らを見回したメルヴィルは、初めて口元を緩めた。
「そこまで鬼ではない。突発事故に見舞われたとは言え、持てる力は尽くしたのだ。選抜騎士には明日一日の休養を与える手筈になっている。ゆっくり休め」
優しい言葉を掛けられれば掛けられたで不安に陥る青騎士たちだ。即座に囁き合う。
「……おかしい。これは更なる地獄への序章であろうか」
「鬼の方が余程分かり易い」
「やはり二十五周、自発的に消化しておいた方が良いのでは……」
その横では、両騎士団員が互いの健闘を讃え合っている。
「改めて、感服した。力勝負でここまで拮抗するとは予期していなかったぞ。赤騎士御一同の尽力に敬服する」
「やはり青騎士団の力は素晴らしかった。マイクロトフ様をもり立てて一丸となる様、まさに頭が下がるというものだ」
「カミュー様に寄せる赤騎士団員の忠節には、実に鬼気迫るものがあった。単に騎士団長への敬慕とは思えぬまでの執念が窺えたぞ」
「こちらこそ、乳牛などと比較して申し訳ない。青騎士団の馬力はゴールドボーの大群。その重みは、にちりんまおうのようだった」
遺恨の片鱗も窺えない、爽やかで親愛溢れる賛辞を与え合う両騎士団員。手に手を取って、つらく厳しかった訓練の日々を思い返す身に、もはや敵味方の意識などあろう筈がなかった。
座の隅で、地に横たえられて頭部を冷やしているのは若き赤騎士隊長ミゲルである。何事か口を開こうとしている様に、傍らに片膝を折っていた第一隊長ローウェルが眉を寄せた。
「喋るな、ミゲル。おまえが一番重症かもしれぬ。頭を打ったのだ、後で医師に診てもらった方が良い」
最後尾にて味方の雪崩攻撃を受けた若者は、受け身を取る間もなく頭から地面に激突した。軽い脳震盪を起こしたものの、生来頑丈な質が幸いしたのか、案ずる仲間の前ですぐに目を覚ました。
ただ、依然朦朧としているのは事実だ。様子が気掛かりで側についていたローウェルだが、呻く口元に耳を寄せた途端、ぐったりと肩を落とした。
「ローウェル隊長、忠誠の儀は……勝てなかった以上、やはり忠誠の儀は無効ですか?」
「たわけ者、欲望より身体を優先しろ。第一、おまえは既に騎士隊長就任時、儀式に臨んでいるではないか」
「一度やそこらじゃ足りません、そんな機会でもなければ、おれは……」
「───黙って寝ていろ!」
さて、とローウェルが身を起こしたとき。
座り込んだまま赤騎士団長の労いを受けている第二隊長アレンの許へ向かおうとしているメルヴィルが見えた。
気付いたのか、さっと周囲に緊張が走る。奇妙に静まり返った中、アレンもカミューに命じられた陳謝を思い出して、よろめきながら立ち上がる。
時間差、と必死に頃合を計っていたアレンだが、意外にもすんなりと頭を下げた青騎士隊長に意表を衝かれた。
「先日、赤騎士団を挑発するような言動を為したことをお詫び申し上げる。このような結果に終わったが、良き一戦でした。赤騎士団の尽力と団結に敬意を贈りたい」
ぽかんとしたアレンは、そのまま敬愛する騎士団長を横目で窺った。艶やかな笑顔の促しを受けて、彼もまた深々と頭を垂れる。
「こ、こちらこそ。自制を失したことをお詫びする。青騎士団員方々の御力、改めて痛感致しましたぞ。実にお見事でした」
互いの力量を認め合う、温かで誠実な空気が満ち満ちていく。座のあちらこちらで肩を抱き合う両騎士団員は、これまでよりもいっそう強固に結ばれた親愛に酔い痴れていた。
その光景を見遣ったカミューが、ゆったりとメルヴィルに歩み寄って微笑む。
「引き分けだね」
「然様ですな。昨年末の合同演習の雪辱は、次の機会に果たさせていただきましょう」
「楽しみにしているよ」
カミューは闘技場の入り口あたりに現れた十数名の赤騎士を肩越しに見ながら続けた。
「どうだろう? 慰労の食事を用意しておいたんだ。所属を問わず、ここで一緒に早めの夕餉といかないか?」
途端に顔を輝かせた一同は、続く青騎士隊長の言葉に更に呆然とする。
「奇遇ですな。わたしも酒を用意させておりました。無論、赤騎士団員の分もです」
感動しつつ、突き合い、やや小声で囁く赤騎士だ。
「よもや、毒入りではないだろうな……」
それを聞きつけた青騎士が、幾分不満気に反論する。
「今のは些か聞き捨てならぬぞ」
「あ、いや……すまぬ、ほんの冗談だ」
「盛るなら、毒より下剤だ。メルヴィル隊長はそういう御人だ」
「………………」
食事の大皿が次々に置かれていくうち、同様に青騎士が酒樽を持ってやって来た。酒を満たして回されるグラスに子供のように顔を綻ばせる騎士らを見守り、カミューは柔らかく微笑んだ。
「粋な配慮も心得ているね、飴と鞭か」
「鞭を与え続けましたからな。最後くらいは飴も良かろうかと思いまして」
笑って返した男が、ふと眉を寄せる。
「ところで……、あれはいったい如何したら宜しいと思われますか?」
背後を指した親指の先、腹這いに伸びた大柄の騎士。
荘厳な騎士服は痛ましくヨレていて、おそらく上から見れば潰れた蛙のような青騎士団長───
「そうだね……どうしたものかな」
ふうと嘆息したカミューが緩やかに近づいて、膝を折って覗き込む。
「大丈夫かい、マイクロトフ?」
「……あまり大丈夫ではない」
「鍛えているから負傷などしないのではなかったか?」
「………………」
顔を歪める騎士団長に、周囲に付き随っていた数人の青騎士たちが目を潤ませた。
綱が断ち切れた刹那、咄嗟にマイクロトフは背後の部下たちを思った。そのまま倒れれば自身の体重に押し潰される彼らが痛手を負うのは必至なので、何とか護らんと試みたのである。
受け身を取り掛けたものの、何しろ地面との距離が近かった。中途半端に身を捩ったまま転がった彼は、思い切り腰を捻ってしまったのだ。
起き上がってからも、彼は部下たちの治療を優先させた。外傷は薬品で処置されていたが、捻挫や打撲には回復魔法の札が使われていて、青騎士団長が腰を痛めていると周囲に伝わったのは札が残らず使い果たされてからだったのである。
不運なことに、両騎士団は現在手持ちの札が少なく、闘技場に運び込まれていた品がすべてだった。よって、騎士が街に札を求めに行く間、彼は地面に這って待つ羽目に陥った。
結果的には騎士団長に潰されて呼吸困難に喘いだ騎士らだが、自らの腰も顧みず庇おうと尽力してくれた男への感謝は深い。だから彼を取り囲み、『団長、しっかり』だの『今暫く御辛抱を』などと慰めの声援を贈り続けていたのである。
物悲しい事情を切々と説かれたカミューは再び小さく嘆息した。
「分かった、分かった。部下を護ろうとする心意気は立派だったよ。痛むのはどのあたりだい? 捻ったのなら、揉むのは……まずい、だろうな」
「う、うむ。だが……」
マイクロトフは僅かに顔を傾けて、愛しい伴侶を眺め遣る。
「……おまえが擦ってくれたら、痛みも癒えるような気がする」
「しょうのない奴だな。それじゃ……つらいようなら止めるから、言ってくれ」
「優しく頼むぞ、カミュー」
微妙に違和感のある遣り取りを交わした後、カミューはマイクロトフの腰を擦り始めた。
苦笑混じりに見詰めていたメルヴィルの横にローウェルが並ぶ。
「札の調達に出た部下が戻ってきた。支払いは赤騎士団で持っておいたぞ、マイクロトフ様の闘志への敬意だ」
「それはどうも」
そのまま這いつくばる青騎士団長に手当てを施そうと歩き出す男の手から、すいと札が抜き取られた。紙片を摘んで肩を竦める青騎士隊長にローウェルは怪訝を浮かべる。
「何の真似だ?」
「部下として、自団長の至福のときを邪魔させる訳にはいきませんな」
見遣る先、端正な赤騎士団長に優しく腰を擦られて、情けない姿ながら幸福そうに目を閉じている青騎士団長。
ううむ、と唸ったローウェルにメルヴィルはにっこりした。
「何もそう急いで回復して差し上げることもないでしょう。自ら率先して馬鹿馬鹿しい綱引き闘争に身を投じた反省を促すため、また、戦い終えた平安を堪能していただくためにも暫く放っておけば宜しい」
同意しても良いものかどうか悩む男に、潜められた声が続く。
「ところで、一つお聞きしたいのだが。確かに面白い策ではあったが……何故、餌に忠誠の儀を選ばれたのです?」
かなり長いこと躊躇してから、赤騎士団・第一隊長は憮然と答えた。
「……わたしだったら奮い立つと考えたからだ」
メルヴィルは吹き出して、再び仲睦まじい騎士団長たちを見詰めた。
「何処までも罪作りな赤騎士団長殿だ。あの御方と対等に付き合える我が騎士団長に心から感服致しますな」
「どうだい、マイクロトフ?」
「いい……とても楽になる気がするぞ、カミュー」
「まったく、子供みたいに我を忘れるからだよ。大事に至ったらどうするつもりだったんだ」
「す、すまん……面目ない」
「まあ……確かに綱引きとは心踊る闘技だという点には賛成するけれどね。食事の用意もあるが、何か口に入れるかい? 食べるなら取ってくるが」
「今は取り敢えず、もう少しこうしていてくれ、カミュー」
すっかり童心に戻りつつ、同時に恋する男の心も兼ね備えて伴侶に甘える青騎士団長。
甲斐甲斐しく世話を焼く赤騎士団長は、さながら勝負を見学していた父兄──あるいは母──といったところか。
こうして、誇りを懸けた闘争に沸いた闘技場は両騎士団員が互いに寄せる親愛によって色を変え、穏やかな風に吹かれながら壮絶なる一日を終えたのだった。
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