ハイランド王国との戦いが小康状態に入り、束の間の平穏を満喫していたジョウストン新・都市同盟軍。
居城のホールの静寂を揺るがせたのは、青騎士団長の放った大音響だった。
「カミュー! しっかりしてくれ、カミュー!」
何事かと集まり始める住民の中から、ひょいと男が顔を覗かせる。軍内きっての猛者、傭兵ビクトールである。面倒見が良い上に野次馬根性も人一倍の彼は、早速相棒フリックを引き摺って声の方へと突き進んでいった。
早くも輪になり始めた人々を掻き分けると、今朝方グリンヒル地帯へ出掛けた盟主ウィン、そして元マチルダの二騎士団長が現れた。そこで傭兵らは先程の絶叫の意味を悟る。
盟主と青騎士団長に両側から支えられるようにして立っている赤騎士団長は、己の手で目許を覆っていた。危うげな歩みからも、これは確かに大声を張り上げるのもやむなき次第と、傭兵たちは即座に距離を詰めた。
「どうしたよ、怪我でもしたのか?」
「ビクトールさん……」
少年は心細げに男を見上げ、それから傍らの青年を一瞥する。
「カミューさんが目を……」
「大丈夫です、騒ぐほどのことではありません」
気遣わしげな盟主の声音を受けて、目許を押さえたままカミューが顔を上げた。痛みを堪えているのか、微かに震える唇が気丈な言葉とあいまって哀れを誘う。たちまち顔を歪めた男たちは口々に言い募った。
「足下に気をつけろよ、医務室はすぐだからな」
「おいマイクロトフ。この際、担いで連れていったらどうだ」
「し、しかし……」
「人目なんて気にしてる場合か、一刻も早くホウアンに見せねえと……目だぞ、目!」
親友の矜持でも気にしているのか、なおも躊躇する男に苛立ったようにビクトールは赤騎士団長を引き取り、幅広い肩に担ぎ上げた。
「ビ、ビクトール殿」
狼狽えた声が弱く抗ったが、屈強の傭兵はものともせずにズンズンと歩き出す。暫し気を抜かれたように見守っていた男たちも、すぐに我に返って後を追い始めた。
ビクトールの脇に追いつき、抱えられた青年を見詰めるマイクロトフの瞳には筆舌に尽くし難い焦燥が浮かんでいた。
この日、盟主ウィンはグリンヒル地帯の平原を探索していた。
『宿星』と呼ばれる星の名の許に集う新同盟軍の仲間には、武人ばかりか商人・職人、雑多な面々が揃っている。中には獣や魔物までいて、そのうちの一星がムクムクというむささびだ。
魔物使い・バドの通訳によると、ムクムクには仲間がいて、少人数でグリンヒル付近を歩いていると近寄ってくるという。どのみち戦線は停滞しているし、仲間ならば一人──あるいは一匹──でも多い方が良かろうと、ウィンはむささび収集作戦に臨んだのだ。
これに同行したのがマチルダの騎士団長二名であった。人選について少年は多くを語らなかったが、たまたま目に付いたから、というのが本当のところらしい。
良く晴れた日であった。
見渡す限り続くのどかな草の海を、むささびの飛来を祈りながら闊歩し続けた三名は、そこで魔物に襲われた。
異様な大輪の花を咲かせた敵は、こちらが攻撃さえしなければ向かってこない、謂わば反撃専門の魔物だった。そうした特質は近隣に生きるものなら誰でも知っている。退治された魔物が落とす金品を必要とする困窮に陥っていないなら、無視すれば良いだけの魔物なのだ。
が、青騎士団長は別だった。
唐突に現れた巨大花に驚いたのもあるが、もともと血の気の多い人物、ウィンらが止める間もなく魔物に駆け寄り、愛剣を振り翳してしまったのだ。
直ちに魔物は反撃に出る構えを見せた。それに気付いた赤騎士団長が咄嗟に親友を突き飛ばして攻撃範囲から逃れさせたが、代わりに自身が魔物の怒りを浴びてしまった。
通常、巨大な花弁が閉じて攻撃者を挟み込むのがこの魔物の反撃手段である。だが、このときばかりは様相が異なった。
突然あたりに舞った黄金色の夥しい花粉に包まれ、カミューは剣を取り落とし、両手で顔を覆い隠しながら崩れ落ちた。ウィンが慌てて紋章で花を焼き、その間にマイクロトフがひらひらと漂う金粉の中からカミューを救い出した。
けれど時既に遅く、花粉はカミューの琥珀の瞳に飛び込んでおり、激痛をもたらしていた。そればかりか、大量に吸い込んでしまったためか、呼吸にさえ支障を及ぼした。
癒しの魔法を施したところ、肺の毒素は消えたらしいが、眼の方は回復に至らず、結局そのまま帰還へ至ったという訳だった。
カミューを抱えて城の医務室に飛び込んだ一行であるが、生憎医師は離席中だった。探そうにも広大な敷地を鑑み、すぐに戻るという張紙を信じた方が良さそうだとの結論に達した彼らはカミューを寝台に横たえて待つことにした。
騒ぎを聞きつけた軍師に呼び出された盟主の少年が幾度も詫びながら席を外した後、室内には悲痛な怒声ばかりが残った。
「許してくれ、カミュー! おれがついていながら、おまえをこんな目に遭わせるなど……!」
と言うより、おまえの所為じゃないか───という突っ込みをすんでのところで飲み込んだフリックは、目を閉じたまま横になる青年を気遣わしげに覗き込んだ。
「しかし、あの魔物が花粉攻撃をしてくるなんて初めて聞いたな。回復魔法を使っても思わしくない、ってのは気掛かりだ。どんな感じだ、カミュー?」
すると白い美貌を微かに歪めた青年が静かに答える。
「最初の痛みは耐え難いものでしたが、今はそれほどでも……」
「すまないカミュー、おれは不甲斐ない男だ!」
「不甲斐なくてもいいからよ、少し静かにしろや、マイクロトフ……」
大柄な青騎士団長は先程からしきりに医務室の壁を叩いている。このままでは相棒が回復する前に部屋の方が壊れそうだと案じたビクトールが馬を宥めるかのように男の背を擦っていた。
「そうだよ、マイクロトフ……確かに少しはおまえの所為かもしれないが、花粉を浴びてしまったのはおまえを庇ったわたし自身の過ち、そんなに自分を責めるな」
声──と言うより、ガンガンと打ち鳴らされる壁──の方向を頼りに顔を向けたカミューが呼び掛ける。矢庭にマイクロトフはくしゃりと顔をしかめて唇を噛み締めた。
「こんなおれに優しい言葉を掛けないでくれ、カミュー」
「優しいも何も……騎士にとって負傷など茶飯事、取り立てて騒ぐものでもないさ」
「だが! おまえの綺麗な目にもしものことがあったら……見詰め合えなくなってしまったら!」
「大丈夫、治るよ。おまえの顔が見えなくなるのはわたしも悲しい」
───傭兵たちには言葉もなかった。
二人の騎士団長らが親友以上の関係であることは薄々感じていたものの、斯くも第三者の存在を忘れ去ったような遣り取りの渦中に置かれたとあっては、赤面すべきか、脱力すべきなのか。
「本当に大丈夫だよ、痛みも引いてきたし」
「目は……開けられそうか?」
仰臥するカミューの顔を覗き込むようにしてフリックが問う。
「ええ」
軽いいらえに歓喜したマイクロトフは、壁と別れてビクトールと共に寝台に向かい始めた。
赤騎士団長の甘やかな琥珀色の瞳はマイクロトフにとって何ものにも替えがたい宝玉である。
ただでさえ目というものには繊細な印象が付き纏う。何より剣士にとって視力がどれほど重きを為すかを知るだけに、その動揺は生半ではなかった。
ましてそれが自身を庇った負傷とあっては自責も底を突こうというもの。これ以上減り込むことも叶わぬ失意に落ち込んでいたマイクロトフにとって、回復の声は天の救いのようだった。
まだまだ予断は許さぬものの、痛みが消えただけでも幸いだ。斯くなる上は、漸く開かれる瞳を見詰め、その琥珀に映る己を確かめたい───マイクロトフの胸は高鳴った。
やや不安げな面持ちのカミューが小刻みに瞬きを繰り返す。
それから瞼がゆっくりと開き切って。
寝台まであと僅かに迫っていた男の歩みは凍りついたように止まった。
固まったのはマイクロトフばかりではない。二人の傭兵も同様だ。目を開くと同時に半身を起こしたカミューが、寝台横に立っていたフリックの腰に両腕を回したからである。
それは劇中、恋しい男に縋り付く乙女の姿そのままだった。傭兵の下腹部に愛おしげに頬を擦り寄せる青年の眼差しは熱っぽく潤み、唇は陶酔に綻んでいる。淫靡な光景と直面した自失から真っ先に立ち直ったのはビクトールであった。
「ちょい待て、カミュー! 確かに青いことは青いが、そいつは違うぞ」
魂を抜かれたような表情ながらも、フリックも続けた。
「そ、そうだ。冗談はよせよな、マイクロトフはあっちだぞ」
ところがカミューはきゅっと悲しげに眉を寄せるなり、いっそう強くフリックに抱き縋る。
「フリック殿……」
甘く切ない、吐息のような声色。ますますもって恋愛劇中の乙女を彷彿とさせる赤騎士団長である。
「ど……、どうしちまったってんだよ、いったい……」
「おれはどうすればいいんだ……?」
呆然と唸り合っていた傭兵たちを、だが更なる激震が襲おうとしていた。
「カミュー……」
医務室を揺るがす地鳴りのような呻き。両名が見遣る先、身体の脇に握り締めた拳を戦慄かせながら仁王立ちになった青騎士団長が蒼白の顔を歪めている。
「どういう、ことだ、カミュー……」
震え上がった傭兵たちは即座に自身らの役割を果たそうと気力を奮い立たせた。先ず、噴火寸前の活火山に蓋をしようと試みたのはビクトールである。
「お、落ち着け。これにはきっと、何か深い理由があるに違いない」
一方で、フリックは撓垂れ掛かる青年を剥がそうと必死だった。
「いいからひとまず離れろ、カミュー。気を確かに持ってくれ!」
だが、説得相手は聞く耳持たずといった様相だ。もがく傭兵の腰をしっかと抱えて頬を当てる青年に終に理性が断ち切れたのか、マイクロトフは残した距離を大股で詰めた。
「カミュー! おまえがしがみついているのはフリック殿だぞ、間違うな!!」
厳しく命じられたカミューは瞬き、縋る男を見上げる。しかし、次には一同を愕然とさせる言葉が続いた。
「間違っていない。ああ、フリック殿……」
言うなり彼は再び腕に力を込めた。
細身とは言え、鍛えられた剣士の腕力。締め上げられる苦悶を覚えつつ、仲間であるといった意識が禍して、フリックは全力でカミューを振り解けないでいる。そうする間にも白い頬が傭兵の腹部をなぞり続け、淫蕩度は増す一方だ。
「カ、カミュー……」
替われるものなら替わりたいのだろう。歪み果てた青騎士団長の厳つい顔と恨めしげな目つきが恐ろしく、フリックは細い声でうめき続けるばかりである。
「お……、おれは何もしていないぞ、本当だぞ? 別におまえの知らないところでカミューに言い寄ったり、恋文を贈ったりしてきた訳じゃない。信じてくれ、マイクロトフ───」
そこでハタと身を強張らせたマイクロトフが、これ以上ないというほど目を見開いた。
「心変わり……したというのか、カミュー」
「…………」
「おれではなく、フリック殿を選んだというのか!」
カミューは初めてマイクロトフに目線を合わせた。それから再び傭兵を見上げ、うっすらと頬を染める。
「……フリック殿が良い」
もたらされた告白は、三人を更なる硬直へと落とし込んだ。刹那、青騎士団長は髪を掻き毟って吠えた。
「何故だ! 確かにおれは不甲斐ない男だ。直接攻撃しなければ無害な魔物に斬りつけてしまったり、おまえが止めるのも聞かずステーキを三人前平らげたり……古いところではミューズに乗り込むと豪語しながら関所が通れず途方に暮れたりもした! だが……だが、おまえはそんなおれを真実本心から想ってくれていたのではなかったのか? 残雪に覆われたロックアックスで固く抱擁を交わしながら『生涯この世に一人だけ』と誓い合った夜を忘れてしまったのか!!」
ぜいぜいと息を切らせる姿が憐憫をそそる。二人の傭兵は涙ぐみそうになりつつ、息を詰めて青年の答えを待った。
勢いに押されたのか、暫し呆気に取られたようだったカミューが、やがてつと顔を伏せる。
「……覚えているとも。誓いに背く不実な男と蔑んでくれて構わない。でも、今はフリック殿のことしか考えられない。許してくれ……」
それは心からの陳謝であったのだろう。カミューは大粒の涙を溢れさせた。
端正な青年が傷ついた幼子のように肩を震わせる様は男たちの胸を突く。が、零れた涙を吸って下腹部の衣類が湿り始めたフリックだけは複雑な心境であるようだった。
よろよろとよろめき、終いには膝を折ったマイクロトフが両の拳で床を打ち据える。
「おまえを失っては、おれはおれでいられない! この先おれに、どうやって生きろというのだ!」
「言っただろう? 今のわたしにはフリック殿のことしか考えられない。そんな難しいことを聞かないでくれ」
「気を鎮めろマイクロトフ、床が抜ける!」
「だから、おれは何も悪くない。絶対に悪くない筈だ……」
荒れ狂う男たちの喧噪に割って入ったのは穏やかな声であった。
「───皆さん、診療室ではお静かに」
一同の必死の眼差しが向かった戸口には、笑顔の裏に並々ならぬ立腹を孕んだ同盟軍の名医が粛然と佇んでいた。
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