数ある寝室の扉のひとつを開けた赤騎士団長は、両壁に並んだ寝台を満足そうに一瞥した。それから悄然と後に続く青騎士団長に声を掛ける。
「元気を出せ、マイクロトフ。きっと元に戻るさ」
「………………」
「今は重要な任の最中、くよくよ悩んでいる暇はないよ」
するとマイクロトフは力なく首を振った。
「……分かっている。何よりも優先されるのは村人の安否……それは十分に分かっている」
項垂れる男にゆったりと歩み寄ったカミューは、幅広い胸にもたれながら優しく囁く。
「大丈夫だよ、そんな顔をするな。たとえ頭髪が無くとも、おまえはおまえだ」
「カミュー……」
マイクロトフは儚く微笑むと愛する青年の背に腕を回した。
「こんなおれを見ても……おまえの気持ちは変わらないと……?」
「当たり前じゃないか」
くすりと笑うと彼もしなやかな両腕で男を掻き抱く。
「わたしたちは生涯を誓い合った。歳を重ねれば容貌とて変わっていくものさ。髪が無くなることもあれば、歯が抜けることだってあるだろう。わたしはおまえの外見に惹かれた訳ではない、気持ちが変わろう筈がない」
「カミュー……」
「それとも何かい? 逆だったら、おまえは心変わりしたかい……?」
ツルツルした美貌の青年を思い浮かべようとしたが、マイクロトフの想像力では不可能だった。ただ、彼の言葉は泣きたくなるほど心に染みて、溢れる悲嘆を癒した。
「将来の予行と思えば苦にならないさ」
「予行……?」
「おまえの頭の形が良いことも分かったし、いずれこうなるかもしれないという心の準備も出来る。物事は悪い方ばかりに考えるものではないよ」
将来、頭髪と別れるかもしれないという想像は今一つ寂しいが、新同盟軍にはキバ将軍という良い例がある。威風堂々としたハゲっぷりは決して同情を誘わない。あれならば許容出来る、そうマイクロトフは思い直した。
最愛の伴侶の誠意溢れる情に感動し、彼はそっとカミューの顎を引き上げてくちづけようとした。しかし、微かな抗いによって情熱は遮られる。
「……駄目だよ、人様のお宅だということを忘れたのかい?」
「わ、忘れてなどいないが……」
さすがに借り物の寝台で滾る熱を満たそうなどとは思わない。ただ、失意の果てに二人きりになり、恋人の優しい思い遣りで慰撫された身としては唇くらい重ねたいのが本音というものだ。
大きな掌で俯き加減のカミューの頬を包み、瞳を合わせようとしたが、やはり彼は穏やかながらに首を振り、最後は腕から零れ出ようと身じろいだ。
「カミュー……?」
ふと、朧げな不安が込み上げるマイクロトフだ。これまでよりも少し力を込めて引き寄せようとした刹那、今度こそはっきりとカミューは逃れようとした。
「カミュー、やはりおれに幻滅したのか?」
「……馬鹿なことを言うな」
「ならば何故、逃げるんだ」
「そ、それは……」
唇を噛み締めて俯こうとする彼の両腕を掴み、揺さぶる。
「心は変わらないと言ったのは嘘か? やはり頭髪のないおれでは不満なのか!」
「そ、そんなことは…………」
「たとえおまえの髪や眉がなかろうと、おれの想いが揺らぐことなどない、だがおまえは今のおれには愛情を覚えないとでも言うのか?」
「違う、わたしは心からおまえを……」
ならば、と激昂した男は厳しく糾弾した。
「ならば何故、さっきから一度もおれを見ようとしないのだ!」
室内に入ってからカミューは優しく語り掛けはするものの、決してマイクロトフを見詰めようとはしないのだ。その事実に気づいた以上、詰問せずにはいられない。額の中央にリボンを揺らしながら、後退るカミューに必死の形相で詰め寄った───が。
「ならばわたしも言わせてもらう!」
唐突に鋭い逆襲が叫んだ。ずっと逸らされたままだった淡い琥珀が真っ直ぐにマイクロトフを凝視している。
「いつもいつも後先見ずに突っ走って……倒れていたおまえを見たときのわたしの衝撃が分かるかい? おまえが失われてしまうのかと……身も凍る想いが?」
「そ、それはすまなかったと……」
想い人の逼迫した様子に、確かに自責を覚えるマイクロトフは素直に詫びるしかなかった。しかしカミューの勢いは止まらない。
「それに比べたら髪が失われたことくらい何だ! 小さいことでくよくよ思い悩むな、何があろうとわたしはおまえを愛している!」
日頃沈着なカミューには似合わぬほどの情熱的な告白、しかもかなり自棄気味である。
「だ、だが」
おずおずと小声で問うてみる。
「……ならばどうしておれを見ようとしない?」
「仕方がないだろう!」
そこでカミューはぷいと顔を背けた。次第に肩が震え出す。
「……愛していても、可笑しいものは可笑しいんだ。慣れるには時間が要る! 逆の立場になればおまえにだって分かる筈だ」
「な、なるほど」
素直な気質である青騎士団長は珍しく言い負かされた。今回ばかりは赤騎士団長の迫力勝ちである。
「すまなかった……おまえの気持ちも理解せず、無理強いを……」
「分かってくれればいいんだ。愛しているよ、マイクロトフ」
言い放ったカミューは男の首に腕を回した───相変わらずまともに頭部を見ようとしないまま。
暫しそうして変わらぬ愛を確かめ合っていた二人は、控え目に叩かれた扉に名残惜しげに離れた。途端に伴侶が目に入らぬよう努めるカミューである。
「マイクロトフさん、カミューさん。フリックさんが戻ってきました。もう一度居間に来ていただけますか?」
指導者の少年の声だ。予想以上の早い戻りに二人は顔を見合わせ、ついうっかりとマイクロトフを正視してしまったカミューは呼吸困難に陥った。
「す、すまない……早く慣れるようにするから」
切々とした謝辞であるが、今はカミューの愛を確信出来たマイクロトフの表情は明るい。頭部の包み同様に朗らかな心地を誘う笑顔で首を振る。
「いいんだ、カミュー。ゆっくりと慣れてくれ」
肩を並べて居間に向かった二人は帰還したフリックを丁重にねぎらった。
「お帰りなさい、お早かったですね」
「ああ、まあな」
言いさして、表情が曇る。
「村人の話を聞いてきたぞ。やはり『ふさふさグレート』の襲撃を受けたらしい」
先程のようにソファに座り込み、一同はフリックが得てきた情報に耳を傾け始めた。
ずっと重かった村人の口も、こちらから水を向けると堰を切ったようになった。たちまち集まってきた彼らは我先にと忌むべき魔物の襲撃について語り出したのである。
それは平和な村の午後、家々がひとときの憩いに臨む刻限であったらしい。魔物来襲の報が村を駆け抜けた。
無論、武力などとは殆ど無縁の村である。満足な武器もあろう筈がなく、人々は恐怖に凍りついた。しかし、続いてもたらされた情報に安堵の息を洩らしたのだ。
襲ってきた魔物が『ふさふさ』と知るや否や、人々の緊張は一気に失われた。この敵の攻撃力は彼らも知っていたし、村の男たちが総出で掛かれば何とかなるだろう───そう考えたからだ。
一応は女子供と戦力にならない老人を避難させ、男たちは片手にホウキやモップ、果てはスリッパといった武器を握って目撃された魔物に向かって勇敢に挑んでいったのだと言う。
ところが、避難して集まっていた女たちの許にいつまで経っても迎えが来ない。これはおかしいと相談し合って、何とか勇気を振り絞って戦いの場となったあたりへ向かってみると、そこに人の気配はなくなっていた。
文字通り、男たちは消えてしまったのである。
「……そこで彼女たちは恐怖のあまり村を捨てて逃げてきた、という訳だ」
フリックが締め括ると陰欝な沈黙が忍び寄った。
「ね、ねえ……やっぱり『ふさふさグレート』に食べられちゃったのかな」
ナナミが恐ろしげに意見を述べる。
「確かに、痕跡も残さず全滅というのは……只事ではありません。その可能性も捨て切れない……」
カミューが思慮深い眼差しで同意する。
「マイクロトフさん、食べられなくて良かったね」
恐怖と安堵、そして未だ消えない可笑しさに涙目になって言う少女にマイクロトフは強く首を振る。
「おれは運が良かったかもしれないが、犠牲となった者たちを思うと……」
「運が良かった、ね……」
ポツリと呟くルックだが、今のところ突っ込む仲間はいなかった。
「ともかく、かなり状況が整理されてきた。肉食の可能性もある危険きわまりないモンスターだ。気を引き締めて掛かろうぜ」
フリックの言葉にウィンが決然と同意する。
「特殊攻撃に関してはマイクロトフさんの尊い犠牲のお陰で対処が出来ますからね。はい、フリックさんが取ってきてくれたサングラスです」
総員はテーブルに並べられた黒眼鏡を一つずつ取った。ただ一人支給から外されてしまったマイクロトフが怪訝そうに首を傾げる。窘めるようにルックが言った。
「あんたはもう一度特殊攻撃を受けるんだろう? サングラスしてたら駄目じゃないか」
「そ、そうか……そうでした」
頭を掻こうとして、指先に触れた布の感触に呆然とする。またしても侘しさが込み上げるが、これも再度敵に遭遇するまでの辛抱だと必死の自制に務めた。
「あ……っと、そうだ。頼まれていたカツラなんだが……」
フリックがガサガサと床から大きな包みを取り上げるのを見た一同は知らず緊張に身を堅くした。
「ヴァンサン殿……やはりお持ちでしたか?」
「ああ。まあ……数はあまりなかったけどな」
言いながら包みを解き、そこで彼は痛ましげにマイクロトフを見遣った。
湯上がり御婦人風・青騎士団長。それと開かれた包みの奥に在るものを幾度か見比べ、深い溜め息をつく。
「……これでも一番地味そうなものを選んできた。マイクロトフ、おれを恨むなよ」
フリックが取り出したヴァンサン・ド・ブール所有の装飾品のひとつ、カツラ。
それは彼のきらびやかな心の友、シモーヌ・ベルドリッチを思わせるかの如き豪奢で豊かな、しかも腰まで届こうかという黄金の巻毛であった。
← 前回の試練 次の試練 →